「藤原為光」娘の忯子が花山天皇の子を懐妊するも、兄・藤原兼家(道長の父)との権力争いに敗れる
- 2024/01/10
藤原道長や頼通など、平安時代に摂関家として栄華を極めた藤原氏。非常に華々しいイメージのある藤原氏ですが、当然そこに至るまでには藤原家内でも権力争いがありました。
藤原兼家(道長の父)の家系が摂関家として盤石なものとなる裏で、権力争いに負けていった一人に兼家の異母弟である “藤原為光(ふじわら の ためみつ)” がいます。山川出版社『日本史』教科書にも記載されないほどマイナーな存在の為光ですが、藤原家内の権力争いに敗れていく様子は、なかなか印象的です。
そこで今回は、この藤原為光に注目してみましょう。
藤原兼家(道長の父)の家系が摂関家として盤石なものとなる裏で、権力争いに負けていった一人に兼家の異母弟である “藤原為光(ふじわら の ためみつ)” がいます。山川出版社『日本史』教科書にも記載されないほどマイナーな存在の為光ですが、藤原家内の権力争いに敗れていく様子は、なかなか印象的です。
そこで今回は、この藤原為光に注目してみましょう。
藤原為光とは
藤原為光は藤原師輔の九男として天慶5年(942年)に生まれます。円融天皇・花山天皇の時代に非常に重用され、藤原兼家(為光の異母兄)と摂政の座を争った人ですが、結果的には兼家が摂政となり、権力争いに敗北。結局、摂政関白になることができなかった為光は、太政大臣になった翌年、51歳で亡くなってしまいます。
これだけ書いた時点で既に残念な感じを受けますが、彼のキャリアをもう少し詳しく見ていきましょう。
35歳で筆頭大納言へ
為光は若い頃から才能を認められ、20歳のときに右近衛少将となり、翌年には武官ながら五位蔵人にもなります。「右近衛少将」とは、禁中の警護をする役職です。夜間警護の時間帯によって左近衛(21時~0時半すぎ)と右近衛(1時~4時半すぎ)に分かれます。大将は長官(かみ)、中・少将が次官(すけ)となり、中将は“おおいすけ”、少将は“すないすけ”と読みます。また、「蔵人」とは天皇の秘書的役割を行う蔵人所の役人で、五位蔵人はその次官の位です。
そして順調に昇進し、31歳のときには権中納言、35歳で大納言となっています。因みにこの時点で為光はライバルの兼家よりも上の立場にありました。しかしその後は、右大臣を辞した兼家の後釜として44歳で右大臣に、50歳のときに兼家の子・道隆の推挙で太政大臣となります。
さて、ここで着目すべきは、大納言昇進から右大臣就任までの9年の間に、為光と兼家一族の立場が逆転しているということです。この間に一体何が起きたのでしょうか?
花山天皇に愛された娘 “忯子”
為光を語るうえで外せないのが娘“忯子”の存在です。彼女の運命が、順調に昇進・出世していた父為光の人生に大きく影響したといっても過言ではないでしょう。忯子は、花山天皇から
「夜昼わかぬ御文もて参れ」
(昼夜も関係なくお便りを持って帝の使者が参上する)
と、熱烈なラブコールを受けて永観2年(984年)、為光42歳の時に入内します。
その時の様子は
「いとおどろどろしきまでにて参らせたまへり。」
(大々的に入内なさった。)
とのことです。
花山天皇の子(しかも男子)を産めば外戚として摂政関白も夢ではありません。為光は相当な期待を持って華やかに娘を入内させたに違いありません。ただ、少し不安も感じていたのではないでしょうか。
花山天皇は女好き?
花山天皇は非常に女好き、という評判が残っています。また、花山天皇は忯子の入内前は藤原兼通(兼家の兄)の子である朝光の娘(姫子)を溺愛しておきながら1ヶ月ほどで「たはぶれの御消息だに絶え果てて」
(かりそめの御消息すらも絶えてしまって)
「人目も恥づかしうて、すべなくてまかでたまふを、いささか御出入をだに知らせたまはずなりぬ。」
(人目が恥ずかしくて、何もすることができずに宮中を出て行ってしまったが、帝はそういった御出入さえ知ろうとしなかった)
というように、女性に対して熱しやすく冷めやすい性格だったようです。
そんな天皇のもとに自分の娘を入内させるわけですから、為光には相当な覚悟と不安があったと思われます。実際、姫子の父・朝光はショックで一時 “引き籠り” 状態になってしまった程ですから。
忯子の愛されっぷり
しかし、父為光の不安は杞憂に終わります。忯子は花山天皇からとても愛されました。その愛されっぷりは他の女御方から
「いとさまあしう。かかることは今も昔もさらに聞えぬことなり」
(とても見苦しいこと。このような扱いは今も昔も聞いたことがない)
「久しからぬものなり」
(とても長続きはすまい)
と噂されるほどでした。
そのうち、忯子は花山天皇の子を懐妊します。為光にとっては外戚となるビッグチャンスが到来したのでした!
忯子の早すぎる死
しかし、寛和元年(985年)に忯子は懐妊8カ月で亡くなってしまいます。この時の残された者(為光と花山天皇)の悲しみたるや「書きつづけずとも思ひやるべし」
(書かなくても推察してください)
と『栄花物語』は読者に言っているにも関わらず、為光の悲しんでいる様子を
「伏しまろび泣かせたまふ」
(転げ伏してお泣きになる)
「ただ倒れまどひたまふさまいみじ」
(ただよろめき倒れんばかりのお姿がいたましい)
のようにしっかり書いています。
花山天皇に至っては
「夜一夜御殿籠らで思しやらせたまふ」
(毎晩寝ることもせず、忯子のことをお偲びあそばす)
といった状態で、傷心のあまり遂には出家・退位に繋がってしまうのです。
相当、忯子のことを愛していたのですね・・・。
忯子の死が藤原兼家一族の勝利を決定づけた
この忯子の死は、為光が外戚の地位を失うだけでなく、ライバル兼家側の勝利を呼び込むきっかけとなりました。花山天皇は傷心の中、兼家・道兼父子の策略によって出家・退位させられてしまいます(寛和の変)。そして、次に即位した一条天皇の外戚にあたるのが兼家であり、その思惑通りに摂政に就任。この瞬間、為光と兼家の立場は逆転し、二度とひっくり返らぬ関係となってしまうのです。
多少汚い手ではありますが、花山天皇退位&一条天皇即位に用意周到だった兼家側に対し、ただ悲しみ続けていた為光。“先を読む力” と “好機を逃さない行動力” が兼家側にはあったのですね。この力が兼家一族による藤原摂関家の全盛を作った基盤だったのでは、と私は考えます。
兼家一族に利用された為光
兼家は摂政就任後、太政大臣(藤原頼忠)や左大臣(源雅信)との上下関係から離れるため右大臣を辞任します。そして、兼家の後釜として為光が右大臣に任じられます。また、兼家の跡を継いで摂政となった長男道隆の推挙によって太政大臣となります。これらの人事は、周囲に兼家一族と為光の力関係の差をはっきりと見せつけるために役立ちました。
為光は兼家一族の権力誇示に利用されたのでしょう。当然、為光本人もそれを自覚したのでしょうか。以降は、亡くなった娘忯子のために
「ただ法師よりもけにて、世とともに御おこなひにて過ぐさせたまふ」
(もっぱら法師よりも格別に、ずっと勤行三昧にお過ごしである)
「明暮そこに籠らせたまひてぞおこなはせたまふ」
(明け暮れ法住寺に籠って修行なさっておられる)
だったようです。
娘の死によって権力争いに逆転負けしてしまったような人生。それを恨むことや悔いることなく、娘を弔い続けた父としての為光。そんな彼は太政大臣となった翌年、51歳でその生涯を閉じました。
おわりに 『大鏡』での評価
いかがだったでしょうか?藤原氏の栄華に隠れた敗北者、藤原為光。彼について『大鏡』では
「法住寺をぞ、いといかめしうおきてさせたまへる。摂政・関白せさせたまはぬ人の御しわ
ざにては、いと猛なりかし。この大臣、いとやむごとなくおはしまししかど、御末細く
ぞ。」
(法住寺をとても壮大に造営なさいました。摂政・関白をなさらなかった方の事業として
は、とても豪勢なものです。この大臣はとても高貴でいらっしゃいましたが、ご子孫は振
るいませんでした。)
と高く評価しています。
しかし、娘忯子の死が、為光と彼の一族の行く末を変えてしまったのでしょうか。この時代、いかに天皇の“外戚”となるかが重要なことだったと再認識させられましたね。
<注>
- ※原文の現代語訳に関し、直訳すると難しい表現箇所は筆者による意訳としています。
- 『栄花物語①』山中裕 他 校注・訳(小学館、1995年)
- 『大鏡』橘健二、加藤静子 校注・訳(小学館、1996年)
- 『平安朝 皇位継続の闇』倉本一宏 著(角川選書、2014年)
- 『摂関政治』古瀬奈津子 著(岩波書店、2011年)
- 『新訂 官職要解』和田英松 著(講談社学術文庫、1983年)
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