牢人・宮本武蔵の関ヶ原合戦事情…東軍西軍のどちらに属し、主君は存在したのか

宮本武蔵座像(熊本県立美術館蔵、出典:wikipedia)
宮本武蔵座像(熊本県立美術館蔵、出典:wikipedia)

大量に発生した牢人

 言うまでもなく、戦国時代は戦いの連続だった。負けて滅亡した大名の家からは、仕官先を失った牢人が発生した。なお、中世では「浪人」ではなく、「牢人」と書く。牢人とは、主を失って各地を牢籠とした武士を意味した。牢人と書くようになったのは、おおむね江戸時代以降である。

 天正18年(1590)に小田原北条氏が征伐されると、牢人が大量に発生した。問題は、北条氏の滅亡により大戦争の時代が終わったので、どの大名も牢人を召し抱えなくなったことである。戦争もないのに、牢人を召し抱えるメリットはなかった。

 牢人は、町や村に住むことを歓迎されず、豊臣秀吉も牢人対策に乗り出していた。以降、牢人はそのまま無職の武士として仕官先を探すか、町人(商工業者)、百姓となるか身分の変革を迫られた。

牢人・宮本武蔵と関ヶ原合戦

 剣術で有名な宮本武蔵も牢人の一人だった。武蔵も各地を放浪して剣術修行をし、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦に西軍の一員として出陣したといわれている。

 武蔵の出自に関しては不明な点が多く、播磨説と美作説が有力とされている。しかも、その生涯はたしかな史料での裏づけが困難であり、特に前半生についてはわからないことが多い。武蔵が誕生したのは、天正12年(1584)と推測されており、父は無二斎という人物であった。

 青少年期からの武勇ではあまりに有名であるが、生涯を通じて大名家に仕えることがなかったという(細川家は正式な仕官ではなく客分扱い)。いうなれば、諸国を武者修行する牢人であったといえよう。

 先述のとおり、武蔵は関ヶ原合戦に参陣したといわれている。では、武蔵は東西両軍のいずれに与したのであろうか。

武蔵は西軍に与した!?

 武蔵研究の大家として知られる原田夢果史氏は、養父の無二斎が西軍に属した新免氏の配下にあったことから、武蔵も西軍に属したと指摘した(『真説 宮本武蔵』)。特に、明確な史料的根拠は示されていない。ちなみに吉川英治氏の『宮本武蔵』でも、武蔵は西軍に属したことになっている。

 武蔵が西軍に属したという説は、新免氏が西軍の宇喜多秀家の配下にあったことから、当然、武蔵は西軍に属したであろうとするもので、さしたる根拠がない。ところが、近年になって、福田正秀氏が従来説を批判的に検討し、武蔵東軍説なるものを提起した(「武蔵の関ヶ原東軍の証明」)。以下、福田氏の説に従って、武蔵が東軍に属したという説を考えてみよう。

東軍に属した武蔵

 武蔵が東軍に属したという直接的な根拠は乏しく、むしろ周辺の状況証拠から固めていく必要がある。以下、福田氏の説を紹介することにしよう。

 『慶長七年諸役人知行割』という史料がある。この史料には、黒田家の家臣の知行割が記されており、属する「組」と知行と人名が書かれている。林太郎右衛門尉組には「貮千石 新目右兵衛」、小河藤左衛門尉組に「三百石 新目右太夫」と記されている。福田氏によると、新目右兵衛は新免則種であると指摘されている。

 また、新目右太夫は「宇兵衛」の誤記であり、そうであるならば宇兵衛は則種の嫡男であると福田氏はいう。この事実は、則種が下座郡に2千石を与えられ、嫡男の宇兵衛が3百石を与えられたとの『新免氏系譜』の記述と一致する。

 武蔵の父・無二斎が主君とした新免家は、関ヶ原合戦後に福岡藩に仕えた。それ以上に重要なのは、組外れとして「百石 新目無二」の名が確認できることだ。この「新目無二」とは、武蔵の父・無二斎である。

 慶長7年(1602)の段階において、無二斎は福岡藩に仕えていたことが判明する。しかし、福田氏が指摘するように、これは慶長7年の段階のことなので、無二斎が関ヶ原合戦の段階で黒田氏に仕えたことの根拠にはならない。

黒田氏の家臣団編成

 先の史料を補う形で重要なのが、慶長9年(1604)段階の知行割を記した『慶長年中士中寺社知行書附』である。同史料のポイントは、人名の右肩に黒田家に仕えた時期がわかるように、表記がなされていることだ。その区分は、次のとおりである。

①大御譜代――播磨時代以前の時期。
②古御譜代――豊前入部以前の時期(天正14年〈1586〉以前)。
③新参――――筑前入部以後の時期(慶長5年〈1600〉以後)。

 『慶長年中士中寺社知行書附』では、新免則種を「新参」とし、無二を「古御譜代」と記している。つまり、則種が黒田家に仕えたのは、慶長5年(1600)以降の時期ということになろう。

 一方で、無二が黒田家に仕えたのは、天正14年(1586)以前ということになる。そうなると、関ヶ原合戦段階で無二と武蔵が仕えていたのは黒田家であり、必然的に東軍に属したということになろう。

 また、『兵法大祖武州玄信公傳来』という史料では、黒田官兵衛と大友吉統が戦った石垣原合戦において、武蔵が戦っていることを確認できる。同史料によると、武蔵は父に勘当されていたが、豊前中津の無二斎を尋ね、勘当を解いてもらったという。そして、親子で出陣したというのである。なお、石垣原合戦は「九州版関ヶ原合戦」と称されている。

 このように考えると、福田氏が指摘するように武蔵は西軍に属したのではなく、東軍に属していたことになろう。しかも、無残に敗北を喫した「牢人・武蔵」ではなく、黒田氏に仕えた父・無二斎とともに「正規軍」に属していたといえないだろうか。


【主要参考文献】
  • 原田夢果史『真説 宮本武蔵』(葦書房、1984年)
  • 福田正秀「宮本武蔵夏の陣」(『歴史研究』400号、1994年)
  • 福田正秀「武蔵の関ヶ原東軍の証明」(同『宮本武蔵 研究論文集』歴研、2003年)
  • 吉川英治『宮本武蔵 全6巻』(大日本雄辯會講談社、1936~39年)

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  この記事を書いた人
渡邊大門 さん
1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書(新刊)、 『豊臣五奉行と家 ...

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