世に出る前の田中角栄 新潟の寒村に生まれた少年の心に刻まれたこと

田中角栄像
田中角栄像
 “今太閤” とも “目白の闇将軍” とも言われた田中角栄(たなか かくえい)。政治にかかるカネを一桁増やしたと言われながら、いまだにその力を懐かしむ声も聞かれます。そんな彼の少年時代とはどのようなものだったのでしょうか?

幼い角栄の心に刻み込まれた事

 大正7年(1918)5月4日、田中角栄は新潟県刈羽郡二田村大字坂田、現在の柏崎市西山町坂田に生まれました。日本海に沿って連なる小高い山並みを少し入った、夏はカンナが咲き秋はコスモスが咲くような穏やかな農村でした。冬の大雪を除けば…。

 長兄は幼くして亡くなり、姉2人妹4人の唯一の男児として長男を意味する「アニ」とか「アンニャ」と呼ばれて育ちます。

 父親の角次は馬喰の鑑札を持ち、牛馬商を営んでいましたが、これは損得の大きい危険な商売でした。父親の買った何十頭もの朝鮮牛が近くを通る越後線の西山駅に着いて大騒ぎになったとか、逆に買い付けたホルスタインが死んでしまい、やけ酒を飲んで父親が暴れたとか賑やかな話もありましたが、商売は次第に傾いていき、家は貧しくなっていきます。

 大正12年(1923)9月1日、角栄5歳のときに関東大震災が起きました。その翌日から越後線に乗って、震災で焼け出された親戚が角栄の家へ避難して来ます。そんな親戚たちをみて、角栄は無性に悲しく、子供心に東京の人たちは嫌な人たちだと思いました。

角栄:「米も味噌もよくまああんなに持てるものだと思うぐらいたくさん担いで帰って行った。私の母は朝まだ暗いうちから田圃に出て働き、牛や馬の世話もしている。そんな働きの賜物をあの連中は何食わぬ顔をして金も払わず持って行ってしまった」

 この時、心に刻まれた ”東京モンはろくでもない” との思いは、生涯変わらず角栄について回ります。

少年時代は吃音に悩む

 角栄は演説の名人と言われますが、子供時代は小さいころに患ったジフテリアの後遺症で吃音(きつおん)に悩んでいました。

 せっかちな性格とも相まってなかなか治りません。小学校の先生にいたずらをしたと誤解され、うまく説明できず、硯(すずり)を床に叩きつけたりします。これではいけない、と学芸会の芝居「弁慶安宅(あたか)の関」に弁慶役を希望し、どもらないようにセリフを歌うように読み上げ、これをきっかけに徐々に吃音を克服して行きました。

 彼は吃音に対してこのような持論を述べています。

角栄:「しゃべるのは必ず下顎ですが、どもりの人は下顎の動きが少しのろい。しかし頭の回転は速い。頭の回転と下顎の動きのスピードが合わないのですな。だから頭の中のダイアルが2回回る時に下顎を合わせて行く、するとしゃべれるんです。機械でも大きな歯車と小さな歯車をかみ合わせるとうまく回る、あれですな」

上京して建築事務所を立ち上げる

 大正14年(1925)4月、角栄は尋常小学校に入学します。角栄はこの学校に高等科2年を加えて8年間通いました。これが彼の学歴の全てです。

 後年、立花隆は角栄を「抽象思考ゼロの経験主義者」と評しますが、角栄の生涯の思考形式は実感的・経験的・人生訓的でありました。角栄に大学での抽象的想像力・体系的思考を学ぶ機会はありませんでした。多彩な人生経験と人一倍の向学心で多くを学んだ角栄ですが、その基本思考は実践・経験です。

 昭和8年(1933)3月、角栄は卒業を迎え、ずっと級長を通してきた彼は総代として答辞を読みます。成績の良かった角栄には柏崎の中学校へ進む道もありましたが、父の商売がうまく行かず、朝から晩まで働きづめの母を見ていた角栄に進学の選択はありませんでした。

 と言っても世の中は不景気。角栄はとりあえず見つけた土方の仕事を始めます。その後、県の土木事務所の給仕をしている時、隣村の役場の職員の口利きで、子爵・大河内正勝(おおこうちまさかつ)の家に書生として住み込み、学校へ通えるとの話が舞い込みました。

 行き違いがあってこの希望はかないませんでしたが、せっかく勉強しようとして上京した角栄は東京に住み着き、昼間は工事現場で働いて、夜は神田猿楽町にあった私立中央工学校に通います。

 そして昭和12年(1937)の春、「共栄建築事務所」を興して独立します。その頃、駒込三丁目に事務所兼住まいとしてアパートを借りていた角栄には、身の回りの世話をしてくれる女性がいました。この女性と角栄は男女の関係にあったようです。

 ほかにも、上京してからの角栄のまわりには、電話番をしていて知り合った「三番くん」や、小さなおでん屋の「桃ちゃん」、新潟長岡の料理屋萬世楼(まんせいろう)で雪の夜に出会った美人など、何人かの女性の姿が見られます。

角栄、入隊する

 建築事務所を立ち上げさてこれからという昭和13年(1938)春、角栄は故郷の柏崎で徴兵検査を受けます。甲種合格でその年の暮れに盛岡騎兵第三旅団第二四連隊第一中隊への入隊通知を受け取りました。

 昭和14年(1939)の春、角栄ら新兵は広島に集められ、満州に向かいました。角栄は生まれて初めての船旅が珍しく、元気一杯で戦地へ向かう緊張感はありません。北朝鮮のラジン港に着き、そこから汽車とトラックでソ連国境近くの駐屯地フーチンに辿り着きます。

「初めて肌に当たる満州の風は春とは名のみ刺すように冷たい」

 著書『私の履歴書』に書かれている角栄の軍隊生活の始まりです。軍隊時代、角栄は力仕事はからっきしダメでしたが、意外に達筆で上官たちに重宝され、また人の心に取り入るのもうまく、部隊内の暴力支配からするりと抜け出します。

 昭和15年(1940)、角栄はクルップ肺炎に罹り、胸膜炎も併発して内地送還されます。角栄の病は重く、親元に「病重し」の第一報電報が打たれます。二報は「危篤」で三報で「死す」となり、一報と二報の間に一階級兵の位が上がる発令があります。

 角栄は自分が第一報患者だと知り「俺もダメかな」と思い、医者たちも角栄の持ち物を調べて親に渡す遺品の整理を始めました。2週間生死の境をさまよった挙句、角栄は持ち直し、そこへ除隊通知が届きます。以後、角栄に召集令状は来ませんでした。

 軍人傷痍記章を持っていたのが影響したのかもしれません。2年7ヶ月の軍隊生活が終わり、角栄はどんな環境でも死なずに上手く生き抜く知恵を学びました。

 戦後、土木建築業で成功した角栄は回りの勧めもあり、昭和22年(1947)4月、戦後2回目の衆議院選挙で新潟三区から出馬し、当選者5人のうち3位当選します。

 所属政党は民主党。“今太閤”、“目白の闇将軍” への第一歩です。

おわりに

「東京モンはろくでもない」

 この思いは高学歴者への不信感と共に角栄の生涯について回ります。しかし角栄はそんな連中が幅を利かす政界に飛び込み、日本列島改造論で全国に新幹線網を引いて回ろうとします。

「地方に光を当てたい、中央と同じように楽な暮らしができるようにしたい」

 角栄生涯の悲願でした。

「泥沼の政界決算白書――決算委員誌上討論會」(『文藝春秋』32巻16号、文藝春秋新社、1954年10月)に掲載された肖像写真(出典:wikipedia)
「泥沼の政界決算白書――決算委員誌上討論會」(『文藝春秋』32巻16号、文藝春秋新社、1954年10月)に掲載された肖像写真(出典:wikipedia)


【主な参考文献】
  • 馬弓良彦『戦場の田中角栄』(毎日ワンズ/2018年)
  • 早野透『田中角栄 戦後日本の悲しき自画像』(中央公論新社/2012年)
  • 佐高信『田中角栄伝説』(光文社/2016年)

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  この記事を書いた人
ichicokyt さん
Webライターの端っこに連なる者です。最初に興味を持ったのは書く事で、その対象が歴史でした。自然現象や動植物にも心惹かれますが、何と言っても人間の営みが一番興味深く思われます。

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