戦国大名の改易と徳川時代の幕開け…武家諸法度・一国一城令と、福島正則の改易事例

関ヶ原合戦と改易

 慶長3年(1598)、ときの最高権力者で天下人だった豊臣秀吉が没すると、徳川家康は満を持していたかのように、天下取りに名乗りをあげた。家康が秀吉の遺言を次々と破り(私婚を進めるなど)、秀吉の後継者の秀頼を蔑ろにしたことは、よく知られている。

 やがて家康と豊臣家を支えていた石田三成が対立し、慶長5年(1600)9月に関ヶ原合戦が勃発した。この戦いでは家康の率いる東軍が圧勝し、敗れた西軍の諸将の中には改易など厳しい処分を受ける者が存在した。いくつか例を挙げておこう。

 西軍を率いた石田三成、小西行長、安国寺恵瓊は斬首となり、死をもって敗北の責任を負わされ、その所領は没収された。また、若き五大老として西軍の総大将を務めた宇喜多秀家は、備前・美作などの所領を取り上げられた。秀家は長い逃亡生活を余儀なくされ、最後は八丈島に流された。むろん、これ以外にも、多くの大名が改易の憂き目に遭った。徳川家による大名改易の原形は、この時点に遡ることができよう。

 このように家康が戦勝者となり、大名を処分しうる立場になったことは、必然的に秀頼の地位が低下することを意味した。慶長8年(1603)、家康は征夷大将軍に就任し、江戸幕府を開幕した。慶長20年(1615)の大坂の陣で豊臣家を滅ぼすと、名実ともに天下を掌握し、大名の統制に力を入れた。そして、大名統制を目的として制定されたのが、「一国一城令」、「武家諸法度」という法令なのである。

「一国一城令」、「武家諸法度」の成立と改易

 家康が全国統治権を行使する中で、大名統制を積極的に行うことは当然の流れだった。江戸幕府は260年にわたり続いたが、開幕した直後は安泰と言いうるような状況になかった。そのため、関係する法の制定と整備・運用を進めたのである。

 その第一弾は、元和元年(1615)閏6月に制定された「一国一城令」である。豊臣家滅亡直後という、格好のタイミングだった。「一国一城令」とは、その名が示すとおり一つの領国に一つの城しか認めない法である。したがって、大名の本城を除くすべての支城は、破却が命じられた。この法令は、各大名の戦闘意欲を必然的に削ぎ、戦力を削減することにつながった(「一国一城令」を単行法令と認めない説もある)。

 その翌月に発布されたのが、「武家諸法度」である。「武家諸法度」は金地院崇伝が家康の命を受けて起草したもので、二代将軍秀忠の名前で発布された。その内容で重要なのは、

  • ① 城郭修理の禁止
  • ② 徒党の禁止
  • ③ 婚姻の許可制
  • ④ 参勤作法
  • ⑤ 大名の国政
の5つである。

 幕府は武家法の体系を整備すると、以後も見直し改定を行うことで精度を高め、違反者に対しては、厳しい処分で臨んだ。これまでも後継者の不在、御家騒動等によって改易された大名家の例があったが、「武家諸法度」の制定により、法的根拠が整ったのである。

 次に、改易の事例を確認することにしよう。

福島正則の改易

「武家諸法度」発布後には、どのような違反した事例があったのだろうか。ここでは、福島正則が改易になった例を見ることにしよう。

福島正則像 (模本。出典:<a href="https://colbase.nich.go.jp/?locale=ja">ColBase</a>)
福島正則像 (模本。出典:ColBase

 福島正則は「賤ケ岳の七本鎗」の1人で、豊臣秀吉の子飼いの大名としても名を馳せた。関ヶ原合戦では東軍に味方し、その軍功により備後・安芸の両国に49万石を与えられ、一躍して大大名の仲間入りを果たした。以後も正則は、徳川家康に従った。

 正則は栄達を遂げたものの、隙があったのは事実である。元和5年(1619)に正則が上洛しようとしたとき、居城の広島城を前年から改修していることが幕府に知られてしまった。城郭を改修する際、幕府への事前の許可が必要だったので、明らかな「武家諸法度」の違反である。

 この事実を耳にした秀忠は、いったんは広島城の本丸以外(二の丸、三の丸、惣構え)をすべて破却することで、正則を許そうと考えた。正則は秀忠の配慮に胸を撫で下ろして安堵し、すぐに指示に従って工事を始めた。ところが、正則は土や石を取り除き、本丸の壁を取るなどの簡単な措置しかしなかったのである。

 正則は、城の一部だけを破却したことにより、幕府への「降参」の意を示したので、あくまで秀忠の指示を形式的なものと軽く考えていたようだ。しかし、秀忠はこの一報を耳にすると、破却が不十分であると激怒し、正則の領国(安芸・備後)を直ちに没収したのである。正則は、まったく予想すらしていなかったに違いない。

 改易後、正則は信濃国(高井郡)・越後国(魚沼郡)に移され、自らは子の忠勝に家督を譲って蟄居した。翌年、忠勝が若くして亡くなったので、2万5千石を返上した。

長野県高山村にある、福島正則を荼毘に付した場所の跡地(出典:wikipedia)
長野県高山村にある、福島正則を荼毘に付した場所の跡地(出典:wikipedia)

 寛永元年(1624)に正則が没した際、遺骸は幕府検使が現地に到着する前に荼毘(だび。火葬のこと)に付された。またもや福島氏は決まりに違反したので、正則の子・正利は残りの2万石も取り上げられ、3千石の旗本にまで身分を落としたのである。

 このように、いったん改易処分を受けると、その後の復活は難しく、それどころか這い上がれないほどに転落することもあった。正則の例は、その悲惨なものの一つであるといえよう。

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  この記事を書いた人
渡邊大門 さん
1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書(新刊)、 『豊臣五奉行と家 ...

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