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坂本龍馬を幕末の英雄に育てた姉さんたち
- 2025/08/03

幕末の英雄で最も有名な人物の一人が坂本龍馬です。龍馬は、薩長同盟や大政奉還といった歴史を転換する出来事にかかわったとされ、経済感覚にすぐれた柔軟な思想の持ち主と言われています。
そんな龍馬には「育ての親」とも言える姉さんたちがいました。
そんな龍馬には「育ての親」とも言える姉さんたちがいました。
坂本龍馬のきょうだいたち
坂本龍馬(直柔)は天保6年(1835)、土佐藩本町(高知市)の郷士株を持つ商家の5人きょうだいの末っ子として生まれました。一番上は長男の権平直方で、龍馬とは21歳も年が離れていました。次は長女の千鶴で、龍馬との年齢差は19歳。龍馬にとっては、きょうだいというよりも親子に相当するような関係だったとも思われます。
3番目は二女の栄ですが、生年月日は分かっていません。
そして4番目が三女の乙女。彼女は龍馬の3歳年上ということで、龍馬にとってきょうだいの中では最も身近な存在だったと言えるでしょう。
龍馬を厳しく育てた乙女姉さん
龍馬は10歳の時に母親の幸を亡くしています。当時の龍馬は泣き虫で気が弱く、いつまでたってもおねしょが治らない少年だったそうです。一方の乙女は身長170センチを超える大柄な女子で、男まさりの性格も相まって「坂本家の仁王様」とあだ名がつけられていました。

幸亡き後、乙女は龍馬の母親代わりになろうと決意します。龍馬を一人前の男に育て上げるため、学問も武芸も容赦なく龍馬を鍛え上げました。時には、くじけそうになる龍馬に愛情を持って励まし続けてきたのでしょう。
龍馬も乙女を慕っていたようで、後に脱藩して土佐藩を去った後も乙女との手紙のやり取りは欠かしませんでした。
龍馬の後継者は千鶴姉さんの子供
長女の千鶴は、龍馬が幼い時に高松順蔵のもとに嫁ぎました。順蔵は剣術家であるとともに、和歌や書にも造詣が深い人物だったそうです。龍馬はたびたび高松家へ遊びに出かけており、順蔵の薫陶を得たことで思想や行動にも影響を受けたと思われます。
順蔵・千鶴の長男の太郎は、天保13年(1842)生まれで、龍馬よりも7歳年下です。末っ子の龍馬にとっては待望の「弟分」だったようで、後に龍馬が亀山社中(海援隊)を組織した時にも隊士として参加します。
さらに太郎は、明治になって龍馬の養子として「坂本直」と名乗り、名実ともに坂本龍馬の後継者となったのです。
龍馬に刀を渡したのは栄姉さん?
二女の栄は、柴田作左衛門という人に嫁いだことくらいしか分かっていません。ただ、栄と龍馬の関係について、かつて有名な逸話がありました。龍馬が密かに脱藩を決意した際、当時離婚して出戻りだった栄が、夫の形見の名刀「陸奥守吉行」を龍馬に渡して脱藩を手助けします。坂本家が脱藩の重罪に問われないよう、栄は責任を取って自害をした―という話です。
実際には、栄が亡くなったとされるのは龍馬の脱藩よりもはるかに前のことと推定されるため、逸話は創作というのが定説のようです。
ただ、千鶴や乙女との良好なきょうだい関係を思えば、栄も何らかの形で龍馬の成長にかかわっていただろうと想像できます。
おわりに
坂本龍馬が乙女に宛てた手紙には、人生相談や恋愛に関することなどプライベートで赤裸々な記載も散見でき、乙女との信頼関係の厚さを垣間見ることができます。「読んだら手紙を捨ててくれ」と頼んだ龍馬でしたが、乙女は大切に保管し続けました。自分が育てた弟が立派に成長する姿が嬉しく、誇りに思っていたに違いありません。
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