「毛利元就」三本の矢のエピソードで有名な中国地方の覇者!

戦ヒス編集部
 2021/06/21

毛利元就の肖像画

一介の国衆から中国地方の覇者にまで登り詰めた武将をご存じでしょうか。三本の矢のエピソードで有名な毛利元就(もうり もとなり)です。

元就は大内氏や尼子氏という二大勢力の狭間にありながら、逆にその力を利用して勢力を拡大。やがて彼らに代わり、中国地方8ヶ国支配という偉業を成し遂げます。そんな戦国最高とも言える知将の生涯は当然のごとく、合戦続きでした。

さて、毛利元就の生涯をみていきましょう。

誕生~家督継承

元就は明応6(1497)年、毛利家当主・毛利弘元の次男として誕生しました。幼名は松寿丸。母は福原広俊の娘です。出生地は母の実家の鈴尾城(福原城)と伝わっています。

毛利家は南北朝時代より安芸国吉田庄(広島県高田郡吉田町)に定住し、国衆として成長。弘元の代には安芸国の有力国衆の中で頭角をあらわします。

しかし、当時の安芸国は北九州と中国地方に絶大な勢力を誇る守護大名・大内氏の勢力下にあり、毛利家は一介の国衆にすぎませんでした。

父弘元の苦悩

このころ、中央では「明応の政変」によって将軍足利義材が追放されて以来、管領の細川政元が幕政を掌握。時の将軍12代足利義澄は、政元の傀儡でしかなく、足利義材(のちの義稙)は京都の奪還を虎視眈々と狙っていました。

明応7(1498)年以降、義材が大内氏の元に身を寄せると、応仁の乱以来鎮まっていた「大内氏 vs 細川氏」の対立が再燃します。

こうした情勢下、弘元はその狭間で悶々と苦しみ、明応9(1500)年には、大内氏と細川氏の圧力から逃れるべく、わずか8歳の嫡男・幸千代丸(のちの毛利興元)に家督を譲り、二男の元就をつれて猿掛城に逃げ込むのです。

両親と死別し、養母に支えられる。

幼少の元就は、次々と不幸にみまわれることになりました。

まず文亀元(1501)年に母を亡くし、永正3(1506)年には続いて父・弘元も酒毒で亡くしてしまいます。弘元は「大内氏、細川氏のいずれに従ったものか」と散々悩んだ挙げ句、酒に溺れて死に至ったようです。

これにより、元就はわずか10歳にして孤児に。さらには毛利家臣ぼ井上元盛に所領を横取りされて、城からも追い出されてしまうのです。

そんなかわいそうな元就を支えたのが父弘元の継室・杉大方(すぎのおおかた)です。彼女は再婚もせずに元就を養育しています。

杉大方の墓所(広島県安芸高田市多治比)
杉大方の墓所(広島県安芸高田市多治比)

元就は永正8(1511)年に15歳で元服し、"多治比(丹比)元就" を名乗って分家を立てます。永正13(1516)年、20歳のときには、兄・興元も酒毒で亡くします。このとき興元の嫡男である幸松丸がまだ幼かったため、元就が後見役をつとめることになりました。

初陣と家督相続争い

元就の初陣は永正14(1517)年の有田中井手の戦いとされており、このとき安芸武田氏を撃退して家中での名声を高めます。さらに大永3(1523)年には安芸鏡山城を陥落させています。

この頃の中国エリアは、大内氏と尼子氏という二大勢力が石見をめぐって対立しており、毛利をはじめとする周辺の国衆たちはその狭間でどちらの味方になるか苦悩していました。当時の安芸鏡山城は大内氏の支配下にあったので、この時点で元就は尼子氏に属していたようです。

この年は元就にとっての転機となります。というのも幼君・幸松丸がわずか9歳で亡くなり、毛利家中において後継者争いが勃発したからです。

元就にとっては家督を継ぐチャンス。しかし元就自らが行動を起こすことはなかったようで、家臣たちの推挙によって後継者に担ぎ出されています。元就は重臣たちの期待の星だったのか、このとき毛利一門・譜代重臣15名の連署書状が作成されています。

しかし、その後の家督継承はすんなりといきませんでした。これを不満とした一門衆、坂広秀・渡辺勝らが元就の異母弟である相合元綱を擁立し、元就暗殺計画を企てたからです。

尼子氏もこの対抗勢力に肩入れして、毛利家のお家騒動に介入していたらしいです。しかし、元就はこれに先手を打って元綱を倒し、晴れて毛利家のトップの座を射止めることになるのです。

大内氏傘下で勢力拡大

元就は家督継承を機に尼子氏から離反。大永5(1525)年には再び大内氏傘下であることを明確にします。以後は大内氏の権勢を背景に勢力拡大へと向かいます。

高橋氏を討伐

享禄2(1529)年、勢力拡大の第一歩として高橋氏一族を討伐します。

高橋氏は兄・興元の正室の実家で、元々は友好関係にあり、その所領は安芸国と石見国にまたがっていて備後国や出雲国にも入り込んでいました。つまり、大内氏傘下の国衆連合の中でも「盟主」の地位にある大きな国衆でした。

しかし、先の家督争いの際には相合元綱に加担していたため、これを許さなかった元就は高橋氏を滅ぼし、安芸から石見にかけての広大な領土を得るのです。

こうして毛利氏は大内氏傘下の国衆連合のトップの座に一気に躍り出ます。

尼子攻めを再開

享禄3(1530)年には、尼子氏でお家騒動が勃発。一方、大内氏も北九州において大友氏や少弐氏と争っていたことで、このころの両氏は和睦状態にありました。つまり「今はお互いに無用な争いは避けましょう」ということです。

大内義隆の肖像画(龍福寺 蔵)
大内氏の最盛期の当主となった大内義隆。のちに陶氏の謀反によって自害に追い込まれる。

この間にも、毛利氏と大内氏の関係は強化されていきました。まず天文2(1533)年、元就は大内義隆の推挙で従五位下・右馬頭に任じられます。さらに天文6(1537)年、元就は嫡男の少輔太郎(毛利隆元)を人質として大内氏に差し出しています。

やがて大内氏と大友氏が和解すると、尼子氏と大内氏の和睦が破綻。そんな中、尼子氏で新当主となった血気盛んな尼子詮久(のちの尼子晴久)が元就討伐を決意。天文9(1540)年、3万もの尼子の大軍が、元就の居城である吉田郡山城に攻め込んできます。(吉田郡山城の戦い)

毛利氏の本拠、吉田郡山城跡
毛利氏の本拠、吉田郡山城跡

当初、元就は尼子方の圧倒的な兵力を前に籠城戦で挑むしかありませんでした。しかし、大内義隆の重臣・陶隆房(のちの陶晴賢)率いる1万もの援軍を得ると形勢は逆転。翌年には尼子軍を撤退させることに成功したのです。

戦後、元就の威勢は鳴り響き、さらに尼子経久が死去したことも手伝って、尼子方の国人衆らは相次いで大内氏や毛利氏に転じました。

また、同じ頃に安芸武田氏が滅亡。元就は安芸武田氏傘下の川内警固衆を組織化し、後の毛利水軍の基礎を築いていきます。

月山富田城の戦いで大内氏が大敗

天文11(1542)年、経久の死を好機ととらえた大内義隆は、陶隆房らの勧めもあり、尼子の本拠・出雲国への遠征に打って出ます。これが大内軍の大敗を招いた第一次月山富田城の戦いです。

難攻不落で知られる尼子氏の本拠・月山富田城
難攻不落で知られる尼子氏の本拠・月山富田城

大内軍は大軍にもかかわらず、守りの堅い月山富田城を攻略できず、兵糧の欠乏や家臣の寝返り等が重なって撤退を余儀なくされました。このときの撤退戦で、元就は外様家臣だったゆえに殿(しんがり)を命ぜられ、尼子軍の追撃の中を命からがら逃げ帰っています。

以降、大内義隆は合戦を忌み嫌い、文化に傾倒するようになり、大内家中でも軋轢が生じるなど、大内氏の勢力は後退していきます。

元就の婚姻戦略

元就は勢力拡大の手段として合戦ばかりしていたわけではありません。養子・婚姻政策も次々と推し進めていきました。この動きこそが、計略性に富んだ元就の真骨頂です。

小早川家の乗っ取り

まずは小早川氏に対する政策をみていきましょう。

小早川と毛利氏は、元就の兄・興元の娘が竹原小早川家に嫁いで以来、婚姻関係にありました。天文10(1541)年には竹原小早川家の当主・小早川興景が病死しますが、男児がいませんでした。

竹原小早川家からの要請、大内義隆からの勧めもあったことで、元就は天文13(1544)年、竹原小早川氏の養子に三男・徳寿丸(小早川隆景)を送り込んでいます。

6年後には、小早川の宗家にあたる沼田小早川家の家督を隆景に継がせることにも成功します。沼田小早川家当主・小早川繁平は若年で病弱な上に盲目だったことから、元就と大内義隆が共謀したのです。このとき、反対した沼田小早川家の宿老たちは粛清されています。

吉川家の乗っ取り

次に吉川氏に対する政策を見てみます。

毛利氏と吉川氏は、元就の正妻・妙玖が吉川国経の娘だったことから元々は血縁関係にありました。ただ、吉川氏の本領は出雲の尼子氏と接しており、尼子との繋がりも強いものがありました。実際、当主・吉川興経は第一次月山富田城の戦いで元就ら大内方を裏切って尼子に転じています。

興経は武勇に長けた将だったことから、元就は「興経は手強いから、なんとしても武力衝突は避けねばならない…」と養子戦略を練り、天文16(1547)年に次男・元春を養子に送り込みます。

養子を送ったことに代わり、興経の命の保証を約束。また、興経の嫡子・千法師を元春の養子にして、ゆくゆくは家督を継がせるという約束も取り交わしたようです。

しかし天文19(1550)年、元就は無情にも興経、千法師ともども暗殺し、吉川家を乗っ取ることになります。

このあたりには元就の冷徹さも垣間見えますね。こうして元就は安芸の名族として知られた小早川・吉川の両氏を一族に組み入れ、いわゆる「毛利両川」と呼ばれる体制を築いたのです。

主家・大内氏を滅ぼす

陶晴賢の謀反

天文20(1551)年、大内氏では、文治派の台頭によって排除されていた陶隆房がついにクーデターを敢行。長門大寧寺で大内義隆を自害に追い込みました。(大寧寺の変)

隆房は翌年、義隆の養子だった大友晴英(大友宗麟の異母弟、のちの大内義長)を擁立。隆房は "晴賢" と改名して大内氏の実権を掌握します。

元就はこのクーデターに関してウラで同意していたとされています。事実、このクーデターの後、元就は陶晴賢に従属しています。しかし、嫡男の隆元は、「陶晴賢はいずれ毛利にも攻めてくるはず。油断ならない!」と主張し、陶氏打倒を唱えていました。のちに元就もこの主張を受け入れ、やがて陶氏と決別することになります。

厳島の戦いで陶氏を討つ

こうした中、天文23(1554)年、石見の吉見正頼が晴賢に叛旗を翻し、三本松城の戦いが勃発。吉見氏は同じ大内家臣でありながら、陶氏とは応仁の乱以来の仇敵でもありました。

このとき、元就は吉見氏と晴賢の双方から出陣要請をうけ、「どちらにつくのが得策か…」としばらく様子を見ていましたが、ついに晴賢との決別を選択。兵を挙げて安芸から晴賢勢力を一掃します。(防芸引分)

これに対し、晴賢はすぐさま元就討伐の軍を派遣。安芸国の折敷畑山で両軍は激突するものの、元就が勝利しています。(折敷畑の戦い)

弘治元(1555)年、ついに陶氏と毛利氏の戦いは決着を迎えます。毛利軍は兵力差で圧倒的に不利でしたが、元就の類まれな計略により、陶晴賢を滅ぼします。いわゆる「厳島の戦い」です。

暴風雨の中で渡海する元就を描いた『大日本名将鑑 毛利元就』(月岡芳年 画)
暴風雨の中で厳島に渡海する元就。(月岡芳年 画)

防長経略により、大内氏を滅ぼす

大内氏は晴賢の死だけでなく、家中では私闘や離反も重なり、弱体化に拍車がかかっていました。元就はこれに乗じて防長経略(ぼうちょうけいりゃく。周防国と長門国への侵略のこと)に乗り出します。

防長経略の要所マップ。色が濃い部分は周防と長門国。赤マーカーは元就が攻略していった大内方の城。

新興勢力である毛利軍の侵略に反感を強め、一揆が頻発しますが、翌弘治2(1556)年には一揆の勢いも一段落し、毛利軍によって鎮圧されます。

一方、防長への侵攻では、毛利勢の前に都濃郡須々万の沼城が大きく立ちはだかりました。この城は、三方が深い沼池に固まれた城塞だった上に、大内氏の援軍や一揆軍も加わって籠城したため、陥落までに1年以上を要します。

弘治3(1557)年、激戦の末にようやく沼城を陥落させると、その後まもなく大内義長は自害、大内氏は滅亡しました。これにより、元就は安芸・備後に加え、周防・長門を支配し、4か国を有するまでになります。

石見銀山の争奪戦

防長経略の間、元就は二男・吉川元春を石見国に出兵させ、大内氏の支配下にあった石見銀山を奪取することに成功していました。

しかし、永禄元(1558)年には尼子晴久に石見銀山の山吹城を落とされ、石見銀山を奪われてしまいます(忍原崩れ)。これをきっかけに毛利氏と尼子氏による石見銀山争奪戦は激化していきます。

石見銀山公園(島根県大田市大森町)にある銀山遺跡模型
石見銀山公園(島根県大田市大森町)にある銀山遺跡模型

こうした中、翌永禄2(1559)年に将軍権威の再建を目指した13代将軍・足利義輝が全国の和平調停に動き出し、毛利氏と尼子氏の両者に対しても、幕府からの使者を通じて和平勧告がなされました。

石見制圧を急ぐ元就はこれを無視して、石見に繰り返し出兵。しかし永禄4(1561)年には、九州で大友軍に豊前門司城を攻撃され、石見でも福屋隆兼が謀反を起こしたため、元就は豊前と石見の2方面に対処するハメに。結局、尼子氏との和平調停に応じ、翌年にかけて和睦を成立させています。(芸雲和談)

和睦後の永禄5(1562)年、元就は福屋隆兼を攻略、続いて尼子方で石見銀山を守備する本城常光を降伏させました。これにより石見経略が成ったのです。

尼子を滅ぼし、中国の覇者へ

石見経略によって毛利の威光はさらに強まり、出雲国の有力国衆も毛利方に服属するようになります。

勢いを得た元就は、尼子氏との和談成立から半年もたたないうちに、この和談の破棄を通告しますが、さらには、破棄して1カ月もたたずに出雲国への侵攻を開始。元就の切り替えはさすがというべきでしょう。

対する出雲の尼子氏は大友氏と連携。毛利方の豊前松山城を大友方に攻めさせました。元就は九州豊前の救援に隆元を向かわせることになります。

永禄6年(1563年)、隆元が九州戦線の任に当たると、豊前での「毛利 vs 大友」のにらみ合いは膠着状態に入ります。しかし幕府から和平調停の使者が訪れると、争いは収束に向かい、翌年までに和談となっています。(芸豊和談)

こうした情勢から、隆元は尼子攻めのために軍を返すことになりました。しかしその帰り道、安芸国で兵を整えて滞陣している最中、酒宴の後に謎の急死をとげます。死因は食あたりとも毒殺とも。元就は隆元の死を知って深く歎き悲しんだといいます。

まもなくして元就は「とむらい合戦」と称して、尼子氏の支城である白鹿城を攻撃し、2ヶ月間の攻防戦で陥落させました。(白鹿城の戦い)

この勝利以降、毛利方は尼子の本拠・月山富田城の包囲網を構築すべく、支城をジワジワと攻略。海路の補給線を断つなどし、永禄8年(1565年)の春には富田城へ最初の総攻撃を開始。元就はこの戦いで味方の犠牲を最小限に抑えるべく、持久戦で臨みました。

永禄9(1566)年2月頃、元就は陣中で一時危篤状態に陥ったものの、名医・曲直瀬道三の治療で回復したとされています。このとき元就はすでに70歳という高齢でした。

やがて富田城の兵糧は欠乏していき、城からの脱走者も続出すると、同年11月、ついに尼子氏が降伏。元就は中国地方8ヶ国支配という偉業を成し遂げたのです。(第二次月山富田城の戦い)


元就の晩年

四国、九州への出兵

尼子を滅ぼした後、1年余りは合戦もありませんでしたが、永禄11(1568)年の初めには、四国伊予の河野通直から援軍要請が届きます。河野氏と対立する宇都宮氏が、土佐の一条氏や長宗我部氏らの支援を受け、攻め込もうとしていました。これを受けて元就は、四国への出兵を決意します。

河野通直は元就の孫にあたる宍戸隆家の娘を娶っており、河野氏は元就が危機の際にはたびたび支援に回りました。元就はこの恩に報いるために兵を出したとされています。吉川元春・小早川隆景・宍戸隆家ら3万の軍兵を渡海させると、宇都宮氏を降伏させています。

続いて九州にも出兵。毛利氏と九州の大友氏とは和談していましたが、毛利に心を寄せる豊前、筑前の国衆が増え、大友一族の中にも毛利氏に通じる者が現れはじめました。これにより、戦いが再燃したのです。

大友一門だった立花鑑載の立花城が大友軍に包囲されると、毛利両川は救援に向かいます。しかしこれは間に合わず、立花鑑載は自害。毛利はひとまず九州から撤退しました。

永禄12(1569)年には毛利両川4万余の大軍で再び九州へ侵攻。豊前の門司城を奪取して拠点にすると、前年に大友に奪われていた立花城をも攻め落としています。

尼子再興軍が蜂起

しかし同年、元就は一時的に窮地に追い込まれます。山中鹿之介が尼子国久の孫勝久を擁立して主家・尼子氏の再興軍を、さらには大内義隆の従兄弟・輝弘が大内氏の再興軍をそれぞれ興したのです。

実はこれら反毛利勢力の蜂起は、いずれも大友氏が毛利氏の後方撹乱のために仕掛けたものでした。元就はやむなく九州から撤退し、山口に転戦。すぐさま輝弘を自害に追い込みました。(大内輝弘の乱)

山中鹿之助の像(月岡芳年 作、ウォルターズ美術館所蔵)
尼子氏再興運動の主役・山中鹿之助。織田信長の下で再興を目指すも、結局叶わなかった。

一方、山中鹿之介ら尼子再興軍との戦い(布部山の戦い)は容易ではなく、以後も数年にもわたって続くことになります。

元就はその結末を知ることなく、元亀2年(1571年)、吉田郡山城にて75歳で永眠します。戦国最高の知将の生涯は、まさに合戦に継ぐ合戦だったといえます。

  この記事を書いた人
戦ヒス編集部 さん

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