戦国大名・武将たちに必要だった信仰には、どのようなものがあった?
- 2019/10/23
平安時代までの仏教は、一部の特権階級だけのものでした。それが鎌倉時代に入ると、鎌倉新仏教が生まれ、徐々に武士階級や一般庶民にまで浸透していきます。戦国武将たちは寺社勢力と対立し戦うこともありましたが、基本的には領国運営のために寺社を保護していました。
武家で好まれたのは禅宗
武家において親しまれたのは禅宗(臨済宗・曹洞宗・日本達磨宗・黄檗宗・普化宗)です。ちなみに禅宗のルーツは「達磨(だるま)」というインド人仏教僧です。実はこの方、一般に知られる「だるま」のモデルになっています。いきなり話が逸れそうでしたが、それはさておいて、禅宗の中でとくに臨済宗は鎌倉幕府や朝廷の庇護を受けて中央権力と密接に結びついていました。
鎌倉幕府の執権であった北条氏が導入した鎌倉五山・京都五山はすべて臨済宗のお寺で占められていますし、室町時代の北山文化・東山文化の代表格である鹿苑寺(金閣寺)や慈照寺(銀閣寺)も臨済宗の寺院です。
また、武田信玄の菩提寺は臨済宗の恵林寺でしたし、今川氏の菩提寺も臨済宗の臨済寺でした。無神論者説もあるあの信長でさえ、フロイスは「禅宗の見解に同意」していたといいます。
付け加えると、武家社会で親しまれた茶の湯文化自体、禅宗との関わりの中で隆盛したものでした。
戦場では神仏の加護が必要だった
武家でなぜ禅宗が親しまれたか。それは戦の多い戦乱の世で、自然と向き合って心を落ち着かせる禅の修行が武士の共感を呼んで拠り所となっていたからでした。いつ命を落とすともわからない時代、神仏こそが拠り所だったのです。戦場での御守り
戦場において、武士たちが信仰を必要としたことがさまざまな道具からも見て取れます。たとえば、武士たちは名号(仏の名)・法号(仏門に入った者の名・法名)を記した御守りや本尊を持って戦場に行きました。これはいつ死ぬともわからない戦場で仏に守られて成仏するためであり、また神仏に加護を祈るためのものでもありました。
仏教に限らず、林ゴンザロや有馬晴信といったキリシタンの間でも、聖遺物を携行するなど、同じように御守りを持って戦に出た例があります。
また、戦に欠かせない道具である旗指物や鎧兜にも神仏の守りを込めています。鎧兜に神を勧請し、軍旗には神号を記しています。有名なところでは、上杉謙信の「毘」、武田信玄の「南無諏訪南宮法性上下大明神」、徳川家康の「厭離穢土欣求浄土」などがあります。
信玄は諏訪明神を信仰し、合戦の度に諏訪大社で戦勝祈願を行いました。謙信は自らを毘沙門天の化身と信じ、生涯毘沙門天を信奉して「毘」の軍旗を用いたといいます。
また、浄土宗に帰依していた家康は、「厭離穢土欣求浄土(おんりえどごんぐじょうど)」(穢れた娑婆世界を厭い離れて、極楽浄土に生まれたいという願い)を軍旗に記しました。
占いを用いる軍配者による戦
このころの戦には、軍師が欠かせません。代表的なのは武田信玄の参謀であった山本勘助でしょう。彼らのような軍師(軍配者)は、「気」を用いて戦争を始めるのにちょうどいい日(吉日)や進軍する方向などを占いました。諸葛孔明は気象を読むことに長けていたと言われますが、大昔から軍師というのは易学や気象をよく学んだ者が担っていたのです。
もっとくわしく
このような呪術的(気象については単純に呪術とは言い切れませんが)な力は、直接攻撃にも使われています。たとえば呪詛で敵を調伏する、などです。『応仁記』に、東軍方が敵を調伏する密教の五壇法が行われたと書かれています。
武将たちの信仰
それでは、具体的に武将たちの信仰について見ていきましょう。武田信玄
信玄は禅宗と深く関わり、寺院を権威づける天皇(朝廷)をも尊重していました。ですが、無条件に尊重していたわけではありません。自分の武運こそが寺院を支えているのだから、寺院は奉仕すべきという考えを持っていました。ただ、信玄は実利的な理由で熱心に寺院を保護し、信心抜きで打算のみで行動していたかといえばそうではありません。祈祷の際の鬮(くじ)にはものすごくこだわっていました。自身が祈念したとおりの結果が出なければ恐怖し、新しく願をたててまた鬮をとりました。
戦勝祈願のような儀式的なものは、とかく中身の伴わない形だけのものでは?と思ってしまいますが、このようにくじの結果をひどく気にするような姿勢からは、信玄の戦勝祈願は単なる儀式ではなく、篤い信仰をもっていたのだろうと想像できます。
上杉謙信
謙信は、神仏に対しても、また政治に関しても、「正義こそが勝利する」という信念をもっていたようです。神は正義に味方するのだと信じて戦勝を祈願していました。また、謙信は剃髪して出家し、護摩や灌頂(かんじょう)といった法事を行っています。法要を熱心に行うことが功徳につながるというのはわかりますが、興味深いのは法要が戦勝祈願に有効であると謙信が考えていたことです。
毛利 元就
毛利元就が三人の子に宛てたという有名な「三子教訓状」。この中に、元就の信仰がどのようなものだったのかがわかる記述がいくつかあります。まず、元就は11歳のときに旅の僧侶から念仏の伝授を受けており、以来毎朝欠かすことなく念仏を唱えてきたといいます。それが来世の救いだけでなく、現世での祈祷にもなると伝授されたのです。元就はこれが自身の加護にもなると信じ、三人の息子にも毎朝やるべきだ、と言っています。
生涯念仏を唱えた一方で、元就は厳島信仰でも知られています。
厳島合戦の前哨戦である折敷畑の戦いの際、厳島の使者がやってきて神前の供米と祈祷を行ったことを記す「巻数」を献上しました。結果、戦は勝利をおさめたのです。
また、その直後の厳島合戦でも勝利したので、元就は厳島へ出向いたのは神のお導きだったのだと考え、以来厳島明神を深く信仰するようになりました。
仏教・神道の区別は重要視していなかった
元就の例を見ると、仏教と同時に神も深く信仰していることがわかります。これは元就に限ったことではなく、信玄にしても謙信にしても同じで、また他の武将たちにも共通することでしょう。武将たちは仏と神祇の違いを重視してはいなかったようです。両者を「神仏」とひっくるめて語っていたことからもわかるように、仏と神祇の違いは彼らにとって特別意味のあるものではありませんでした。
とくに、戦勝祈願に有効と思ったもの、何かのきっかけに「これは!」については篤く信仰していたことがわかります。とにかく戦においては信仰が大事であり、どんな武将も神仏の加護を頼りにしていたのです。
【参考文献】
- 『仏教語大辞典』(小学館、1997年)
- 神田千里『戦国と宗教』(岩波書店、2016年)
※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。
コメント欄