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【逸話 LINEトーク画風】信玄初陣!「海口城の攻略」(1536年)

  • エピソード
 2019/01/01

『甲陽軍鑑』によれば、天文5年(1536年)11月には信玄が信濃佐久郡への出兵で、初陣を飾ったと伝わります。 今回はそのときのエピソードです。

信玄の初陣

  • 【原作】『名将言行録』
  • 【イラスト】Yuki 雪鷹
  • 【脚本】戦ヒス編集部

勝千代(=晴信、信玄)が元服した天文5(1536)年の末頃、父・武田信虎は兵8000を率いて信濃・海口城を攻めたが、このとき城主・平賀成頼入道源心はなかなかの将で城も堅固であり、武田方は攻めあぐねていた。

そのうちに大雪が降ってきて、ますます城を陥落させることが難しい状況になった。

━━ 同年12月26日 武田方の陣 ━━

重臣らは軍議の中で言った。

重臣ら

重臣A:敵の城兵が3000もいるとなると、こちらの攻めが成功するのも容易ではないのう。
重臣B:殿!今日は早くも12月の26日となり、年の瀬も迫っております。ここはひとまずご帰陣なさって来春のことになさるのがよろしいかと存じますが・・。
重臣C:敵も大雪といい、年末といい、後を追ってくるなどということはゆめゆめありますまい。

家臣団アイコン

武田信虎

うむ、その通りじゃ。一旦引きあげようぞ。

武田信虎アイコン

こうしてすっかり引きあげることに決まったが、晴信が進み出て言った。

武田晴信アイコン

晴信

父上、それがしに殿軍をお任せください。

武田信虎

フッ・・。武田の名折れにもなるようなことを申すやつじゃ。
敵が追ってくるまいと戦い慣れた者たちが申した以上、たとえわしがそちに殿を命じても、「それは次郎(=晴信の弟)に仰せつけ下され」などと申してこそ惣領であろう。次郎ならば到底このようなことは言うまい。

武田信虎アイコン

こうして晴信は叱られたが、それでも強く望んだため、

武田信虎

それならば後尾につけ!

武田信虎アイコン

・・ということで晴信は翌27日の暁に出発した。

━━ 12月27日 ━━

晴信は東へ三十里ほど下って残り、やっと300ほどの兵で殿を務めた。その夜、晴信は1人に3人分の食糧を与え、武装を解かせずに馬にも十分に餌を与え、鞍をおろさせなかった。

寒空のため、晴信は上戸下戸にかかわらずみなに酒を飲ませ、そして自ら兵士たちに触れまわった。

武田晴信アイコン

晴信

七つ時分(=午前4時)に出立するゆえ、準備をしておくのだ。

兵士らはみな、ひそかに晴信のことを嘲笑していた。このころ、父・信虎は嫡子である晴信よりも次男の次郎(=武田信繁)を寵愛しており、家臣たちもそれを知っていたのである。

兵士ら

兵士A:殿が晴信様をけなすのももっともなことじゃ。
兵士B:プププ。殿軍といっても、この風雪でどうして敵が向かってくるというんじゃ。
兵士C:その通りじゃな~。ワハハハ!

家臣団アイコン

━━ 12月28日 ━━

そして時間がくると、晴信は300騎とともに雪の中を突っ走った。それは甲府方面ではなく、引き返して敵の海口城へ向かい、夜明け前に城に到着したのであった。

平賀源心は油断して既に兵の多くを家に帰してしまっており、城にはわずか5、6千ほどしかいなかった。晴信は兵を3つに分けて自ら1隊を率いて城に入り、残りの2隊は旗を城外にあげてこれに応じた。
そして、敵の城兵はこちらの兵数もわからずにうろたえ、戦わぬうちに滅びてしまったのである。

━━ 武田の本拠・甲斐国にて ━━

信玄は源心の首を取って持ち帰り、父・信虎に献上した。

武田晴信アイコン

晴信

父上!源心の首を取ってまいりました。

諸将ら

諸将ら:おおっ!!

家臣団アイコン

諸将らはみな驚いたが、信虎はこの功を褒めることもなく、そして言った。

武田信虎

フンッ!その城にそのまま腰をすえ、遣いをよこそうともせずに城を捨てて帰ってくるとは臆病千万じゃ!

武田信虎アイコン

諸将らは晴信の行動を内心感服していたが、信虎の手前もあり、あえてその戦功を称えるということはしなかった。そして晴信はますます愚か者を装っていた。このときの晴信はまだ16歳であった。


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