伊達政宗の人柄がわかる!?LINEトーク風に逸話をご紹介
- 2019/01/01
- 【原作】『伊達日記』『常山紀談』ほか
- 【イラスト】Yuki 雪鷹
- 【脚本】戦ヒス編集部
政宗幼少期の逸話(梵天丸時代)
※『名将言行録』より
政宗の幼名を「梵天丸」といった。5歳のときに城下の寺に行って仏壇の不動を見ると、近臣の者に言った。
梵天丸
これは何なのだ?実に猛々しい姿だ。
とある近臣
はい。それは不動明王と申しまして顔つきは猛々しいですが、慈悲深く、衆生をお救いになるものです。
梵天丸
そうか。それでは武将の心得とすべきものだな。
これを聞いていた者たちは不思議に思った。
梵天丸は8、9歳で小学に入って礼楽(=中国の礼儀と音楽のこと)を学び、詩を詠んで弓や馬を習った。1を聞いて10を知るような才をもち、他の者よりも優れていた。しかし、性格は心が広くて情にあふれ、人に対しては恥ずかしがり屋な一面もあった。
近臣の中には梵天丸のことを "将の器ではない" と思う者もいたが、ただ、片倉景綱だけは梵天丸の英姿に感心しており、のちに他の者たちも景綱の鑑識と従うようになったという。
政宗の神速果敢な攻め(1587年)
※『名将言行録』より
天正15年(1587年)、最上氏の調略で伊達家臣の鮎貝忠旨が謀反をおこし、鮎貝城で兵をあげた。これを受けて政宗はすぐさま挙兵しようとしたところ、老臣たちが言った。
━━ 政宗居城 ━━
老臣たち
老臣A:おそらく最上から援兵が送られてくる事になるかと存じます。その上、我が家中には鮎川の他、最上と内通する者がいるとのうわさもございます。
老臣B:まずはご探索をして、兵数のご手配をなされてからご出馬するのがよろしいかと。。
政宗
うむ。各々が申すことはもっともだが、そのように事を延ばす事も時と場合による。今は火急のときだ。
戦というものは不意をついて勝利することが往々にあり、物事は決まっているようで決まっておらぬものだ。最上から加勢があるとしても、場合によってはその時期が遅れることもあろう。小勢かもしれぬし、敵が評議している間に攻め散らすことが最も重要だ。
老臣たち
老臣A:ううっ。(すいぶんと勇んでおられるのう。)
政宗
敵のはかりごとが成してからでは事は難しくなろう・・・。汝らは家中に鮎貝の他に敵と通ずる者があろうと考えておるようだが、わからぬ先の心配よりも、目の前のことをすることだ。
老臣たち
老臣A:ぐぬう・・
政宗
鮎貝をそのままにして事が大きくなり、あちらこちらで家中に謀反人が出れば、一気に退治することは難しくなるであろう。時を移さずして行なうことが勇将の本望だ。早く出立せよ!
こうした政宗の命によって、急いで出陣した家臣らはやがて一騎駆けのような形で駆けつけて打ちよせ、鮎貝城への攻撃を開始。
鮎貝は最上に援軍を要請したが、援軍は誰一人として来なかったために最上領へ逃亡。こうして伊達勢は鮎貝城を奪取して帰陣したのであった。
━━━━━━
老臣たち
老臣A:このたびの勝利はなんとも殿のご決断によるたまものじゃな。
老臣B:うんうん、さすがというべきところじゃな。
こうして家中の者たちは、政宗の神速果敢なところに感心したのである。
敵将の年齢を見抜く(1589年)
※原作:『名将言行録』
天正17年(1589年)、二階堂氏の一派が抵抗した「須賀川の役」のときの話である。
このとき、ある敵将2人の戦いぶりをみながら、政宗は言った。
政宗
むう、あれはなかなかの勇士だな。1人は20歳ぐらいで、もう1人は30余歳であろうか。
そして、政宗は田村月斎と橋本刑部に命じて彼らを生け捕りにさせ、年齢を聞いてみた。
政宗
お主ら、名と年を申してみよ。
すると、政宗の言ったとおり、 "大浪新四郎21歳"、"遠藤武蔵35歳" ということであった。
とある家臣
殿はなぜ、2人の年がわかったのでございますか?
とある家臣が政宗に問いかけると、政宗は・・・
政宗
1人は勇んで相手を選ばずに戦っておった。そのような戦い方は弱冠の者のすることだ。もう1人は強い相手を避け、弱い相手を選び、進退のツボをよく心得ておった。壮年にならなければできぬことだ。
と答えたという。
この戦いは、政宗と内応する二階堂氏一門の保土原行藤が先導役をつとめたことで、須賀川城を攻め落とし、勝利を収めた。ここに政宗は会津平定を成し遂げたのであった。
「人は堀・石垣・城」とは真の事(1589年)
※原作:『名将言行録』
天正17年(1589年)の末頃、政宗はついに会津を平定し、東北の地で屈指の規模を築いていた。
こうした情勢をみた政宗の老臣や宿将らは互いに話し合った上、政宗に進言した。
老臣たち
老臣A:昔と違って今では諸大名同士が参会され、他家からの使者も多くなりますが、我が城は小さくて粗末で、城下もまたずいぶんと狭くなりました。
老臣B:そろそろご普請になり、ご城下を開かれるのがよろしいかと。このままでは外聞もいかがなものかと存じます。
政宗
うむ。それはもっともだが、わしは城を普請しようなどとは思わぬ。城などに念を入れるのは、あちらこちらに申し合わせて「敵が攻めてきたら助勢して下され」などと約束するような小身の者たちであろう。そういう者たちは堅固に普請をすればよいのだ。
老臣たち
老臣A:!!
老臣B:!!!
老臣C:!!!!
政宗
しかし、わしは昔から他国の大将に頼り、助けを求めて生き延びよう等とは思っておらぬ。
敵が攻め寄せてくれば境界まで討って出るか、もし、分が悪ければ退いて敵を領内に引き込み、家中の者たちと申し合わせ、精を入れて一か八かのいくさをやって、敵をくじくか討死するかのどちらか、と前から決めておる。
籠城して数カ月を送ったところで、家中は騒ぎ、助けてくれる隣国もなければ、むなしく城内で餓死するだけのことだ。
ましてや汝らが言うように、今は領土も手広くなって軍勢も昔の10倍にもなったのだ。おそらく近国はわしの領分へ手をだす者はおるまい。
老臣たち
老臣A:・・(なんとも勇ましい。。)
政宗
わしはこの城を大事にして、ここに無駄にいつまでも居座ろうとも思わん。
来春には軍を率いて出立し、向かってくる者は敵、従ってくる者は味方として関東に旗を立てて新たな土地を切りひらくつもりだ。だから今、わしは「戦の掟、軍費、功を立てたものを賞すこと、不忠不義のいましめ」など、すべて道理にかなったものにしようと朝夕考えておる。
老臣たち
老臣A:なんと!
老臣B:そのようなことをお考えとは・・
政宗
そこでまず第一には、みなが愚痴や恨みのないようにと思うておる。
古い家々が滅ぶのをみると、家中に恨みを持つ者がおり、君に背いて敵と内通し、そして家中が騒ぎ出してついに身を滅ぼすということが少なくない。禍は内にあって外から来るのではない。他家の者がきて、この城の粗末さを笑うことは、わしとしても恥ずかしいことだが、国のためには替えられぬ。
わしの領国が広がるにつれ、お主らも少しずつ領地の加増を受けて妻子を養い育てていけるのは、お主らが精を出して奉公してくれるおかげだ。
老臣たち
老臣A:ううっ(なんともありがたき言葉じゃ~。)
老臣B:・・(わしゃこのお方に一生ついて参るぞ~。)
政宗
古歌に「人は堀、人は石垣、人は城、情けは味方、あだは大敵」とある。フフフ、これはまことのことだな。
こう言って政宗は笑った。家中の者たちはこれに感服して退出したのであった。
小田原遅参での死に装束(1590年)
※原作:『伊達日記』ほか
これは小田原征伐の際、秀吉に参陣を求められた政宗が遅れて秀吉の元に馳せ参じたときのことである。
政宗は会津の蘆名氏を滅ぼすと、続いて出羽・白河に転戦し、小田原へ着いたときには同城を包囲してから2ヶ月もたっていた。
豊臣のとある家臣
殿下!奥羽の伊達政宗が到着したようです。
秀吉
遅すぎるわ。政宗と会うつもりはない。さがれ!
秀吉は怒って政宗と面会もしなかった。政宗は秀吉に会えず、箱根山中に閉じこもっていた。
━━ 数日後 ━━
秀吉
長政と玄以よ。おぬしら政宗に会って遅れた理由を問いただせ。
秀吉は遅延の理由を詰問するため、浅野長政・前田玄以らを使者として政宗のもとへ向かわせた。そして政宗と対面すると・・・
前田玄以
!!!!?
浅野や前田らは政宗の姿をみて驚いた。
政宗の姿は、甲冑の上に白い喪服を着るという「死に装束」だったのである。しかし、箱根山中での閉居中、千利休を招いて茶道を教わっていた。
━━ 別の日 ━━
政宗のことを聞いた秀吉は・・
秀吉
死生の境におるというのに風流を学ぶとは・・・なんとも大胆な男か。
そう言いながら、秀吉は初めて引見することにし、政宗が挨拶に訪れた。
政宗
小田原を抜かれるのも目前のこと、祝着至極に存じます。
秀吉
うむ。遅れたことは憎いが、こうして顔をあわせた以上、もう気にはせぬ。遠来の馳走に陣営をみていくがよい。
こうして秀吉は案内のために先に立ち、1人の小姓を引き連れただけで、後ろも振り返らずに、豊臣陣営を案内した。このとき政宗には刀を持たせたままであったという。
秀吉
どうじゃ。奥羽の小競り合いとは趣がちがうであろう。今後の参考に合戦の配置をよく確認しておくがよい。
━━ また別の日 ━━
政宗は国元に以下の旨を知らせたのであった。
- 6月9日に出仕。
- 6月10日朝には茶の湯に召し出され、名物の茶器を拝見する。
- 小田原の陣所は普請中。
- 秀吉は芝生で腰かけに座り、徳川家康・前田利家ら諸将が控えていた。
- 秀吉は「政宗、政宗」と2回読んで小田原城の見える場所で杖で地を指し、攻城の策を語る。
政宗、豊臣家中で話題に!「尋常の者ではない」(1590年)
※『名将言行録』より
小田原征伐(1590年)の後、秀吉は天下統一仕上げのため、残る関東と奥州の地の仕置を行なうことになった。このとき秀吉は鎌倉を経て会津へ向けて出陣するとのことで、政宗が先発として小田原を出発した。
秀吉の会津出陣は、鎌倉幕府の源頼朝が奥羽合戦で鎌倉から宇都宮へ入り、宇都宮大明神に奉幣して奥州平定したことに倣ったものである。
豊臣諸大名らが宇都宮に着陣すると同時に、政宗の領地に調査の者や目付らが派遣されたが、とても物静かで軍勢がくりだされたり、籠城したりしそうな気配は全くなく、豊臣諸将らは皆不思議がったという。
そして秀吉が宇都宮城に着陣すると、政宗は家老・片倉小十郎景綱の1人だけを召し連れ、手勢は少数で宇都宮へ向かい、城下の禅寺に宿をとり、豊臣奉行の大谷吉継のもとへ景綱を遣わせた。
━━ 大谷吉継の居にて ━━
小十郎が大谷吉継に会うと、政宗から吉継宛ての文を読み上げた。
片倉小十郎
「先日はじめて伺い、色々とおもてなしを頂き、過分のことに存じます。そのおりに申し上げましたとおり、私めはお上を軽んずる意は全くございません。しかし、何を申すにも全くの田舎者ゆえ、物事をわきまえず、いささか兵を動かしたことは、今さらのごとくに恐れ入り、悔やんでおります。」
片倉小十郎
「それゆえ、蘆名領は申すまでもなく、本領米沢の城地ともに、お上へ献上いたしますので、ご裁定を下され、伊達の名跡相続の件につきましては、ひたすらご貴殿のお取りもちに預かりたく存じます。この件につきましては事前にうかがうべきことですが、道中病気になったゆえ、まず小十郎をつかわして申し入れる次第でございます。」
片倉小十郎
・・・以上にございます。
こうして小十郎は述べ終わると、2つの箱を取り出して大谷吉継に差し出した。
大谷吉継
・・これは?
小十郎はまず一つ目の箱を開けて言った。
片倉小十郎
これは蘆名旧領の絵図目録帳面にございます。
そう言って吉継に渡した。
片倉小十郎
もうひとつの箱は、政宗の先祖より伝えている米沢領絵図目録でございます。
続けてそう言い、小十郎はこの箱も開けようとしたが、吉継がこれを制止した。
片倉小十郎
・・!?
大谷吉継
その箱は封のまま我らが預かり申そう。
大谷吉継
お申し越しの趣意は逐一承りました。病気は油断なきようになさるよう、政宗殿にお伝えくだされ。
こうして伊達政宗が秀吉に降り、宇都宮へ参陣したことが奥州諸将に伝わると、出羽・奥州のあらゆる諸将らは非常に驚き、我先にと宇都宮へ馳せ参じたという。
ある者は名代をもって贈物を送り、機嫌を伺うようになってきたので、秀吉はしばらく宇都宮城に留まり、奥羽をことごとく手中にしたということである。
その後、大谷吉継から、「秀吉公がご対面なさるということなので、片倉殿を召し連れて、明早朝に登城なさるように。」との連絡があり、翌日、政宗らは秀吉のもとへ出仕した。
━━ 宇都宮城 ━━
政宗らは秀吉と対面。料理を賜り、一通りの茶席等があった。その後、政宗は秀吉に呼び出されると、吉継が例の箱を持ち出してきて、政宗の前に置いた。
秀吉
・・政宗。会津旧領の地は召し上げるぞよ。
伊達政宗
!!!
秀吉
そなたのいう本領米沢も召し上げるべき所じゃが・・・
まあ、そなたの心入れに免じ、そのままそなたの領地とするがよい。
伊達政宗
・・ははぁ!ありがたきお言葉。
秀吉
わしも近く帰京するゆえ、そなたも早々に国元へ帰るがよい。
こうして政宗はその箱を頂戴し、一礼を述べて帰ったという。その際、大谷吉継が小十郎に言った。
━━ 帰り際 ━━
大谷吉継
・・ところで、会津はいつごろのお明け渡しになりますかのう?
片倉小十郎
はい。黒川(=のちの会津若松)をはじめ、その他の城も既に明けており、城番の侍足軽が少々居残っているばかりですから、明日にでも差し上げることができましょう。
この返答に、豊臣家中は「政宗は言うまでもなく、景綱も尋常の者ではない」と、色々と話題に上がったという。
派手な戦装束で出陣(1593年)
※原作:『常山紀談』ほか
朝鮮出兵(文禄の役)のとき、政宗が秀吉から渡海を命じられたときのこと。
政宗の本拠は遠い東北の地のため、騎兵30騎・鉄砲100挺・槍100本という軽い軍役を課せられたが、政宗はそれをはるかに超える1000余の軍勢で東北から出発した。
━━ 京都━━
京の人々
京の人A:ん?おい!あれをみてみろ!!
京の人B:おお、なんと見事な!!
その他大勢:がやがや、わーわー
政宗の軍勢が行進してきたとき、京の人々はその姿に驚いて目を見張った。
とある家臣
殿、町の者はみな驚いて見ておりますな。
政宗
フフフ。
政宗隊らが身につけていた戦装束は非常に絢爛豪華なものであった。
まず先頭に伊達家の家紋の入った旗30本を立てた兵たちが
- 紺地に「金の丸」を付けた具足を着用
- 刀の鞘には銀ののし付き
- 頭には金色の尖り笠
といった出で立ちで登場。さらに続く弓・鉄砲隊も同じ姿であった。
そして馬に乗る30人が登場すると、
京の人々
京の人A:おおおおおーー!
京の人B:まぶしすぎるーー!
その他大勢:わーーーーーー!
それは、
- 黒の上衣に、金色の半月形の浮き出た豹の皮を着る
- を鞍の下に掛けられた、孔雀の尾や熊の皮で作った馬鎧。
- 刀の鞘には金ののし付き
- 頭には金色の尖り笠
という出で立ちであり、あまりの見事さに京の人々は驚いて歓声を上げたのであった。
とある家臣
と、殿!みな大歓声ですぞ!!
政宗
ハッハッハ!
この異風から「伊達者」という言葉が生まれたのである。
政宗、家康の計らいで転封を逃れる(1595年)
※『名将言行録』より
文禄4年(1595年)、関白・豊臣秀次の謀反のうわさがあったとき、政宗もこれに同調しているといううわさがあった。これを知った秀吉が怒って政宗に伊予国への転封を命じたときのことである。
━━ 家康の居所にて ━━
政宗は伊達上野ほか1人を遣わし、家康に泣きついた。
徳川家康
どのような用で?
伊達上野
はっ!実は伊予国へ転封の件を仰せつけられました。まさに伊達家の浮沈に関わることでございます。我が主は「貴殿のご賢慮を仰ぎ奉るほかございませぬゆえ、なにとぞよろしくお願い申し上げます。」とのことでございます。
徳川家康
ほう、それは難儀ですな・・。
そして家康は2人の使いに茶飯を賜ったが、あせって急ぐ伊達上野が言った。
伊達上野
我ら主・政宗がさぞや待ち遠しく思っているところでございまするゆで、早く帰って貴殿のご返事を申し聞かせたく思うのですが・・・。
これを聞くと、家康は大声で言った。
徳川家康
そなたらの主・越前守は表面は強そうに見えるが、実のところは腰ぬけで芯がしっかりせぬからそのように狼狽するのだ!
伊達上野
!!!
そして、さらに続けて家康は言った。
徳川家康
四国へ行き、魚の餌になるか、ここで死んでしまうのがよいか、よくよく分別すべきところだ。
家康は重ねて、秀吉からの裁定があったときの返事を2人に色々と教え、2人は帰っていった。
そして家康は秀吉のところへすぐに向かい、また、政宗のところへは秀吉からの使者がきて、承諾の返答と伊予へ向かう事を催促したのであった。
━━ 政宗の居所にて ━━
秀吉の遣いの者が政宗の宿所へ行ってみると、そこの門前には弓・鉄砲・槍・長刀をもった者たちが居並び、すぐにでも打ってでようとする有様であった。政宗は秀吉からの使者であることを聞いて、無刀で出迎えて座に案内し、話を聞くと涙をはらはらと流しながら言った。
政宗
上様のご威勢ほど世にありがたいものはございません。また、お上のご勘気をこうむるほどの不幸もありません。今そう思いました。それがしは、たとえ首をはねられようとも異議はございません。ましてや伊予を賜っての国替になんの異存もございません。
政宗
しかし、譜代の下々の者はきっぱりと訴え申しております。「なぜ数十代のご領を離れ、他国に流浪することがあろうか。すみやかにここで腹を切られ、我らは一人も生きてこの地を去り、他人に渡す考えはない。」と。しきりに自害を勧めるので、色々説得をしても家臣らは一向に同意せぬのでございます。
政宗
ご覧のように狼藉がましいことでありますが、お上からすっかりご勘当の身となった今となっては数十代の家人さえ、それがしの下知に耳を貸さぬ有様となりましたことも思えば仕方なき事でございます。
━━ 秀吉の居所 ━━
秀吉の使者
かくかくしかじか・・・と申しておりました。
豊臣秀吉
ううむ・・・。
こうして使者は政宗の言い分を持ち帰って秀吉に申し上げたが、その場にちょうどいた家康が横から言った。
徳川家康
いかにもそのように承っております。政宗1人が命に背いて旧領を去らぬというのであれば、それがしに仰せつけられれば、すぐに政宗のいる宿に押し寄せ、踏みつぶす事はたやすいことにございます。
豊臣秀吉
うむ・・・。
徳川家康
このたびこちらへ供をしてきた千にも足らぬ小勢でさえ、家人らがそう思っているとすれば、国に残っている多勢の者らが国を退去するとはとても思えませぬ。もし家人どもを追い払うご賢慮がおありでしたら、それがしにお任せくだされ。
豊臣秀吉
ぐくっ!!
徳川家康
・・・しかしながら、異代の所領を没収なさることは、その家人どもの愁訴する心もかわいそうに存じますゆえ、ここはひとつ、曲げてお許しなさるべきとも思いますが。。
豊臣秀吉
・・・あいわかった。この一件はおぬしに任せようぞ。
こうして政宗の国替えは結局なかったことになり、勘当も許されたという。
※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。
コメント欄