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読めば読むほど面白い! 坂本龍馬が残した手紙
- 2025/06/30

幕末の風雲児として人気が高い坂本龍馬は、生涯に数多くの手紙を書いており、そのうちの140通近くが現存しています。とくに龍馬の手紙のなかでも家族に宛てたものは、文面から龍馬の家族愛を垣間見ることができます。
龍馬の手紙が残った理由は?
坂本龍馬は、天保6年(1836)に土佐藩の下級武士である坂本家の末っ子として生まれました。きょうだいのうち、長男の権平とは22歳も年が離れており、両親亡き後は父親代わりとなっています。もっとも年が近かったのは3歳年上の姉・乙女で、龍馬は脱藩してからも乙女には何通も手紙を書き、乙女も龍馬に手紙をしたためていたようです。
龍馬自身は、手紙が残ることを嫌がっていたと言われていますが、乙女は龍馬の手紙を大切に保管し、そのおかげで活躍していた当時の「いきいきとした龍馬像」を読み解くことができます。
では、家族への手紙のうち、いくつかご紹介していきましょう。
脱藩直後の乙女宛の手紙
まずは文久3年(1863)3月20日付の乙女宛の手紙です。脱藩した龍馬は紆余曲折を経て勝海舟の弟子となります。脱藩から約1年後、初めて家族にあてて手紙をしたためたのです。龍馬は海舟の弟子になったことを「自分は運が強い」と語り、その比較対象として不運な人を次のように書いています。
「うんのわるいものハふろよりいでんとして、きんたまをつめわりて死ぬるものもあり」
他にも例えようがあろうかと思いますが、風呂から出る時に急所を打って死んだ、という人が本当にいるのかどうか・・・。音信不通で心配していた家族を笑わせて安心させてやろうという、龍馬の茶目っ気たっぷりな一面が表れているようです。
ちなみに、この2か月後に届いた乙女宛の手紙は、後に「エヘンの手紙」と呼ばれ、海舟の弟子であることを自慢する話を書き綴っています。
姪の春猪宛の手紙
権平の娘で姪にあたる春猪は、龍馬にとっては年の離れた妹のような存在だったらしく、とてもかわいがっていたといい、脱藩後にも何通も春猪宛の手紙を書いています。そのうちの一通が慶応3年(1867)1月20日付の手紙で、書き出しから名前を何度も呼び掛けてきます。「春猪どの々、春猪どのよ々」
内容はというと、春猪の顔をからかったり、失礼なことを言ったりしています。
「こんぺいとふのいがた」
(金平糖の鋳型=でこぼこがある例え)
「おまへハ人から一歩もたして、をとこという男ハ皆にげだす」
(男という男はみんな逃げ出す)
ただ、これも龍馬独特の愛情表現と思われ、おそらく春猪とは、いつもお互いをボロクソに言い合える仲だったのではないでしょうか。もちろん、春猪の行く末のことも心配しており、いつ会えるかわからない可愛い姪に向かって次のような優しい言葉をかけています。
「先々御ぶじで、をくらしよ」
坂本権平への催促の手紙
権平宛の手紙は「一筆啓上仕候」という書き出しで始まり、乙女や春猪への手紙とはちょっと雰囲気が異なります。龍馬が、親代わりである権平への礼儀をわきまえていることがうかがえます。慶応3年8月8日付の手紙は、龍馬率いる海援隊の隊士がかかわったと疑われたイカルス号事件(英国水兵殺害事件)の顛末と事件処理について報告した内容です。龍馬の身の上を心配する家族を安心させるために書いたのでしょう。
ただ、龍馬の手紙はそれだけが目的ではなかったようです。龍馬は兄が所有している無銘の名刀が欲しいと催促していたのです。
その代わりに「西洋のもので欲しいのがあれば何でも言ってください」と書きとりあえず手持ちの時計を権平にプレゼントしたようです。
「何ぞ御求被成度、西洋もの有之候得ハ御申聞奉願候」
兄を立てつつも、末っ子の甘えん坊ぶりが見えてくるようですね。
おわりに
坂本龍馬の手紙は、龍馬の人柄を読み解くうえで貴重な資料になっています。とくにたくさんの手紙を残してくれた乙女姉さんには、感謝の言葉しかありません。なお、この記事を書くのにあたり、亀山社中ば生かす会(長崎市)発行の「龍馬が書く~坂本龍馬書簡抄」を参考にさせていただきました。
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