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賤ケ岳の七本槍 ~幕末まで生き残った家はあったのか?

 織田信長が本能寺の変に倒れた翌年の天正11年(1583)、羽柴秀吉と柴田勝家が激突した賤ケ岳の合戦が起こりました。この戦いで秀吉の勝利に貢献した若き武将たちは「賤ケ岳の七本槍」と呼ばれ、後に大大名に出世した者もいたのです。

賤ケ岳の七本槍とは

 賤ケ岳の合戦は信長の事実上の後継者を決める戦いで、勝利の勢いに乗った秀吉が勝家を滅ぼし、天下人へ大きく前進したことで知られています。

 秀吉の一代記である太閤記は、この戦いで目ざましい活躍をした武将たちのなかから、とくに7人の武将を「賤ケ岳の七本槍」として取り上げ、後世に語り継いでいきました。

 その7人の武将は、加藤清正、福島正則、片桐且元、糟屋武則、加藤嘉明、平野長泰、脇坂安治です。

 最年長の脇坂が29歳で、片桐が27歳、平野が24歳、福島が22歳、加藤清、糟谷が21歳、加藤嘉が20歳という若武者たちでした。

出世を果たした七本槍

 合戦後、武功を挙げた七本槍は、秀吉子飼いの家臣として出世していき、秀吉が天下人になると、豊臣家の屋台骨を支える武将になっていきます。なかでも出世頭の福島は尾張清洲24万石、加藤清は肥後半国19万5千石の大名に取り立てられました。

 ところが秀吉亡き後、次の天下人を狙う徳川家康と石田三成の対立が深まる中で、七本槍の命運も分かれることになりました。

 関ケ原の合戦で家康方(東軍)についた諸将は、戦後に大出世を果たします。加藤清は肥後一国54万石、福島は安芸広島49万8千石、加藤嘉は伊予松山20万石の大名に躍進したのです。

 三成方(西軍)では、合戦の最中に東軍に寝返った脇坂が洲本3万3千石を安堵された一方、糟谷は加古川1万2千石を没収され、大名の座から転落しました。

没落していった猛者たちとその一族

 七本槍の次なる試練は、徳川家と豊臣家の対立でした。

 豊臣家の頼みの綱でもあった加藤清正は、家康と豊臣秀頼の対面に尽力しましたが、慶長16年(1611)に死去してしまいます。その後、加藤氏は子の忠広の時に改易処分となって断絶しました。

 片桐且元は豊臣家の家老として、戦いを回避すべく奔走しますが不調に終わり、大坂冬、夏の陣直前に大坂城から退去。不遇の晩年となったばかりか、且元から4代後に片桐氏は断絶してしまいました。

 福島正則は大坂冬、夏の陣後の元和5年(1619)、無断で広島城を修繕したとして改易処分となります。大名家としての福島氏は正則自ら閉ざすことになったのです。

幕末まで生き残った家は?

 加藤嘉明は、伊予松山から会津40万石の大名に抜擢されるほどでしたが、子の明成の時にお家騒動を起こして領地没収処分が下されました。

 加藤氏は、明成の子の明友が岩見吉永1万石の大名として辛うじて存続を許され、後に近江水口藩を立藩。一度壬生藩に転封後、再び水口藩に戻り、以後幕末まで加藤氏2万5千石として命脈を保っていきました。

 脇坂安治は、洲本藩から伊予大洲藩に加増転封となったところで家督を譲り、子の安元は信濃飯田藩に転封。譜代大名の堀田家から養子(安政)を迎え、播磨龍野藩に転封となってからは、脇坂氏が龍野藩主として幕末まで君臨しました。

おわりに

 七本槍で唯一、秀吉の時も大名になれなかった平野長泰。関ケ原の合戦で東軍につきながら目立った活躍がなく、大名に出世することができませんでした。

 平野氏は旗本として江戸時代を生き抜き、幕末の平野長裕の時に明治新政府の計らいで石高直しされ、晴れて大和田原本藩1万石の大名となりました。長泰の死から240年後のことでした。

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  この記事を書いた人
マイケルオズ さん
フリーランスでライターをやっています。歴女ではなく、レキダン(歴男)オヤジです! 戦国と幕末・維新が好きですが、古代、源平、南北朝、江戸、近代と、どの時代でも興味津々。 愛好者目線で、時には大胆な思い入れも交えながら、歴史コラムを書いていきたいと思います。

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