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  • 毛利元就
 2019/06/28

「毛利秀包/小早川秀包」あの著名な武人と義兄弟!?武勇に秀でた元就九男の生涯とは

毛利秀包の肖像画

毛利元就の数ある子のなかで、あまり目立たないものの武勇に秀でた人物がいました。それが男子としては末っ子にあたる、九男の毛利秀包です。異母兄の隆景の養子として秀吉の人質となったことで知られますが、毛利の武将としてはあまり有名ではありません。

「三本の矢」の兄たちとは親子ほど年の離れた秀包、その生涯を解説します。
(文=東滋実)

隆景の養子になるまで

毛利秀包(ひでかね)は永禄10(1567)年、元就の九男として誕生しました。母は元就の継室あるいは側室とされる乃美弾正忠弘平の娘(乃美大方)。幼名は才菊丸といいます。

このとき元就はナント70歳という老齢。すでに長兄である隆元は亡くなっており、秀包誕生の4年後には元就も亡くなってしまいます。

大田氏の後継となる

父・元就が亡くなった元亀2(1571)年には、断絶した備後国戸坂氏の75貫の遺領を与えられます。また、同じころ同国の大田兵部大輔英綱が死去し、大田氏も断絶。大田の家臣に懇願される形で大田の後継となり、大田元綱と名乗るようになります。

小早川家の養子に

天正7(1579)年、13歳となった秀包は、今度は異母兄である小早川隆景の養子になります。秀包の母・乃美大方が小早川氏に連なる乃美氏の出であることから、実子のない隆景の養子となることが決定しました。養父となった兄の隆景自身、秀包の武勇の才を見込んで養子にした、ともいわれています。

小早川隆景の肖像画
元就死後、毛利両川の一角として毛利家を支えた小早川隆景

ほどなくして元服した秀包は、小早川藤四郎元総(もとふさ)と名乗るようになりました。

なお、この頃の毛利は将軍足利義昭の後ろ盾となり、織田信長と覇権争いを繰り広げていた時期にあたります。

秀吉の人質として

天正10(1582)年、信長の死によって天下の趨勢は秀吉へと傾いていきます。備中高松城の戦いの後、毛利は講和の条件として秀吉に人質を送ることに。その実行は翌年9月。毛利家臣の福原元俊と、吉川元春の子・経言(のちの広家)、そして当時17歳の秀包の3人が大坂へ送られています。

秀吉に気に入られて偏諱を与えられる

秀包以外のふたりは11月に帰国しましたが、秀包は秀吉に気に入られて留まります。

秀包の容姿が良かったため気に入られた、という話もありますが、養父である隆景が秀吉に寵愛された関係も大きかったと思われます。秀吉の一字を賜って「秀包」と改名したのもこの人質時代のことでした。

キリシタン大名

天正13(1585)年2月に帰国した秀包は直前に河内1万石を賜って大名に取り立てられており、6月の四国討伐では戦功によって伊予国宇和郡の3万5千石を与えられ、着々と出世していきます。

翌年からの九州征伐には、養父の隆景とともに出陣。天正15(1587)年に隆景が秀吉から筑前一国と筑後・肥前の2郡を賜って転封すると、秀包は筑後3郡を与えられ、久留米城主となります。大友宗麟の娘を娶ったのもこのころでした。

立花宗茂と義兄弟の契りを交わす

転封後すぐ起こったのが肥後国人一揆です。このとき秀包は討伐軍の一員として出陣しており、同じく討伐軍として出陣していた立花宗茂とともに戦功をあげます。宗茂は大友氏の一族で、秀包の妻の父・大友宗麟は主君にあたります。そういった縁もあってか、二人は意気投合して国人一揆の戦勝祝いの場で義兄弟の契りを結びました。

武名が高いことで知られる立花宗茂
武名が高いことで知られる立花宗茂

天正17(1589)年、秀包は従四位下侍従となり、豊臣姓が下賜されます。これにより、「羽柴久留米侍従」と呼ばれました。

洗礼を受けてキリシタン大名に

義父の大友宗麟はキリシタン大名であり、洗礼名を「ドン・フランシスコ」といいます。おそらく秀包も彼の影響でキリスト教に関心を持ったと思われ、洗礼を受けて「シマオ・フィンデナオ」の名をもらい、以後はキリシタン大名となりました。その後は城下に天主堂を建設するなどしています。

九州の戦国・キリシタン大名として名を馳せた大友宗麟
九州の戦国・キリシタン大名として名を馳せた大友宗麟

輝元養子問題

文禄・慶長の役での活躍

毛利が主力として参加した朝鮮出兵。秀包は1500の兵を率いて義兄弟の立花宗茂とともに大いに活躍し、その戦功により筑後守となりました。

輝元の養子問題勃発により、別家を立てる

異母兄・隆景の嫡男として生きてきた秀包でしたが、ここにきて問題が生じます。秀吉は実子が誕生したことにより、養子としていた秀俊(秀秋)を他家に養子に出すことを考えたのです。その先として持ち掛けたのが、まだ実子のない毛利輝元でした。

この話を聞かされた隆景は思案します。

「このまま毛利宗家に豊臣の血(厳密にいえばおねの甥ですが)が入ることになれば、男系の血を守ってきた毛利両川体制は崩れてしまう…」

毛利宗家に他家の血を入れることを何としてでも避けたい隆景は、自らの養子にもらいたいと願い出ることでこの問題を回避しました。

が、小早川家にはすでに嫡男として秀包が養子に入っています。秀吉から養子をもらうからには、嫡男に据えなければなりません。そこで隆景は文禄2年(1593年)に秀包に別家をたてさせ、空いた嫡男の座に秀秋がおさまることになったのです。

<a href='https://sengoku-his.com/679'>小早川秀秋</a>の肖像画
小早川秀秋の肖像画

果たして、小早川家としてはこれで良かったのか……。ちなみにこの頃の秀包はすでに筑後国久留米を拠とした13万石の大名だったとされています。

関ケ原の戦いと最期

慶長5(1600)年、天下分け目の関ケ原の戦いにおいて、当然ながら秀包は西軍として出陣しました。敗れた毛利は改易され、領地は大幅減。秀包は翌慶長6(1601)年に体調が悪化し、34歳の若さで没しました。

あのとき、隆景が秀秋を養子に迎えなければどうだったのでしょう。あまり状況は変わらなかったかもしれませんが、もしかすると小早川家が途絶えることはなかったのかもしれません。

隆景は毛利宗家の行末を考えて行動に出ましたが、小早川家についてももう少し考えるべきだったように思えます。以後、秀包の子孫の吉敷毛利家は、長州藩の家老として存続していくことになります。


【主な参考文献】
  • 河合正治 編『毛利元就のすべて』(新人物往来社、1996年)
  • 利重忠『元就と毛利両川』(海鳥社、1997年)
  • 河合正治『安芸毛利一族』(吉川弘文館、2014年)
  • 『国史大辞典』(吉川弘文館)





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