西郷隆盛の最期と死因 維新の英雄を死に至らしめたものは何だったのか?

 西郷隆盛は維新の英雄としてあまりにも有名であり、西南戦争による悲劇的な死は多くの人々の同情を誘っている。しかし、西郷はなぜ非業の死を遂げなければならなかったのだろうか。なんとなく、彼の生き様自体がその死を暗示しているような気がして、その点を探ってみることにした。

維新の功労者

 西郷隆盛は、言うまでもなく明治維新最大の功労者の1人である。薩長同盟締結(1866)、江戸城無血開城(1868)などの重要な局面において、西郷の名が見えないことはないと言ってよいであろう。

 維新後の新政府においても、廃藩置県、徴兵令の実施に関わる等、新政府の中枢で活躍を見せている。しかし実情を鑑みると、既に留守政府設置のあたりから、西郷の動きに異変が現れ始めたように思えるのだ。

 明治4年(1871)11月、不平等条約改正を目的とした外交使節団が結成。特命全権大使・岩倉具視、副使・木戸孝允、大久保利通、伊藤博文らという錚々たるメンバーの使節団が欧米諸国へ派遣された。いわゆる岩倉使節団である。

岩倉使節団。1872年サンフランシスコ到着直後の岩倉使節団の面々。左から木戸孝允、山口尚芳、岩倉、伊藤博文、大久保利通(出典:wikipedia)
岩倉使節団。1872年サンフランシスコ到着直後の岩倉使節団の面々。左から木戸孝允、山口尚芳、岩倉、伊藤博文、大久保利通(出典:wikipedia)

 一方で、明治政府の首脳たちが揃って外遊してしまうため、その留守を守り、廃藩置県の事後処理を行う組織が必要になった。これが留守政府であり、メンバーは太政大臣・三条実美、西郷隆盛、井上馨、大隈重信、板垣退助らであった。

 この頃の西郷の様子について、大隈はのちに回想している。

大隈:「西郷は政治方針については任せきりで、無条件に承認していた」

 実はこの時期、西郷は体調不良に悩まされていて、それが原因で今一つ精彩がなかった可能性もあるだろう。しかし、私が注目するのは太政大臣・三条実美が政治的な手腕に定評のあった大隈を重用したという点だ。

西郷:「自分は政治家ではない」

 西郷自身、このように述べていたというし、大隈も大隈伯演説座談の中で西郷のことを次のように言っていることから、政治的手腕についてはあまり評価されていなかったようなのである。

大隈:「軍人としては優れた人であるが、政治家としては如何であろう。」

 倒幕の志士たちの多くが、維新後に武士から欧米風の政治家或いは、官僚に変貌していく中で、西郷のみが近代化というものを目指しながらも、日本人の精神性にこだわり続けたのではないかと私は思っている。

 西郷は近代化と言いながら、単に欧化していくだけの政治家連中を快く思っていなかったようだ。このことが、後の西南戦争勃発に大いに関係すると思われるが、これについては後述する。

不平士族の反乱

 明治9年(1876)廃刀令が出され、警官など一部の職に就く者を除き、帯刀が禁じられることとなった。さらに同年に実施された秩禄処分により、収入が激減する士族が続出。西郷は明治政府に対する士族の不満が噴出したことに、とても気にかけていたという。

 それはそうであろう。江戸幕府が滅亡するまでの約700年間、武士は日本の支配階級として君臨してきたのだ。たとえ下級武士と言えども、ひとたび事あらば民百姓を守るため、刀を奮って戦わんという矜持を持っていただろう。そういう意味で刀は武士の魂も同然だった。それをあっさり奪われた喪失感たるや想像するに余りある。

 西郷は若い頃、争いに巻き込まれて手を怪我したため、剣術修行を諦めて学問に励むようになったという。おそらく、西郷は刀を失う喪失感を誰よりも深く理解できたのではないか。そして、明治政府への不満もあった。国民に対しては、地租改正や秩禄処分など負担を強いる政策を取りながら、自らは豪奢な生活を送っている者がいたからだ。

 西郷は、岩倉や大久保の邸宅が広大であることを批判している。彼の“為政者は質素であるべき”という思想はどこからきたのだろうか。

 西郷は10代の頃の弘化元年(1844)に、家計を支えるために郡書役助として薩摩藩に出仕している。磯田道史氏の著書『素顔の西郷隆盛』によると、このときの上司が迫田太次右衛門という人物であった。

 追田は奉行でありながら、かなりの変わり者だったらしい。もちろん良い意味で、である。彼には役人にありがちな傲慢さが微塵もなく、貧しい農民には自分の俸禄をあげてしまったという。結果、自らはあばら家同然の家に住むような有様だったが、全く頓着する風もない。領民たちは皆、そんな追田を心から慕った。おそらく西郷は、このような人物が実在することに少なからず驚いたのではないか。

 薩摩藩も建前上は、「お百姓は藩の大切なものであるから、大切にするのが武士たる者の務め」としておきながら、年貢は決して軽くはなく、巧妙な搾取構造まで取られていた。まだ若かった西郷も、薄々このことに気がついていただろう。そのような中にあって、追田のような人物の存在は奇跡に近いものがあった。

 その後、学問に打ち込む中で、米沢藩の上杉鷹山を育てた細井平洲の本を愛読するようになったという。鷹山も質素倹約に努め、藩の財政を建て直した名君であっただけに、“為政者は質素であるべき”という思いは高まったと思われる。

 幕府の官学であった朱子学的解釈によれば、田畑を耕し、年貢を納めることは百姓の天命のようなものだというが、西郷はこれに疑問を持ち始めたようだ。民百姓を飢えさせないような政もだが、年貢を徴収する大義名分とは何かについて深く考えるようになったのではないか。そうなると、民から集めた税から給料を頂いている者は、何はともあれ質素に暮らすのが筋であるという思想に行きつかざるを得ないように思える。

 因みに、『素顔の西郷隆盛』では、明治5年(1872)頃の西郷の収入にも触れていて、月600円をもらっていたことがわかっている。現在の金額に換算すると1800万円という大金であった。ところが、西郷自身は金に無頓着で、生活費の支払いは家人の永田熊吉に任せっきりだったという。さらに、家にいた十数人の書生の学費やら書籍代までも全て払っていたというから驚く。政府の要職につきながら、西郷の生活はかなり質素であったといってよいであろう。

 そんな西郷であったから、新政府の高官の多くが広大な屋敷に住み、妾を囲う有様を見て失望するのは当然のことであろう。西郷自身は征韓論を巡る論争、いわゆる明治6年の政変で既に鹿児島に下野していたが、これに同調した同郷の軍人らが続々と鹿児島に帰郷していた。若く血気盛んな彼らの多くが無職で、街中に溢れる事態となってしまったのである。

 明治7年(1874)、そんな彼らを指導・教育し、誤った方向に進まぬようとの目的で西郷が鹿児島に設立したのが私学校であった。私学校設立の真の目的は不平士族の暴発を防ぐことであったと思われるが、私学校党が西郷の影響力をバックに勢力を拡大し、県政を牛耳るようになる。

私学校跡地(鹿児島県鹿児島市城山町)
私学校跡地(鹿児島県鹿児島市城山町)

 明治9年(1876)、廃刀令、秩禄処分、徴兵令が矢継ぎ早に出されると、10月には熊本、福岡で相次いで不平士族の反乱が起きた。これらの改革には私学校党も憤慨していて、新政府は警戒を強めていた。西郷はこの頃、日当山温泉で湯治中であったが、私学校党を刺激しないように温泉に留まっていると桂久武への書簡に記されている。

 実は、この判断が西郷の運命を決してしまったようだ。西郷の死の遠因はこのときの判断ではないかと私は秘かに思っている。

西南戦争と最期

 新政府は警戒のため、鹿児島にある火薬庫から弾薬などを船で運び出したり、鹿児島出身の巡査を偵察のため、帰省と偽って派遣したりしている。この対応に、私学校党が益々不信感を募らせたことは間違いないだろう。

 そして明治10年(1877)1月29日に最悪の事態が起こる。私学校生徒が陸軍の草牟田火薬庫を襲撃するという事件を起こしたのである。

 これは、明らかに国家反逆行為であろう。しかし、新政府側も西郷と私学校党を離間させるか、私学校を瓦解させる目的で巡査を派遣したことが明るみに出ると大騒ぎとなる。大隅半島の小根占にいた西郷は急いで鹿児島へ戻るが、私学校での大評議会によって、政府問罪のため大軍を率いて上京することに決してしまった。

 これに西郷が参加することで西南戦争勃発となってしまうのであるが、西郷は担がれたとする通説が根強いように思う。ただ、前述の桂久武への書簡には、萩の乱を起こした前原一誠らの行動を愉快なものとして受け止めているというくだりがあり、新政府に対する反乱を全否定していない心中が伺える。

 私はここに、西郷の新政府に対する深い失望が見て取れると感じている。せっかく下級武士たちが大連合して、幕府を倒し新しい政府が出来たのも束の間で、志あったものも高位高官となると、俗物になり果ててしまう。

身を律し、民を教化することを蔑ろにし、西洋の猿真似ばかりしている様ではこの国は危うい

 西郷はこのように思っていたのではないだろうか。こうした失望感も西郷の死の遠因の1つだと私は考えている。

 西南戦争自体は西郷率いる薩軍は負け続け、鹿児島の城山で決戦の時を迎える。定説によれば、このときに股と腹部に被弾した西郷は別府晋介に自らの首を打たせて自害したという。

西郷隆盛(南洲翁)が自刃した場所を示す石碑「西郷隆盛終焉の地」(鹿児島県鹿児島市城山町)
西郷隆盛(南洲翁)が自刃した場所を示す石碑「西郷隆盛終焉の地」(鹿児島県鹿児島市城山町)

偽装死説

 西郷は風土病の後遺症で陰嚢が肥大していたため、遺骸の特定は容易だったことから異説の存在は限定的である。

 西南戦争後も西郷は生きており、中国大陸に逃れたという風説が広まった時期もあったらしい。明治24年(1891)、ロシア皇太子が来日して鹿児島へも立ち寄るとなると、今度は西郷が皇太子と共に帰国するという風説が広まった。

 その他にも有名なものとしては、西郷偽装死説がある。西郷の死は偽装で、実際には城山を脱出して欧州へ逃れたという説であるが、なにぶん根拠となる史料が、少なくとも私には見つけられなかったので何とも言えない。

 だだ、偽装死となると段取りがかなり大がかりなため、力のある組織がバックにいないと成功させることは難しいし、証拠等も全て隠滅するであろうから史料として残る可能性は低いだろう。

 仮に偽装死説が事実だとすれば、西郷の死因は病死か老衰といったところだろうか。

あとがき

 理想にこだわる人間は、時として周囲に煙たがられるものだとよく言われる。多少軽薄でも要領よく周りに配慮してくれる人物のほうが、時として評価が高かったりするものだ。西郷隆盛も俗物化していく新政府の役人には、かなり煙たがられたであろうことは容易に推測できる。

 「金・名誉・女」は男の自己顕示欲を満たす三大アイテムだからなおのことだろう。国民の税金によって食べさせてもらっている政府高官は、身を律して職務を遂行しなければならないとの考えを実行することは大変だと思われる。しかし、西郷自身それをやってのけたのだから周りのものはぐうの音もでなかったに違いない。

 それでは、西郷亡き後は、皆ほっと胸を撫で下ろして気楽に生活できたのだろうか。史料を読む限り、単純にそうとも言えないような点がぽつぽつと浮かび上がって来るのは不思議である。


【主な参考文献】
  • 磯田 道史『素顔の西郷隆盛 』新潮社 2018年
  • 家近 良樹『西郷隆盛 維新150年目の真実 』NHK出版  2017年
  • 猪飼隆明訳・解説『西郷隆盛「南洲翁遺訓」』KADOKAWA 新版2017年

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  この記事を書いた人
pinon さん
歴史にはまって早30年、還暦の歴オタライター。 平成バブルのおりにはディスコ通いならぬ古本屋通いにいそしみ、『ルイスフロイス日本史』、 『信長公記』、『甲陽軍鑑』等にはまる。 以降、バブルそっちのけで戦国時代、中でも織田信長にはまるあまり、 友人に向かって「マハラジャって何?」とのたまう有様に。 ...

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