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平安後期に即位した「幼帝」の哀しき末路

 平安時代後期に即位した72代白河天皇から81代安徳天皇まで、10人の天皇のうち、10歳未満で即位した「幼帝」が7人もいました。権力争いや源平争乱に振り回され、悲運の生涯をおくった天皇も多かったのです。

幼帝続出の平安時代後期って?

 幼帝の誕生は平安時代前期の56代清和天皇が始まりとされています。以後、たびたび擁立された幼い天皇には政権運営能力がないため、藤原氏が摂政となって事実上の政権トップに立つという摂関政治が行われていました。

 平安時代後期になると、引退した天皇が上皇(法皇)となって「治天の君」として君臨する院政が行われるようになります。上皇が権力を握るためには、青年天皇よりも幼い天皇の方がコントロールしやすかったわけです。

 50年にわたって治天の君だった白河法皇のもとでは、堀川、鳥羽、崇徳と3代続けて幼帝が即位しています。

保元の乱で流罪になった崇徳天皇

 崇徳天皇が即位したのは保安4年(1123)で、当時5歳でした。父は鳥羽上皇ですが、白河法皇のご落胤だという噂が付きまとっていたため、鳥羽上皇と崇徳天皇の親子関係は最悪だったと言われています。

 白河法皇の死去後、鳥羽上皇が院政を行うようになると、崇徳天皇は窮地に陥ります。鳥羽上皇は崇徳天皇に譲位を迫り、弟である近衛天皇を3歳で即位させたのです。

 父帝に疎まれ、上皇として治天の君となるチャンスも奪われた崇徳上皇は、とうとう保元の乱を起こしてしまいます。近衛天皇の後継者となった後白河天皇との戦いに敗れ、崇徳上皇は讃岐国に流罪となり、その地で生涯を閉じました。

 悲運の生涯をおくった崇徳上皇は、亡くなってからも「怨霊」として恐れられてしまうのです。

最年少で即位した六条天皇

 保元の乱に勝った後白河天皇ですが、在位3年で子の二条天皇に譲位して上皇(法皇)となります。二条天皇は後白河法皇の院政とは一線を画し、天皇親政を進めようとしました。しかし、22歳の若さで亡くなってしまうのです。

 二条天皇の後を継いだのが六条天皇で、永万元年(1165)に即位した時は何と2歳。満年齢だと1歳にも満たない赤ちゃんだったのです。

 この頃には、台頭してきた平清盛と後白河法皇との権力争いが苛烈になり、清盛は平家の女性を母とする親王(高倉天皇)の即位を目論んでいました。当然ですが、幼い六条天皇に阻止する力は無く、在位3年、5歳にして退位させられてしまいました。

 六条上皇は元服を迎えることすらできず、13歳でこの世を去りました。

平家と運命を共にした安徳天皇

 8歳で即位した高倉天皇は、清盛の娘・徳子を中宮に迎え、徳子は皇子を生みました。皇子が即位すれば清盛は外戚の地位を得ることになるため、治承4年(1180)に皇子が3歳になると高倉天皇に譲位を迫り、皇子は安徳天皇として即位しました。

 安徳天皇の誕生は平家の全盛期を生み出したのですが、源氏も各地で挙兵して勢力を伸ばしていた頃。即位の翌年には清盛が死去し、平家は大黒柱を失ってしまいました。

 西国に落ちのびた平家は、即位に必要な三種の神器とともに安徳天皇を連れ去ってしまいます。そして寿永4年(1185)の壇ノ浦の戦いで平家が敗れると、天皇は清盛の妻・二位尼時子に抱かれながら入水し、8歳という幼い命を散らしてしまうのでした。

 二位尼に「極楽浄土にお連れする」と告げられた安徳天皇の心中は察するに余りあるものがあります。

おわりに

 安徳天皇が西国に連れ去られた寿永2年(1183)、後白河法皇は三種の神器が無いままに4歳の孫を後鳥羽天皇として即位させました。

 神器無き即位というコンプレックスを抱えた後鳥羽天皇は、上皇となったのち、承久の変で鎌倉幕府に敗れ、隠岐に流されます。

 後鳥羽上皇も他の幼帝たちと同じように、悲劇的な末路をたどってしまったのです。

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  この記事を書いた人
マイケルオズ さん
フリーランスでライターをやっています。歴女ではなく、レキダン(歴男)オヤジです! 戦国と幕末・維新が好きですが、古代、源平、南北朝、江戸、近代と、どの時代でも興味津々。 愛好者目線で、時には大胆な思い入れも交えながら、歴史コラムを書いていきたいと思います。

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