日常生活にも支障が… 暦の吉凶に振り回された平安貴族たち

 平安貴族たちは怨霊の存在を信じ、禍津神に怯え、日々の吉凶を暦と照らし合わせて暮らしました。それはもうほとんど振り回されているような暮らしぶりでした。

九条殿藤原師輔の日常、朝一番の吉凶チェック

 京の都九条大路に面して壮麗な邸宅を構えたことから“九条殿”と呼ばれた藤原師輔、御堂関白・藤原道長の祖父としても知られますが、この人は日々の吉凶を気にする人でした。その師輔が子孫のために書き残した『九条殿遺誡』に、朝の支度の優先順位を以下のように書き出しています。

1.自分の運命を支配する星“属星(ぞくしょう)”の名を唱える
2.鏡を見て不吉の相が現われていないか顔を点検する
3.暦を調べてその日の吉凶を確認
4.楊枝を使って口中を清める
5.西に向かって手を洗う
6.守護仏の御名を唱える
7.尊崇する御社に1日の無事を祈念する
8.前日の出来事を日記に書く
9.朝食を摂る
10.頭髪を整える

 これを見ると、日常生活の中にその日の吉凶判断がすっかり溶け込んでいますが、なにも師輔に限った話ではなく、彼が生きた平安中期の貴族たちは誰しもが生活の中での吉凶を強く意識していました。特に兇日には行動を厳しく制限されるなど、吉凶に振り回されて暮らしていたようです。そんな彼らが恐れた兇日には次の3つのパターンがあります。

特定の物事が忌まれる日

 これは特定の物事に関わると凶事が起こる日の事です。例えば藤原道長の日記『御堂関白記』によると、寛弘元年(1004)の6月20日に、道長が自邸に仏師を招いて仏像を造らせようとしていました。

 ところが直前になって陰陽師・安倍晴明から「今日は滅門(めつもん)なり、宜しからず」との知らせがあり、造仏は取りやめになります。仏様をつくるのだから良いじゃないか、とも思いますが、“滅門” と言うのは “滅門日” とも言って、この日に仏事など重要な事を行うと一門が滅びるという最悪の兇日でした。

 実はこの日は道長にとって内裏(= 天皇の居所を中心とする御殿)での大切な日でした。娘の彰子を一条天皇に入内させた道長の一番の関心事は、天皇が彰子を寵愛し、他の后ではなく、彰子が天皇の御子を生むことです。そのため、道長は宮中に参内した日は内裏に泊まり込み、天皇が娘彰子の元を訪れるよう無言の圧力をかけていました。藤原氏に支えられている天皇家としては、后の父親が参内しているのに他の女性の元へは行きにくかったのです。

 ところがこの日、篤信家の道長は、仏像を造ることを優先して自邸に戻ってしまいます。そこへもたらされたのが晴明からの一報で、道長は晴明の忠告に従い、造像を中止します。娘の事よりも仏像造り、それよりも優先したのが“滅門日”を守る事でした。

 平安中期に作られた暦のいくつかが現代まで伝わっており、その中には何種類もの「特定の物事が忌まれる日」が記されています。以下に書いてみましょう。

名前1ヶ月の出現頻度忌まれる事柄
往来日(おうらいにち)0~2回遠出・入居・軍事・結婚・祭祀
坎日(かんにち)2~3回外出
忌遠行日(きおんぎょうにち)2~3回遠出・入居・帰宅・結婚
帰忌日(きこにち)2~3回遠出・入居・帰宅・結婚
血忌日(ちこにち)2~3回処刑・鍼灸
下食日(げしょくにち)2~3回沐浴・種蒔き・刈り入れ
大禍日(たいかにち)2~3回仏事
道虚日(とうこにち)6回外出・入居・結婚・社参
百鬼夜行日(ひゃっきやぎょうにち)2~3回外出
滅門日(めつもんにち)2~3回仏事
狼藉日(ろうじゃくにち)2~3回仏事

 これを見るとかなりの頻度で忌み日が決められていますね。忌み日同士が重なる事もあるでしょうが、完全にフリーな日なんてあったのでしょうか。これだけ日常行動が制限されていてはたまりません。

方忌(かたいみ)のある日

 平安時代、特定の神々・方位神が一定の周期で世界の四方・東西南北を巡るものとされていました。物事を行うとき、その方角に方位神がおられると良くないことが起きる、と考えられていたのです。

 その方角に向かって進んだり、その方角での土木工事を開始したりですが、これを“方忌”と呼び、この考えは貴族社会で広く共有されており、その厄災を避ける方法が“方違(かたたがえ)”です。つまり、外出または帰宅のときに“方忌”の方角へは直接向かわず、一度別の方角へ行って一夜を明かし、翌日になってから本来の目的地へ向かう事で厄災を避ける方法です。

 以下、方位神の名前と巡ってくる周期です。

神名東西南北を一周する周期
天一神(てんいちしん)中神とも言う60日間、天上も巡る
王相神(おうそうしん)1年間
大将軍(だいしょうぐん)60日間、屋内も巡る
太白神(たいはくしん)10日間、中央・天上も巡る

 “方違” は広く行われていたようで、清少納言も『枕草子』の中で「すさまじきもの」の1つとして「方違に行きたるにあるじせぬ処」を挙げています。「すさまじきもの」とはがっかりさせられるの意ですが、方違に行った先の主人が何のもてなしもしてくれなかったと愚痴っています。

 “方違”に行く先は自分より目下の者の屋敷と決まっていました。目上の人物の処へ押しかけられませんから。上流貴族の来訪に近付きになれるチャンスと張り切って供応する主人も居たようですが、清少納言は当てが外れました。

 物持ちとしても知られた従一位・右大臣にまで昇った藤原実資(さねすけ)の娘の場合は、事情が違ったようです。この娘が幼い時に清水寺への参拝の帰りに藤原義里(よしさと)の家へ“方違”で泊まりましたが、充分なもてなしを受けました。宿の主人の方も相手を見ますからね。

物忌(ものいみ)のある日

 “物忌”とは自宅に閉じこもり行動を慎み、肉や強い匂いの野菜を食べず、他の者と煮炊きに同じ火を使わないなどの禁忌に従う事です。

 “物忌”は大切な行事などの際にも行われますが、個人的に怪異に遭遇した者がそれ以上の災難を避けるために行うこともありました。現在でも神聖な行事の間は酒色を絶ったり、生臭ものや特定の食べ物を食べない、体を清め新しい衣服を身に付けるなどの“物忌”を行うことがあります。

 以下、“物忌”の契機となる怪異一覧です。

  • 牛・鹿・狐・猿・兎の屋内への侵入
  • 犬・鼠の屋内での排泄
  • 鼠が人間を襲う
  • 鼠・土竜が器物を損なう
  • 鳩・烏の屋内への侵入
  • 鷺・鴨が屋根へ飛来する
  • 小虫が群れ集まる
  • 蛇・百足の屋内への侵入
  • 松の木が倒れる
  • 蓮が生い茂る
  • 鏡・墓・家宅が鳴動する

 小虫が集まるなど、夏になればしょっちゅうの事だと思うのですが、これも怪異に数えられました。

 貴族の日常にこれだけ禁忌のタネが溢れていてはうっかり犯してしまう事もあったでしょうが、頻繁に破らずに済んだのは陰陽師の存在があったからです。陰陽師たちは人々の凶日を管理してそれを知らせる重要な役目を担っていました。

おわりに

 平安貴族は吉日よりも兇日を強く意識し、禍に会うまいと忌事を避けるのに心を砕きました。しかしこれらの忌日や方違え・物忌みを本当にきっちり守っていればかなり窮屈な生活になると思うのですが、どうだったのでしょうか。


【主な参考文献】
  • 繁田信一『知るほど不思議な平安時代下』教育評論社/2022年
  • 山口博『悩める平安貴族たち』PHP研究所/2023年
  • 繁田信一『陰陽師』中央公論新社/2006年

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  この記事を書いた人
ichicokyt さん
Webライターの端っこに連なる者です。最初に興味を持ったのは書く事で、その対象が歴史でした。自然現象や動植物にも心惹かれますが、何と言っても人間の営みが一番興味深く思われます。

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