藤原道長の母「時姫」 道長の元服晴れ姿を見届けて死別
- 2023/12/19
藤原道長の母、時姫(ときひめ、930年代?~980年)は藤原兼家の正室で3男2女に恵まれました。その子たちは、道隆、道兼、道長のいずれもが関白か摂政に就いており、超子(とおこ)、詮子(あきこ)は天皇の生母となります。
兼家の繁栄を支えましたが、多くの側室、愛人がいた兼家には苦労させられたかもしれません。時姫の生涯をみていきます。
兼家の繁栄を支えましたが、多くの側室、愛人がいた兼家には苦労させられたかもしれません。時姫の生涯をみていきます。
実家は受領階級 夕辻占いで玉の輿?
時姫は摂津守・藤原中正(なかまさ)の娘です。時姫の生年は不詳ですが、兼家の側室である道綱母と同年代とみて、大きく外れていないはずです。道綱母は天暦5年(955)、20歳で兼家次男・道綱を出産。時姫はその2年前の天暦3年(953)、長男・道隆を産んでおり、承平6年(936)生まれと推定される道綱母と同い年だと18歳での初産です。13年後に道長を産みますので、この時はそれなりに若かったはず。
あくまで仮定ですが、延長7年(929)生まれの兼家とは7歳差になります。
父は摂津守・藤原正中 山蔭流の中級貴族
藤原中正は中納言・藤原山蔭(やまかげ)の七男。中正の子孫は伊達氏を、中正の兄・有頼の子孫は安達氏を輩出し、山蔭流は名門武家につながりますが、藤原北家の中でも摂関家、九条流とはかなり遠い親戚です。中正は右近衛少将や摂津守を歴任。受領(地方長官)に就く階層で、典型的な中級貴族といえます。時姫の運を開いた夕辻占い
中級貴族の娘だった時姫の運が開けた転機として、『大鏡』に夕辻占いの逸話があります。時姫は若いとき、二条大路に出て夕辻占いを聞きます。これは夕方、道端に立って行き交う人々の話を聞いて吉兆を占う習俗。偶然通った人の言葉を神託と捉えます。このとき、1人の白髪の老婆が立ち止まり、時姫に話しかけて、ひょいと行ってしまいました。
老婆:「あなたは何事でもなさりたいと思うことはみな、かないますよ」
老婆は人間ではなく、神霊のような存在で、時姫の未来を告げたのです。そして、時姫は右大臣・藤原師輔の三男という御曹司・兼家の妻に。貴族としての勢いをみれば、実家との差は大きく、まさに玉の輿です。
兼家の正室 ライバルは『蜻蛉日記』作者
藤原兼家の妻、愛人は明らかな女性だけでも9人。その中で時姫が産んだ3男2女と、ほかの女性が産んだ子とは昇進、嫁ぎ先に明確な差がついており、時姫が正室だったことは間違いありません。兼家の側室の中では、『蜻蛉日記』作者である道綱母が時姫にライバル心を持っていました。この女性は実名が不明で、「道綱母」と呼ばれています。
3男2女いずれも摂政関白、入内
時姫が産んだ3男2女は、男子は兼家長男・道隆、三男・道兼、五男・道長で、いずれも摂政か関白に就いて政界の頂点に立ちました。長女・超子は冷泉天皇の女御となり、三条天皇を出産。三女・詮子は円融天皇の女御で、一条天皇の生母です。道綱母とは賀茂祭見物でバチバチ?
兼家次男の道綱は大納言まで出世。高官には違いありませんが、道隆や道長とは大きな差があります。その道綱の母の心情は『蜻蛉日記』に細やかに書かれています。時姫と道綱母との和歌のやり取りもあります。天暦10年(956)5月、道綱母から歌が贈られます。
道綱母:「そこにさへかるといふなる真菰草 いかなる沢に根をとどらむ」
(そちらにも訪れなくなったマコモグサ=兼家は、いったい、どこの沢辺に根を下ろし、どんな女の所に居るのでしょうか)
(そちらにも訪れなくなったマコモグサ=兼家は、いったい、どこの沢辺に根を下ろし、どんな女の所に居るのでしょうか)
時姫:「真菰草かるとはよどの沢なれや 根をとどむてふ沢はそことか」
(あの人が寄りつかないのは私の所。根を下ろしているのはあなたの所と聞きましたが)
(あの人が寄りつかないのは私の所。根を下ろしているのはあなたの所と聞きましたが)
続いて9月にも道綱母とやり取り。
道綱母:「吹く風につけてもとはむささがにの 通ひし道は空に絶ゆとも」
(夫の訪れを知らせるという蜘蛛の通う道の糸はふっつり絶えてしまっても、吹く風に託してお便りを差し上げようと思います)
(夫の訪れを知らせるという蜘蛛の通う道の糸はふっつり絶えてしまっても、吹く風に託してお便りを差し上げようと思います)
時姫:「色変はる心と見ればつけてとふ 風ゆゆしくも思ほゆるかな」
(風に託してお便りをくださるとおっしゃいますが、その風は草木の色も変わる秋の風、つまり夫の心変わりを比喩する風だと思うと、いまわしく感じます)
(風に託してお便りをくださるとおっしゃいますが、その風は草木の色も変わる秋の風、つまり夫の心変わりを比喩する風だと思うと、いまわしく感じます)
2人とも兼家が自分から足が遠のいたと自虐しています。また、康保3年(966)4月には賀茂祭で鉢合わせ。道綱母の問いかけに、下の句を返します。
道綱母:「あふひとか聞けどもよそにたちばなの」
(今日は葵祭で人の「逢う日」と聞いていますが、あなたは素知らぬ顔でお立ちになっていて……)
(今日は葵祭で人の「逢う日」と聞いていますが、あなたは素知らぬ顔でお立ちになっていて……)
時姫:「きみがつらさを今日こそは見れ」
(あなたこそ。あなたの薄情さを今日ははっきり見てとりましたよ)
(あなたこそ。あなたの薄情さを今日ははっきり見てとりましたよ)
下人同士が乱闘 側室の家が近すぎた?
安和2年(969)1月2日には時姫と道綱母の下人同士が乱闘騒ぎを起こします。互いのライバル意識が仕える者にも影響したようです。このとき、兼家は道綱母に同情しますが、道綱母は家が近いのが原因と、少し離れた所に転居しました。道綱母は『蜻蛉日記』の中で、兼家がほかの女性に気を移していることをたびたび嘆きますが、道綱出産後も長期間にわたって夫婦関係を維持しており、一時的な愛人とは明らかに違います。
一方、時姫は兼家との関係が疎遠になったと自虐しているものの、天暦7年(953)の道隆から康保3年(966)の道長まで13年間に5人の子に恵まれました。正室として家を守っただけでなく、いろいろあったとしても、兼家の愛情は長く変わらなかったのです。
道長15歳、初の叙位直後に死去
天元3年(980)1月7日、15歳の道長は従五位下に叙されました。母・時姫の死は14日後の1月21日。時姫は道長の元服の晴れ姿や貴族としての第一歩を見届けたと思われます。先述の推定ならば、時姫は45歳前後。道長にとって早すぎる母との死別でした。時姫死去を1月15日とする史料もありますが、後年、道長は1月21日に母を弔っていて、この日が命日のようです。
夫・兼家の摂政就任は見届けられず
時姫が死去した天元3年(980)、夫・藤原兼家は52歳で右大臣。摂政就任まであと一歩でしたが、この時点では兼家が政権を握れるかどうかは微妙な情勢でした。政治権力の中心は、兼家ら兄弟の九条流(藤原師輔の家系)か、小野宮流(師輔の兄・実頼の家系)か、どちらが握るか未確定の状態。兼家は師輔三男。天禄元年(970)、兼家の兄である師輔長男・伊尹(これまさ)が摂政に就任し、次は兼家に期待が集まり、兼家自身も自信に満ちていましたが、天延2年(974)、師輔次男・兼通が関白、続いて貞元2年(977)、実頼の次男・頼忠が関白に就きます。
兼家は次兄や従兄弟に先を越され、摂政就任は寛和2年(986)。時姫との死別から6年が経っていました。
道長、母の命日は毎年供養
藤原道長の日記『御堂関白記』は、寛弘7年(1010)や寛弘8年(1011)の記事に、1月21日を母の命日として「例年同様、儀式を営んだ」と書かれています。また、寛仁元年(1017)2月27日には公卿10人ほどを引き連れて、木幡(京都府宇治市)にある父・兼家、母・時姫、姉・詮子の墓参りをしており、道長は母・時姫を大切に弔い続けたことがうかがえます。おわりに
『蜻蛉日記』には藤原兼家の浮気に悩む道綱母の心情が浮き彫りになっています。側室にしてこのありさまですから、正室・時姫の苦悩や嫉妬は如何ばかりかと心配になります。時姫自身は何も残していませんが、『蜻蛉日記』の中で、挑発的な道綱母とのやり取りを見ると、正室の余裕が感じられる場面もあります。時姫の実家は藤原北家の中でも傍流の中級貴族で、苦労して育ったと考えられます。裕福に育ち、わがままな兼家をうまく操縦し、内助の功を発揮したのではないでしょうか。
【主な参考文献】
- 大津透、池田尚隆編『藤原道長事典』(思文閣出版、2017年)
- 菊地靖彦、木村正中、伊牟田経久校注・訳『土佐日記 蜻蛉日記』(小学館、1995年)
- 犬養廉校注『蜻蛉日記』(新潮社、1982年)
- 保坂弘司『大鏡 全現代語訳』(講談社、1981年)講談社学術文庫
- 倉本一宏『藤原道長「御堂関白記」』(講談社、2009年)講談社学術文庫
- 山中裕『藤原道長』(吉川弘文館、2008年)
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