「安徳天皇」源平の戦いで平家一族とともに壇ノ浦に沈んだ幼帝
- 2022/09/16
高倉天皇の第一皇子
安徳天皇(言仁/ときひと)は治承2年(1178)11月12日、高倉天皇と平徳子(のちの建礼門院)との間に第一皇子として誕生しました。そのわずか1か月後には親王宣下を受けて立太子され、治承4年(1180)2月21日に高倉天皇が譲位すると践祚し、4月22日に数え年3歳(満年齢で1歳2か月)で即位することになります。父の高倉天皇は後白河院の皇子、母の平徳子は平清盛の娘です。高倉天皇は後白河院と寵妃・建春門院(平滋子。徳子の母・時子の異母妹)の間に生まれた皇子でした。徳子の入内は、叔母である建春門院の後押しあってのものでした。
しかし、即位した頃にはすでに祖母・建礼門院は亡くなっており、さらにはその前年11月には外祖父・清盛が京都を制圧して後白河院政を停止(治承3年のクーデター)していました。後白河院と清盛の間をうまく取り持っていた建春門院が亡くなったことで、両者の関係は悪くなってしまったのです。そういうわけで、高倉天皇の譲位、安徳天皇の即位は清盛の意思によって決められたものでした。
院政が常態化していたこの時代はその性質上、幼帝が多かった時代で、安徳天皇よりも幼くして即位した六条天皇(安徳天皇のいとこ。数え年2歳、満年齢で8か月のころ即位した)の例もあります。しかし法皇を幽閉、院政を停止した清盛への批判からか、安徳天皇の早すぎる即位は世の人々に非難されたようです。
この年、清盛は摂津国福原(現在の兵庫県神戸市兵庫区)に都を移しました。この近辺には平家が宋との交易に利用した海上交通の要所・大輪田泊(おおわだのとまり)があり、清盛自身、出家して引退すると福原の山荘に住んで熱心に交易を進めていました。
清盛は、治承4年(1180)6月に安徳天皇、高倉上皇、後白河院を福原に行幸させ、平家の邸を仮の御所としました。この時期に福原に遷したのは、以仁王の挙兵に加わっていた興福寺に上洛の動きがあり、それによる混乱を避けるためでもありました。
反対の声が多い中新都の建設が進められてこの地が皇居と定められ、11月には安徳天皇が新しい内裏に入りましたが、結局都が建設されることはなく、関東の源頼朝らの蜂起に対応するため京都へ戻ることになったのでした。富士川の戦い(1180)で平家が大敗したことで各地の反乱の勢いが増し、いよいよ中途半端な福原にいる場合ではなくなったのです。
三種の神器とともに都落ち
翌治承5年(1181)正月14日、後白河院と岳父・清盛の板挟みになって苦労した高倉上皇は、21歳の若さで崩御しました。形式的にではあるものの、高倉院政が始まって間もないことでした。そして元号が変わって同じ年の閏2月4日、絶大な力を持った外祖父・清盛は熱病で亡くなります。清盛を失った平家は坂を転がり落ちるように衰退していきます。
寿永2年(1183)6月に木曾(源)義仲が平家軍を破って翌月入京。平家一門は都に迫る義仲から逃れるように7月25日に都落ちしました。この時、安徳天皇も伯父の平宗盛に連れられ、三種の神器とともに西国へ。この都落ちには、安徳天皇の皇太子とするために異母弟の守貞親王も伴われていました。
平家一門は安徳天皇とその皇太子、さらに三種の神器を持って逃れたことで安徳天皇の正当性を守ろうとしましたが、平家が都落ちして間もない8月、安徳天皇の異母弟・後鳥羽天皇(尊成親王/高倉天皇の第四皇子)が後白河院の詔(みことのり)によって践祚。神器のない異例の即位となりました。この時点で、安徳天皇と後鳥羽天皇、ふたりの天皇が同時に立っていたことになります。
寿永3年(1184)4月16日に元号が「元暦」に改元されましたが、平家は滅亡まで「寿永」を使い続けたといいます。
安徳天皇の最期
都落ちした安徳天皇は、平家一門とともに筑前国の大宰府(現在の福岡県太宰府市)に入ると、今度は讃岐国の屋島(香川県高松市の東北)へ。屋島には行宮(あんぐう/天皇が行幸したときの仮の宮)が設けられてしばらくここを拠点としましたが、元暦2年(1185)2月19日の屋島の戦いで源義経ら源氏軍に敗れると、平家はついに拠点を失って海上へ逃れました。そして、源平の最後の戦いとなった壇ノ浦の戦い。平家は長門国の彦島(現在の山口県下関市)に拠り、3月24日、両軍は壇ノ浦の海上で激突しました。はじめは平家軍が優勢だったようですが、潮流は源氏に味方しました。夕方には平家の敗北は決定的なものとなり、平家一門は戦いの指揮をとっていた知盛をはじめとする武将のほとんどが討死あるいは入水(じゅすい)して亡くなったといわれています。
安徳天皇が祖母・二位尼に抱かれて海に沈んだというのは有名ですね。これは『平家物語』に拠っています。平家の人々を描いた『平家物語』と、源氏の視点で描かれた『吾妻鏡』(鎌倉時代の歴史書)では同じ出来事であっても描かれ方が異なります。
やや長いのですが、ふたつの書物の該当箇所をそれぞれ引用してみましょう。
『平家物語』
二位殿はこの有様を御覧じて、日ごろおぼしめしまうけたる事なれば、にぶ色の二衣うちかづき、練袴のそばたかくはさみ、神璽をわきにはさみ、宝剣を腰にさし、主上をいだき奉ッて(中略)主上今年は八歳にならせ給へども、御としの程よりはるかにねびさせ給ひて、御かたちうつくしく、あたりもてりかかやくばかりなり。御ぐし黒うゆら/\として、御せなか過ぎさせ給へり。あきれたる御様にて、「尼ぜ、われをばいづちへ具してゆかむとするぞ」と仰せければ、いとけなき君にむかひ奉り、涙をおさへて申されけるは、「君はいまだしろしめされさぶらはずや。先世の十善戒行の御力によッて、いま万乗の主と生れさせ給へども、悪縁にひかれて、御運すでにつきさせ給ひぬ。まづ東にむかはせ給ひて、伊勢大神宮に御暇申させ給ひ、其後西方浄土の来迎にあづからむとおぼしめし、西にむかはせ給ひて御念仏さぶらふべし。この国は粟散辺地とて心憂きさかひにてさぶらへば、極楽浄土とてめでたき処へ具し参らせさぶらふぞ」と泣く/\申させ給ひければ、山鳩色の御衣にびんづら結はせ給ひて、御涙におぼれ、ちいさくうつくしき御手をあはせ、まづ東をふしをがみ、伊勢大神宮に御暇申させ給ひ、其後西にむかはせ給ひて、御念仏ありしかば、二位殿やがていだき奉り、「浪の下にも都のさぶらふぞ」となぐさめ奉ッて、千尋の底へぞ入り給ふ。
神璽を脇にかかえて宝剣を腰にさした二位尼は「女であっても敵の手にはかからない」と覚悟を決め、帝のお供として入水することを宣言しました。安徳天皇は8歳になったばかりの角髪(みづら)結いの幼子ですが、年齢よりは大人びていて、辺りが照り輝くほど端麗な顔立ち。「尼ぜ、私をどこへつれて行こうとするのだ」と尋ねる安徳天皇に、二位尼は涙をこらえながら「前世の行いのおかげで天子としてお生まれになったご運も尽きた」と語り、東の伊勢神宮にお暇を、西の極楽浄土にお念仏を唱えるように言います。「この世は嫌なところですから、極楽浄土といういいところへお連れするのですよ」と小さな子に言い聞かせますが、泣きながら言う二位尼の様子に幼い安徳天皇もすべてを悟っているのか、激しく泣きながら二位尼の言うとおりに東へ西へ、暇のあいさつをして念仏を唱えるのでした。それが終わると二位尼が安徳天皇を抱き上げ、せめてもの慰めに「波の下にも都がございますよ」と言って海に入っていったのでした。
『平家物語』はこのように滅びゆく平家と戦乱に巻き込まれた安徳天皇の悲哀に満ちた最期が丁寧に描かれていますが、この作品の成立は鎌倉時代初期ごろ。物語で虚構も含まれているためどこまでが事実かわかりません。
『吾妻鏡』
一方の『吾妻鏡』はあっさりしています。二品禪尼持寳剱。按察局奉抱先帝。[春秋八歳]共以沈海底。建礼門院[藤重御衣]入水御之處。渡部黨源五馬允以熊手奉取之。按察局同存命。但先帝終不令浮御
二位尼(平時子)が宝剣(三種の神器のひとつの天叢雲剣)を持ち、按察局(あぜちのつぼね)が数え年8歳の安徳天皇を抱いて海に飛び込んだとしています。安徳天皇の母・建礼門院も同じように海に飛び込みましたが、渡部党の源五馬允に熊手で引っかけられて引き戻され、同様に按察局も助けられましたが、安徳天皇はついに浮かんでこなかったようです。
二位尼は宝剣を持っているものの、安徳天皇を抱いているのは按察局という女房になっています。『吾妻鏡』が実際に見たままを記したのなら、もしかすると状況描写はこちらのほうが事実に沿っているのかもしれません。源氏方からみれば、海上の離れた場所で安徳天皇と二位尼が入水した時、どのようなやり取りがあったかわからず、描写があっさりしているのも当然です。源氏方の源範頼や義経も、帝の命はお救いせよと命じられていたはずですが、それにもかかわらずみすみす入水させてしまったのは、それぞれ海上の船の上のことでそれなりに距離もあり、なすすべもなかったということでしょう。
大河ドラマ「平清盛」では、この場面は『平家物語』に沿っていました。「海の底にも都はございましょう」と時子が言う場面は名シーンとして知られます。最近ではアニメ「平家物語」でも琵琶法師の語りとともに同じように描かれたので、『吾妻鏡』に沿った大河ドラマ「鎌倉殿の13人」との違いがわかりやすかったのではないでしょうか。
安徳天皇ゆかりの地
現在の山口県下関市阿弥陀寺町にある赤間神社境内に隣接する場所に、安徳天皇崩御の地として「阿弥陀寺陵(あみだじのみささぎ)」がつくられています。これは現在宮内庁が管理する天皇陵となっていますが、実はほかにも宮内庁所轄地となっている安徳天皇陵墓参考地は中国・四国・九州地方に何か所かあります。ほかにも陵墓と伝わる土地は何か所かあり、全部で十数か所にも及びます。また、亡骸が確認されたわけではないため、実は亡くなっていないのではないか、とも考えられ、全国各地に安徳天皇が落ち延びた伝説の地があるようです。
【主な参考文献】
- 『国史大辞典』(吉川弘文館)
- 『世界大百科事典』(平凡社)
- 『日本大百科全書(ニッポニカ)』(小学館)
- 永井晋『平氏が語る源平争乱』(吉川弘文館、2019年)
- 高橋昌明『平家の群像 物語から史実へ』(岩波書店、2009年)
- 上杉和彦『戦争の日本史6 源平の争乱』(吉川弘文館、2007年)
- 校注・訳:市古貞次『新編日本古典文学全集(45) 平家物語(1)』(小学館、1994年)
- 校注・訳:市古貞次『新編日本古典文学全集(46) 平家物語(2)』(小学館、1994年)※本文中の引用はこれに拠る。
- 『国史大系 吾妻鏡(新訂増補 普及版)』(吉川弘文館)※本文中の引用はこれに拠る。
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