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  • 豊臣秀吉
 2019/11/07

「黒田官兵衛(如水)」大河ドラマでもお馴染み。主君秀吉でさえ恐れた天才軍師!

黒田如水の肖像画(崇福寺 所蔵)
黒田如水の肖像画(崇福寺 所蔵)

黒田官兵衛といえば、かねてより豊臣秀吉の「軍師」として人気を博してきた人物です。近年では「軍師」という立場が戦国時代に存在していたかどうか、という点は議論の対象となっていますが、NHK大河ドラマの「軍師官兵衛」というタイトルからも、官兵衛の一般的なイメージはやはり「軍師」と呼んで差し支えないでしょう。

ただし、言うまでもなく彼は常に「軍人」であったわけではなく、意外と知られていない様々な顔を持ち合わせた人物でした。そこで、この記事では官兵衛の実像を紹介していきます。
(文=とーじん)

当初は小寺氏に仕えた

天文15(1546)年、官兵衛は小寺家の重臣である黒田家のもとに生まれました。

父は黒田家当主の黒田職隆で、母は明石宗和という人物の娘です。小寺家はそれほど大きな勢力ではありませんでしたが、当主の小寺政職を中心に一定の力を有しており、官兵衛が生まれるころまで群雄割拠の戦国を生き延びていました。

なお、官兵衛というのはあくまで彼の通称で、彼は「小寺(黒田)孝高」や「黒田如水」など生涯に何度も名を変えています。しかし、本記事においては混乱を避けるためにも一般的知名度から「黒田官兵衛」で統一します。

黒田氏の略系図

幼いころの官兵衛はひたすら寺社で修行に明け暮れており、この時点で書よりも武芸を好む少年でありました。また、主君である小寺政職にも大変気に入られるなどして順調な成長を遂げていましたが、14歳の年に母を亡くしてしまい、「誰よりも慟哭していた」という記録が残されています。

官兵衛の初陣は永禄5(1562)年のことで、さっそくこの戦で手柄を立てました。その後も出陣するたびに武勇を示していったと考えられており、やがて小寺家家臣としての実務までをこなすようになっていきます。

永禄10(1567)年ごろには父から家督を継承したとされ、同時に生涯唯一の妻である櫛橋伊定の娘と結婚。これは政略結婚の一種でしたが、官兵衛がのちにキリシタンとなったこともあって側室を設けることはありませんでした。

以後、官兵衛は小寺家の重臣として戦で戦果を挙げ、特に同地域で対立していた赤松氏と争った青山の戦い・土器の戦いでは少兵を巧みに操って大軍を撃破するなど、軍略の面でも才覚を発揮するようになります。

主君に対して織田派を進言!

こうして力を示しつつあった官兵衛ですが、当時の小寺家は西に大大名毛利氏・東に新進気鋭の織田氏という強敵を抱えており、彼らは生き残りのためにどちらかの勢力を選ぶ必要性に駆られました。

家中では上記の件について話し合いが行われたようで、一説では政職が「天下を獲るのは誰なのか」と問いかけたところ、官兵衛が「それは織田信長だ」と返答したことによって態度が決定したと言われています。

もちろん実際にこのやり取りがあったかは分かりませんが、小寺家は信長のもとへと下り、同時に播磨国の有力者たちは次々と彼のもとへ馳せ参じていきました。

天正3(1575)年ごろから信長に仕えた官兵衛は、まず政職の家臣として英賀合戦に参加。ここでも巧みな軍略で織田軍を勝利に導き、信長から感状が届けられました。

その後、いよいよ毛利攻めが本格化していくにあたって現場指揮官として派遣されてきた羽柴秀吉は、すでに噂になっていた官兵衛と接触を図ります。結果として彼は秀吉に認められ、嫡男の黒田長政を人質として、姫路城を中国地方攻略の拠点として差し出す代わりに、身分や土地の所有を保証されています。

姫路城
姫路城

こうして秀吉と協力体制を構築した官兵衛は、さっそく秀吉による佐用・上月城攻略に従軍。戦での秀吉軍勝利に貢献したものの、この時は彼による敗者への苛烈な措置に協力しているという側面も見逃せません。

有岡城に1年間も幽閉される

以後も毛利氏攻略を担当して信長・秀吉の評価を高めていた官兵衛ですが、同僚である荒木村重の謀反に関連して命の危機を迎えることに。村重が籠る有岡城へ説得のため訪れた官兵衛は、なんと荒木勢によって生け捕りにされてしまったのです。

荒木村重の肖像画(落合芳幾 作)
荒木村重の肖像画(落合芳幾 作)

官兵衛にとってはとんだ災難でしたが、信長はこの行為を「官兵衛も村重に同調した」と判断し、秀吉のもとへ預けられていた長政を殺害するよう命じたという伝説があります。しかし、この時は竹中半兵衛の機転によって長政の死はからくも回避されました。

もっとも、織田家臣団の中でも官兵衛の信頼度は高く、信長も黒田家を評価していたために長政の殺害までは指示していなかったという見解も存在します。

いずれにせよ官兵衛本人は引き続き幽閉状態にありましたが、約1年後の天正7(1579)年には有岡城が落城。官兵衛は信長の家臣らに救出されましたが、この時には衰弱しきっており自力歩行さえも困難な有様でした。

一命を取り留めた官兵衛でしたが、これより少し前には主家である小寺家が毛利方についたことで信長の攻撃を受け没落するなど、この時期は彼の人生において最も辛く厳しかったであったことが推測できます。

秀吉の側近として躍進

天正8(1580)年以降、官兵衛は一気に出世街道を駆け上がっていきます。この年にはこれまで名乗っていた「小寺」の姓を「黒田」に改め、翌年には秀吉から1万石の所領を与えられるなど、黒田家はたちまち織田家の有力一族に成長しました。

戦においても引き続き秀吉の中国攻めに従い、鳥取城攻めや阿波攻めなどに活躍しています。特に注目するべきは天正10(1582)年の高松城攻めにおける行動で、一説ではこの際の攻略方法として有名な「水攻め」を秀吉に献策したのは官兵衛であると言われています。

秀吉の中国攻めの要所。色塗部分は該当エリア。青マーカーは織田の城、赤は敵方の城。

官兵衛発案の恐ろしい戦法によって終始優位な形で戦局を運んでいましたが、ここで彼らのもとに「本能寺で信長が討たれた」という知らせが届きました。

秀吉は自分を見出してくれた信長の死に悲しみを隠せませんでしたが、その様子を見た官兵衛は「信長公のことはとにかく残念だが、天下を納めるべきは貴君である」と語り、これに発奮したという言い伝えがあります。

秀吉はすみやかに毛利方との講和交渉をまとめると、世に名高い「中国大返し」によって急ぎ帰還し、見事に山崎の地で明智光秀を打倒しました。

その後、秀吉が清州会議に参加する一方で、官兵衛は蜂須賀正勝とともに講和した毛利氏との間で領土の境界線を話し合っています。

交渉はなかなかはかどりませんでしたが、その間の天正11(1583)年賤ケ岳の戦いに出陣し、戦での勝利と、それに伴う信長後継者の地位を秀吉にもたらしています。

しかし、毛利との交渉は依然として長引いており、秀吉から官兵衛らを叱責する厳しい書状が、敵方の安国寺恵瓊からは毛利家臣の秀吉服属に協力してほしい旨が伝えられるなど、内外から様々な要求を突き付けられました。それでも官兵衛は音を上げずに粘り強く交渉を重ねた結果、最終的に秀吉からその働きぶりを高く評価されています。

豊臣政権下での官兵衛

その後、秀吉に従って小牧・長久手の戦いや四国遠征を成功させると、天正13(1585)年にはこれまでの働きを評価されて播磨国宍粟郡(現在の兵庫県宍粟市付近)を与えられました。

この際に与えられた石高は3万8千石程度と考えられており、これまでの領地と合わせて約5万石を所有する中堅大名へと成長しています。

豊前国主へ

九州遠征に際しては官兵衛が事実上の現場司令官として派遣され、戸次川の戦いなどに代表される敗戦や失態が全くなかったわけではないものの、優れた手腕を発揮して巧みに九州地方を攻略。最終的には秀吉本人が大軍を率いて九州に上陸し、抵抗を続けていた島津氏も降伏を表明しました。

1587年、黒田氏の入封当時の豊前国。色塗部分は黒田氏の領土。

戦後、官兵衛はその功績を評価されて遠征で支配下に置かれた豊前国六郡を領有することになり、故郷播磨から遠く離れた豊前の地を本拠地として活動することになります。この際に与えられた石高はおおむね12万石と考えられており、彼は豊臣家による九州支配の要として考えられていたのでしょう。

キリシタン大名

そしてこの頃、官兵衛が下した大きな決断の一つがキリスト教への入信。官兵衛はキリスト教の洗礼を受け、キリシタン大名となっています。

「シメオン」という洗礼名を名乗った彼はキリシタンであることを公言し、播磨・豊前ではキリシタンの保護に努めています。しかし、天正14(1587)年バテレン追放令でも知られるように晩年の秀吉はアンチキリシタンでした。

秀吉のバテレン追放令
秀吉のバテレン追放令

官兵衛もまた秀吉によって厳しく非難されましたが、彼はあくまでキリシタンであることを曲げません。一方の秀吉も彼に与える恩賞を低く抑えるなど憤りを隠しませんでしたが、これまでの功績などから処罰することはせず、以後も側近として彼を重用しています。

豊前の地に降り立った官兵衛は統治機構の整備と反乱勢力の一掃に着手し、具体的には中津城という新拠点の建築や城井氏の一揆鎮圧などを行いました。

隠居

これらの活動がひと段落した天正17(1589)年、官兵衛は嫡男の長政に家督を譲り、自身は彼の後見役という立場に落ち着きました。ただし、これは第一線を退いたことを意味するものではなく、以後も小田原攻めや朝鮮出兵など、秀吉の起こした戦には必ず従軍しています。

また、官兵衛にとって晩年ともいえるこの時期には、これまで彼が見せてきた武人としての面だけではない文化的な一面が顔をのぞかせるようになっていきました。

官兵衛は「茶室での交流が軍事につながることもある」という事実を知り、晩年になって茶道に傾倒していきました。以後、彼は自らが考案して茶法を定めるなど、武勇だけではない一面を発揮していったのです。

秀吉の死とその後の官兵衛

そして時は流れ、秀吉の死後に黒田親子は徳川家勢力への従属を表明します。関ケ原に際して官兵衛は領国の防衛に努め、調略によって家康の勝利に大きく貢献しました。

戦後、長政には手柄として豊前国から筑前国(福岡)へ大幅加増移封となりました。また、官兵衛自身にも褒美の話が出ますが、彼はこれを辞退しています。

その後の官兵衛は福岡城の御鷹屋敷や太宰府天満宮に作った草庵にて、静かな隠居生活を送ったとされています。そして慶長9(1604)年に亡くなりますが、彼は最期まで天下取りの夢を抱いていたと言われています。

黒田家の菩提寺で知られる福岡市の崇福寺
黒田家の菩提寺で知られる福岡市の崇福寺(出所:wikipedia

命が消えるその瞬間まで、周囲や息子への思いやりを忘れなかったと伝えられる官兵衛。

「おもひおく 言の葉なくて つひに行く 道はまよはじ なるにまかせて」

という辞世の句を残し、この世を旅立ちました。辞世の句の意味は「もうこの世に思い残すことはない」というもの。その人生の中で、さまざまな苦労を背負い込んできた官兵衛だからこそ、死を間際にした率直な思いであったのかもしれません。


【参考文献】
  • 『国史大辞典』
  • 安藤 英男『黒田如水のすべて』、新人物往来社、1992年。
  • 歴史群像編集部『戦国時代人物事典』、学研パブリッシング、2009年。
  • 諏訪勝則『黒田官兵衛;「天下を狙った軍師」の実像』中央公論新社、2013年。





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