軍旗に書かれた「風林火山」でよく知られる武田信玄といえば、戦国最強の武将の一人として必ずといっていいほど名前が挙がってきますよね。
本記事では主に『名将言行録』などの後世の編纂物をもとにして、LINE風の対話形式で信玄のいくつかのエピソードを再現してみました。内容の信ぴょう性はともかく、信玄の人柄がなんとなく伝わりましたら幸いです。
【目次】
※『名将言行録』より
信玄は幼名を勝千代といい、8歳の頃から長禅寺に住み込んで修行をした。生まれつき理解や判断が早く、1字を学んで10字を知るほどであった。
-- とある日 --
勝千代の師僧が1巻の書を出して言った。
これは玄恵法師の『庭訓往来』という書です。よく勉強するように。
勝千代はこれを2~3日のうちに早くも読み終え、師僧に言った。
これはさほど将たる者に必要なものとは思えませんゆえ、他になにか軍術に熟達できるものをお教えください。
ほほう、それはとても感心ですな。それでは他の書を出しましょう。
師僧はそう言って、中国の七部『孫子』『呉子』『司馬法』『尉繚子』『三略』『六韜』『李衛公問対』をだしてきて、勝千代に読ませた。
すると勝千代は、
これこそまさにそれがしが望むものでございます。
勝千代は喜び、昼夜を通してこれを学び、その理を徹底的に悟ったという。
※原作:『名将言行録』
これは甲府の長禅寺に伝わる、勝千代が遊んだという木馬にまつわる逸話である。
勝千代が12歳の秋の終りごろ、厠へ行くために縁側へ出ると、そこにいつも立ててあった木馬が急に身震いをし、言葉を発した。
勝千代!
???
勝千代は聞こえぬふりをしていたが、あまりの不思議さにそこに立ち止まっていると、再びその木馬がしゃべった。
勝千代!軍術と剣術ではどちらのほうがよいとおもうか?
どちらもだ。これこそ剣術の極みである。
勝千代はそういうと、すぐさまに一太刀で切り、木馬は縁から下に ”ズドン” と落ちた。そこで、勝千代は小姓を呼びだして命じた。
お呼びでしょうか?
そこの縁側の下になにがあるのか見てこい。
小姓が火をもって近づいてみると、そこには大きなタヌキが血に染まって死んでいたのであった。
※原作:『名将言行録』
勝千代が13歳の春ごろ、野に出て遊んでいると、40歳ほどの男が草に平伏してなにかをうかがっている様子であった。
あの男はなにをしているのだ?聞いてみてくれ。
勝千代はそばにいたお供の者に命じた。
おい、そちは一体なにをしておるのだ。
へい、夕雲雀を取ろうとして朝からここに来ております。
これを聞いた勝千代は、お供の者に言った。
「蟹は甲羅に似せて穴を掘る」ということわざがあるが、なるほどなあ。。
あの男はあのようにして雲雀をうかがうのが分相応なのだろうが、わしはわしのやり方で取ってみせよう。
そう言うと、勝千代は高いところに登り、麦畑や芝の生い繁っている中に、雲雀が降り立つところを見極めると、大勢の者に命じてたちまちに数十巣を取ったという。
※原作:『名将言行録』
勝千代には姉がおり、姉は駿河の今川義元に嫁いでいた。
勝千代13歳のときのある日、その姉から勝千代の母宛てに、貝合わせ(=貝殻の美しさや珍しさを競う等の遊び)のためにということで蛤がたくさん贈られてきた。
そこで大きいのを選んで、残りの小さいものは畳二畳分ほどに、ほぼふさがるぐらいで、高さは一尺もあったろうか。これを小姓たちに数えさせると3700余であった。そのとき諸将士が参候してきたので、
このハマグリはどのくらいあると思うか?
諸将A:うーん、2万ほどでしょうか。
諸将B:いや、1万5千くらいかな。
これを聞いた勝千代は、
人の数ならばそれほど多いとは思わないであろうに。だが5千の人数がいれば、何事もしようと思えば思いのままだ。
諸将A:おおお!
諸将B:なんと立派な。
聞いた者は舌をふるわぬ者はなかった。
『甲陽軍鑑』によれば、天文5年(1536年)11月には信玄が信濃佐久郡への出兵で、初陣を飾ったと伝わります。 今回はそのときのエピソードです。
勝千代(=晴信、信玄)が元服した天文5(1536)年の末頃、父・武田信虎は兵8000を率いて信濃・海口城を攻めたが、このとき城主・平賀成頼入道源心はなかなかの将で城も堅固であり、武田方は攻めあぐねていた。
そのうちに大雪が降ってきて、ますます城を陥落させることが難しい状況になった。
━━ 同年12月26日 武田方の陣 ━━
重臣らは軍議の中で言った。
重臣A:敵の城兵が3000もいるとなると、こちらの攻めが成功するのも容易ではないのう。
重臣B:殿!今日は早くも12月の26日となり、年の瀬も迫っております。ここはひとまずご帰陣なさって来春のことになさるのがよろしいかと存じますが・・。
重臣C:敵も大雪といい、年末といい、後を追ってくるなどということはゆめゆめありますまい。
うむ、その通りじゃ。一旦引きあげようぞ。
こうしてすっかり引きあげることに決まったが、晴信が進み出て言った。
父上、それがしに殿軍をお任せください。
フッ・・。武田の名折れにもなるようなことを申すやつじゃ。
敵が追ってくるまいと戦い慣れた者たちが申した以上、たとえわしがそちに殿を命じても、「それは次郎(=晴信の弟)に仰せつけ下され」などと申してこそ惣領であろう。次郎ならば到底このようなことは言うまい。
こうして晴信は叱られたが、それでも強く望んだため、
それならば後尾につけ!
・・ということで晴信は翌27日の暁に出発した。
━━ 12月27日 ━━
晴信は東へ三十里ほど下って残り、やっと300ほどの兵で殿を務めた。その夜、晴信は1人に3人分の食糧を与え、武装を解かせずに馬にも十分に餌を与え、鞍をおろさせなかった。
寒空のため、晴信は上戸下戸にかかわらずみなに酒を飲ませ、そして自ら兵士たちに触れまわった。
七つ時分(=午前4時)に出立するゆえ、準備をしておくのだ。
兵士らはみな、ひそかに晴信のことを嘲笑していた。このころ、父・信虎は嫡子である晴信よりも次男の次郎(=武田信繁)を寵愛しており、家臣たちもそれを知っていたのである。
兵士A:殿が晴信様をけなすのももっともなことじゃ。
兵士B:プププ。殿軍といっても、この風雪でどうして敵が向かってくるというんじゃ。
兵士C:その通りじゃな~。ワハハハ!
━━ 12月28日 ━━
そして時間がくると、晴信は300騎とともに雪の中を突っ走った。それは甲府方面ではなく、引き返して敵の海口城へ向かい、夜明け前に城に到着したのであった。
平賀源心は油断して既に兵の多くを家に帰してしまっており、城にはわずか5、6千ほどしかいなかった。晴信は兵を3つに分けて自ら1隊を率いて城に入り、残りの2隊は旗を城外にあげてこれに応じた。
そして、敵の城兵はこちらの兵数もわからずにうろたえ、戦わぬうちに滅びてしまったのである。
━━ 武田の本拠・甲斐国にて ━━
信玄は源心の首を取って持ち帰り、父・信虎に献上した。
父上!源心の首を取ってまいりました。
諸将ら:おおっ!!
諸将らはみな驚いたが、信虎はこの功を褒めることもなく、そして言った。
フンッ!その城にそのまま腰をすえ、遣いをよこそうともせずに城を捨てて帰ってくるとは臆病千万じゃ!
諸将らは晴信の行動を内心感服していたが、信虎の手前もあり、あえてその戦功を称えるということはしなかった。そして晴信はますます愚か者を装っていた。このときの晴信はまだ16歳であった。
※原作:『名将言行録』
天文9(1540)年、武田方が村上方の支城である信濃・海尻城を攻め取った。しかし、これを知った村上義清はすぐさま海尻城を取り戻すために攻め込んできた。
このとき海尻城の本丸に小山田備中昌辰、二の丸・三の丸に日向大和守・長坂光堅が少し前に降伏した信濃衆とともに守備していた。
しかし、信濃衆が村上義清と内通し、夜中に城内から火をかけて敵を招き入れたため、日向・長坂らは不意をつかれて二の丸・三の丸は攻め落とされ、武田方はちりぢりとなってしまった。
そして、その知らせを受けていた晴信(=信玄)が援軍に向かったところで、逃げ落ちてきた日向大和守とばったり会ったのである。
━━━━━━━
!!
あ、あれはもしや?
日向大和守は晴信に気づくと、馬から飛び降りて路の傍らに平伏した。
そこにおるのは大和か?
はっ!このような姿でお目見えいたしましたこと、恥ずべきことに存じます。
うむ、このようなときは誰であろうといたしかたない。しかし、よくぞここまで無事に逃れ、わしも満足だ。さぞかし無念であったろう。
疲れておるだろうが、ここからすぐ引き返して今日の先陣を任せる。
ははあーっ!
うむ、そちにまた大馬印をあずけるゆえ、それを先頭にして一功名をたててみよ。
面目身に余りまする。ありがたく御引き受けいたします。
そしてすぐに大和は馬に乗り、大音声で言った。
南無弓矢八幡大菩薩、小山田が本丸で凌いでいる間に、駆けつけさせて下され!
武田兵たち:おおおおおーーーーーっ!!
こうして日向大和守はいつも以上に勇ましい様子で海尻城へ向かって行った。
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しばらくして、先陣の日向大和守のもとに晴信からの使者が来た。
晴信様が「大和の勇勢はいつも以上に勝っているゆえ、勝利は間違いなしだ」と申しておりました。
それはありがたきお言葉、かならずや功をあげてみせますぞ!!
これを聞いて大和守は君命をありがたく感謝し、すぐに海尻城へ乗りつけて大きな功をあげた。
信玄の一言によって大和守は覚悟を決めて大功を立てたということである。
※『甲陽軍艦』『名将言行録』
家督を相続した青年・武田晴信(のちの信玄)は、やがて詩歌や遊興・深夜までの酒宴など、怠惰な生活をはじめた。これに対して信方は、病を理由にしばらくの間は出仕もせず、詩歌を勉強していた。
やがて出仕した信方が言った。
殿。それがしも詩歌を作ってみたいので、お題を与えてもらえませぬか?
!!?
・・・・で、では与えようぞ。お題は●●じゃ。
(なんだ・・説教じゃないのか。。)
晴信は信方に詩の才能があると思ってもなかったが、信方は優れた詩を次々と書いて信玄を驚かせた。
一体どこで、それを学んだのだ。
主の嗜むことを、家来が学ぶのは当然のことでございます。留守の間に僧に学びました。
うむ。そうであったか。
晴信は信方の返答に気をよくしたところ、信方はすかさずに言った。
殿。これを機に、詩作はほどほどになされませ。
!!
信虎様は横暴で悪行をなされたからこそ、道に外れた者として追放されました。 それなのに、信虎様の悪しき時代を正されるために大将となった殿(=晴信)がこの有様でしたら、信虎公よりも百倍も悪い大将といえましょう。
ぐ、くっ!!
腹正しく、ご成敗なされるのなら、ご馬前に討死いたしましょう。
う、ううっ・・。
晴信は感涙し、信方に対して「2度とこのような振る舞いはしない」と誓ったという。
※原作:『名将言行録』
天文12年(1543年)3月のこと、重臣の板垣信方が牢人であった山本勘助を家臣に取り立てるように推挙すると、信玄はすぐに勘助を招いて200貫の領地を与えた。
━━ 甲斐国・信玄の居城 ━━
牢人を取り立てていきなり多くの知行を与えるという異例のことに、家中では疑問に思う者もおり、原昌俊がこれを諌めた。
殿!いきなりそれだけの知行を与えるのはいかがかと存じまする!
そちが不審に思うのももっともなことだ。
わしは小さい頃より武家の棟梁になって天下を統一しようと思い、小山田備中守と相談して、14のときにひそかに三河国牛窪にでかけて行き、勘助と主従の契約を結んだ。
なんと!!
それからは勘助を武者修行と称して諸国をまわらせ、各地の風俗を探させたのだ。
また、各地の要害を絵図に描かせたゆえ、わしはまるでその地に行ってみているように詳しく知っておる。これは勘助の功ではないか?
むうう・・。
昌俊は返す言葉もなく、家中の者らも勘助の話を聞いて感歎した。そして信玄は続けて話した。
父・信虎を廃した後は勘助を目付として駿河に置いておった。勘助ほどの者が仮に今川家に仕えようと望んでいたとして、なぜ9カ年もの長い間、それを成せずに駿河に留まっているのか。必ずや自ら今川家へ仕官の道を求めて成し得たはずだ。
今ではわしの勇名は近隣にひびき、今川家ごときは少しも恐れぬ。だから信方の推挙を幸いに、いま呼び寄せたわけだ。
勘助という者は当代弓矢とって随一であろうぞ。あの男は今後はわしの師範であるから、そなたらも水魚の交わりをして、ますます軍学に励むがよい。
それはたいした者にござりまするな。
こうして原昌俊は勘助のことを褒め、納得して退出した。
一方であるとき、長坂光堅が信玄の側近として召しあげられる勘助を妬んで言った。
最近、勘助をお近づけになられますことは、今川家の思惑もあるかと存じます。
「謀のある者は近づけよ」ということがある。今川がなんと思おうが、わしは勘助の言うことに耳をかたむけようぞ。
ぐくっ・・・。
このように信玄は勘助に絶大な信頼を寄せていたのであった。
※原作:『名将言行録』
天文12年(1543年)の10月。19、20日と乱取り(合戦のあとに、兵士が人や物を略奪する行為のこと)をした翌日の21日、先鋒の甘利虎泰が板垣信方の陣営にやってきた。
━━ 板垣信方の陣 ━━
不思議な夢をみたのじゃ。今宵、諏訪大明神の神の使いだという大山伏がでてきて「こたび下郎どもが乱暴狼藉を働いているのはあるまじき非道である。早く止めさせよ。」とお告げしたのじゃ。まことに不思議なことじゃ。
なんじゃと!?実はわしもそのような夢をみたのじゃ!!
なんじゃとお!?そんなことがあるかのう・・まったくもって不思議じゃ~。
さらには飯富虎昌もやってきて同じことを言ったのである。
これを聞いていた兵士らも驚き、板垣信方ら3人はすぐに狼藉を禁じる命をだした。そしてこのことを聞いた兵士らは誰一人として禁を破るものはなかったというのである。
ここで話は前日の20日に戻る。信玄が信方を呼び出したときのこと…。
━━ 前日(20日)━━
殿、いかがなされましたか。
うむ、こたびは乱取りを許したが、下郎どもは元々これが大好きゆえに夜も明けぬうちから走り出ていき、夕方頃にようやく戻ってくる。おそらくだが、いまとなっては相応の獲物を手にいれなかった者は一人もおらぬだろう。
そろそろ信濃勢からも攻め込んでくると思うが、そのとき下郎どもが乱取りに夢中で陣が空っぽであれば、どうして敵にあたることができようか。
たしかに。殿のおおせのとおりですな。
わしが乱取り禁止を命じても、こっそりと人目をかすめ、夜にまぎれて出かける者がおったら、その者を誅伐するほかないであろう。しかし、陣中でそうすることは主将たる者のなすべきことではない。
できれば乱暴狼藉を下郎ども自らが気づいてやめるようにするのがよいのだ。
・・・
いかようにして、気づかせるのでございますか?
うむ、まずはそちと飯富・甘利の3人の陣中を禁止にせよ!さすればその他の隊は枝葉ゆえ、禁令を出さずとも止むであろう。
なるほど、それはよきお考えでございますな。
このように信玄は事前に板垣信方らと取り計らっていたのである。案の定、乱暴はぴたりと止んだということである。
※原作:『名将言行録』
永禄12(1569)年12月、信玄による駿河侵攻が大詰めを迎え、すでに今川氏は事実上滅び、信玄は今川に援軍を出す北条氏との抗争を繰り広げていた。こうした中、信玄が北条綱重の守る駿河国・蒲原城に攻め込んだときのことである。
━━【駿河国・蒲原城周辺】━━
信玄は蒲原城内に使者を出し、開城を試みた。
武田の使者にござる。こたびは朋輩のご連中と城の明け渡しをお願い申す。
うぬう・・。我等はいやしくも北条幻庵のせがれであるゆえ、他の者らとはいささか違う。わしは降伏はせぬ。もし信玄が攻めてくるというならば一戦を辞さぬ覚悟だ。帰ってそのように伝えるがよい。
これを聞いた信玄は・・・・
うむ、やむを得んな。明日は駿河の城に取りかかることとし、蒲原城はまたのことにする。
こうして御触れをだした。
武田方は去る同年10月に三増峠で北条方を討ち破っていたが、信玄がこの戦いのことを知ると、また言った。
敵の城兵らは打って出てきたところで我らを食い止められまい。老臣らは出てこないが、綱重だけは氏康・氏政より豪勇の士だからおそらく外へ討って出てくるだろう。
・・・
もし敵兵が食い止めに討ってでてきても、かまわずにつき進むのじゃ。ここで兵数を減らし、駿河の城攻めに手間取ってはどうしようもないわ。
!!(むう、すぐに報告しなくては・・)
信玄はこうして作戦を立てたが、敵の忍びが潜んで話は聞かれていた。忍びが城に戻ってこれを報告すると、敵の上下の者らは競い合って言った。
諸将A:明日、武田が通るところを討って出て食い止めようぞ。
諸将B:いや、通した後に追って討つのがよかろう。
うむ、敵の先手と本隊を分断してしまえば、信玄を討ち取ることは容易じゃ。
などと意見を言い合った。
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さて、武田の先手が5日の途中に出発し、6日の朝には由井倉沢まで通った。
しばらく間をおいて小山田備中昌辰が本隊の少し先を行った。すると案の定、綱重と狩野新八郎が城を出払って武田先鋒と本隊との間に割って入り、打って出てきた。
そして北条綱重が昌辰と競り合う隙に、武田四郎勝頼が道場山から攻め込み、その他本隊と後備・脇備が一緒になって蒲原城を乗っ取ったのであった。
これをみて綱重は城に引き返すが後の祭りであり、小山田勢の追撃を受けてことごとく首を討ち取られたのであった。
※原作:『名将言行録』
永禄13(1570)年正月26日、北条氏政は駿河国の薩た峠に進出して陣地を構え、武田信玄の背後に迫って封鎖。
これに信玄は、山県昌景を駿府に留め、本陣を久能城(清水市久能)におき、武田信豊を興津清見寺に進ませ、薩た峠の北条軍に対抗する。これは興津清見寺付近での対陣に関する話である。
━━━ 駿河国・興津河原 ━━━
酒じゃ!皆の分が足りるよう酒を買うてこい!
今川氏の救援にやってきた北条軍と武田軍とが興津河原(=静岡県静岡市清水区)で対陣していたとき、正月で浜風も強くふき、敵味方ともに耐えがたい寒さであったという。
はっ!かしこまりました。
信玄はこうして酒を買うように命じ、寒さを凌ぐために多くの釜を集めて酒を温めると、家臣らにも酒を与えた。
どうじゃ?酒を飲んでずいぶんと身体も温まったか?
はい、しかしそれでもまだ寒うございます!
ふはははは!
こうして平地で酒を飲んでいても寒いか!
じゃが、山の上にいる北条勢はもっと寒かろう。
たしかに・・・ごもっともでござりまする。
わしの言いたいことがわからぬか?
は?
北条勢は高いところに陣はかまえていても、あまりの寒さに麓に降りて油断しているだろう。
今飲んだ酒が醒めぬうちに敵の陣を撃ち取ってしまえということじゃ!
そういうことでございましたか。さすが御屋形様!ただちに出陣いたします!!
そうして武田勢の先鋒が敵陣のある薩山へ攻め上がると、案の定1人2人が残っているだけであり、ほとんどの者が麓に降りていたため、あっさりと陣屋を破り、さらに武具や馬具を多く奪って帰ってきたという。
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