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最後の女帝・後桜町天皇が担った「使命」とは
- 2024/12/09
皇室典範に「皇位継承資格を皇統に属する男系の男子に限定する」と定められている現代とは異なり、かつては女性天皇(女帝)が即位したことがありました。歴史をたどると、江戸時代の後桜町天皇が「最後の女帝」となります。どんな人物だったのでしょうか?
10代8人のみの女帝
第126代今上天皇までの天皇の歴史のなかで、女帝は10代8人だけでした。人数と代が異なるのは、2度即位(重祚)した女帝が2人いるためです。初めての女帝は、教科書でもおなじみの第33代推古天皇。次が第35代皇極天皇で、重祚して第37代斉明天皇となります。
その次は天武天皇の后だった第41代持統天皇、さらに妹の第43代元明天皇、孫の第44代元正天皇と続きます。聖武天皇の娘の第46代孝謙天皇が、重祚して第48代称徳天皇となり、称徳天皇の後は長い間、女帝は誕生しませんでした。
江戸時代に859年ぶりの女帝となったのが第109代明正天皇で、その退位後、119年を経て即位したのが第117代後桜町天皇だったのです。
後桜町天皇が即位した背景
後桜町天皇は元文5年(1740)に第115代桜町天皇の子として生まれ、親王宣下により智子内親王となります。弟は第116代桃園天皇ですが、22歳の若さで亡くなってしまいました。桃園天皇には皇子(英仁親王)がいましたが、まだ幼かったため、23歳だった智子内親王に白羽の矢が立ち、後桜町天皇として宝暦12年(1762)に即位することになりました。
ただし、後桜町天皇が皇統を継ぐということではなく、あくまでも英仁親王が成長するまでの「中継ぎ」として天皇の座に就いたわけです。これは持統天皇、元明天皇、元正天皇と同じケースにあたります。
このため後桜町天皇は独身のまま、生涯をおくることになりました。
後桃園天皇に譲位するも・・・
8年後、英仁親王が13歳になった明和7年(1770)に後桜町天皇は譲位し、英仁親王が後桃園天皇として即位しました。後桜町は上皇となったわけです。後桜町上皇は漢学や歌道を好んでおり、日記や歌集などを残すほどの教養人だったそうで、後桃園天皇が成長すれば後見もお役御免となり、静かに学問三昧の日々を過ごせると思い描いていたことでしょう。
しかし、後桃園天皇は生来の病弱のうえ、子供は欣子内親王しかおらず、安永8年(1779)に22歳で亡くなってしまったのです。
母として光格天皇を補佐
後継者となったのは、4世代前の東山天皇から分かれた閑院宮家出身の第119代光格天皇でした。即位時の年齢が8歳と幼かったため、後桜町上皇は再び、後見役として光格天皇を見守り続けていくことになりました。後桜町上皇は当時39歳だったので、光格天皇とは「母と子」のような世代にあたります。時には天皇の経験者として、そして時には母親として、光格天皇が立派な君主になるよう薫陶を与えてきたと思われます。
光格天皇が、父親(閑院宮典仁親王)に太上天皇の尊号を贈ろうとして幕府に拒否された尊号一件では、幕府に憤る光格天皇を後桜町上皇が「あなた自身の御代が続くことこそ、一番の親孝行じゃないですか」などと諭したと言われています。
ちなみに光格天皇は欣子内親王を正室に迎えており、先代からの皇統も受け継いでいます。
おわりに
後桜町天皇(上皇)は、皇統の中継ぎ役を務めただけでなく、幼くして即位した後桃園、光格の両天皇を支え続けてきました。最後の女帝である後桜町上皇は、いつしか宮中の人々から尊敬の念をもって「国母」と呼ばれるようになったのです。- ※Amazonのアソシエイトとして、戦国ヒストリーは適格販売により収入を得ています。
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