お愛の方(西郷局)…土岐源氏の流れを汲む名族の出身。二代将軍・秀忠の生母は家康最愛の側室だった
- 2023/06/01
徳川家康というと、子だくさんというイメージがあると思う。実際、実子だけでも男子11人女子5人をもうけている。子だくさんということは、それなりの数の側室がいたということになるが、最初から側室が多かった訳ではないことはご存じだろうか。西郷局は側室政策の転換期に、家康の側室となった女性である。
三河西郷氏
西郷局は天文21年(1552)に生を受けた。生年には永禄4年(1561)説もある。父は戸塚忠春、母は三河西郷氏の娘であるという。ちなみに、三河西郷氏は土岐源氏の流れを汲む名族であり、そもそも岡崎城は三河守護代であった西郷頼嗣によって築城されたのであった。その後、松平清康によって岡崎城が開城させられて以降は、東三河の国人領主として今川氏に従属。桶狭間の戦い後は、松平氏に臣従したようだ。
西郷局の幼少期は辛いものであった。
まずは、兄の戸塚忠家が戦死する。父はその頃既になく、母と西郷局は祖父の西郷正勝に保護されたという。その後、正勝の嫡孫である義勝と結婚するが、どうやら義勝の後妻となったらしい。
ところが今度は、元亀2年(1571)、武田方の秋山虎繁が三河に侵攻するに及び、菅沼定盈の援軍要請に応え出陣。両軍は設楽郡竹広にて激突する。いわゆる竹広合戦である。
激戦の末、武田軍を退けるが、そのさなかに義勝は戦死してしまう。
母のもとへ
祖父・正勝も戦死して既にこの世を去っていたので、寄る辺と言えば再婚した母の下くらいであった。伯父の西郷清員の下も選択肢としてはあったであろうが、彼の治める東三河は駿府を制圧していた武田からの侵攻を受けやすかったこともあり、却下されたのではないか。ちなみに母の再婚相手というのは、服部正尚である。名前からわかるように、あの服部半蔵正成の一族であるようだ。伊賀の郷士であった正尚と再婚した母は伊賀に移り住み、それを頼った西郷局は一時期伊賀に居住していたという。
家康との出会い
天正3年(1575)、長篠の戦いで武田勝頼が大敗を喫したことにより、武田の勢力は三河から駆逐されたようだ。この頃、家康は大きな問題を抱えていたのではないかと思われる。それは嫡男信康の件であろう。というのも天正4年(1576)辺りから、信康の素行不良の記述が史料に見られるようになるからである。
例えば、『石川正西見聞集』には「素行不良で家臣が大変だった」などと記されている。この豹変ぶりは一体何に起因するものなのだろうか。
信康は粗野な面はあるが優秀な武将であり、家康もそれを評価していたというから、考えられるとすれば母・築山殿と家康との不和くらいしかないように思える。当時、家康は浜松に、信康と築山殿は岡崎に居住していたことを鑑みると、表面化しつつあった岡崎衆と浜松衆の対立が背景にあったのではないか。
そうなると「大岡弥四郎事件」は無視できない。天正3年(1575)4月、信康家臣・大岡弥四郎らが武田に内通したかどで処罰されたこの事件は家康に衝撃を与えたであろう。
さらに、この頃武田が放った歩き巫女が築山殿に接触していたという。『岡崎東泉記』や『石川正西見聞集』には、歩き巫女が武田に味方するよう築山殿に働きかけたということになっている。
築山殿はこの調略には乗らなかったようだが、さりとてこの一件を家康に報告した訳でもないようだ。別のルートからこの件が家康の耳に入ったとすれば、家康が築山殿に疑念を抱いたとしても無理はないだろう。ひょっとすると、大岡弥四郎事件と歩き巫女の一件で、家康は岡崎衆の忠誠に疑いを持ったのかもしれない。
母と家臣を疑われた信康は、やるせない気持ちでいっぱいだったのではないか。信康が素行不良に走ったことで、信康と信康家臣団に不安を感じるようになった家康は、徐々に信康廃嫡へと傾いていったというのが私の見立てである。
一方、西郷局も転機を迎えつつあった。天正3年(1575)、長篠の戦い以降、武田の勢力が三河から駆逐されたらしいということは前述した。どうも、その後程なくして伊賀に居住していた西郷局と母、そして服部正尚が遠江に移り住んだようなのだ。
『幕府祚胤伝』によれば、天正6年(1578)、家康は、駿府田中城攻めの帰りに遠江掛塚の鋸鍛冶屋である服部正尚の屋敷に立ち寄ったという。そして、このとき屋敷にいた西郷局を見染め、伯父の西郷清員の養女とした上で側室としたとある。
家康と西郷局の人生のターニングポイントがほぼ同じ時期に訪れているのだが、私は、これをただの偶然だとは考えていない。というのも、西郷局を側室に迎えたのは天正6年(1578)の春であるが、その約半年後の9月22日には、三河国衆に対して今後信康のいる岡崎城に詰めることは無用である旨の指示を出したという記述が『家忠日記』にあるからである。
おそらく家康は信康不行状の報告を受けてまもなく、信康廃嫡を検討していたのではないか。
となると、家康の後継者がいなくなってしまう。実は家康には次男・於義丸(のちの結城秀康)がいたのであるが、築山殿は自身の奥女中が於義丸の生母だったためか、この次男を頑なに承認しなかったという。そのため、家康も於義丸を認知できずにいたというわけである。
当時の正妻の権限の大きさを物語るエピソードであるが、ともかくひそかに側室を娶る必要に家康は迫られていたのではないだろうか。そのような状況で、側室候補として浮上してきたのが西郷局だったとすれば、伊賀に在住していた頃から、その人となりに関する情報を服部正尚を介して得ていた可能性がある。
家康と西郷の局との出会いは、あらかじめセッティングされたものと私は睨んでいる。
秀忠生母
天正7年(1579)4月、西郷局は秀忠を産む。同年9月に家康は嫡男信康に切腹を命じている。このタイミングを見ても、家康が信康排除による後継者不在回避を、ある程度前もって計画していた可能性は高いだろう。さらに、翌天正8年(1580)には、忠吉(ただよし)も誕生している。調べると、これ以降家康は側室の人数をかなり増やしている。皮肉にも、信康事件が家康の血脈を万全のものにしてしまったというわけだ。
疑惑の死
家康の寵愛を受け、世継ぎの秀忠をもうけた西郷局であったが、家康の天下取りを見ることはなかった。天正17年(1589)5月19日西郷局は駿府にてこの世を去る。享年38と伝わる。この死に関しては、後日ある噂が囁かれたという。なんでも、西郷局の死因は毒殺であり、下手人はかつて築山殿の侍女であった人物だというのだ。
築山殿の侍女は少なくとも3人いたとされる。その中でも下手人かもしれないと言われるのが、河井某の娘と伊奈忠基の娘である。
ただ、私はこの二人は下手人ではないと考えている。なぜなら、毒を盛るなら西郷局の侍女となるのが手っ取り早いのであるが、二人とも家康に面が割れていた可能性が高いからだ。自ら粛清した築山殿の元侍女を、秀忠の生母・西郷局の侍女とすることに家康が納得するとは到底思えないのである。
ただ、伊奈忠基の娘について調べているうちに興味深いことがわかった。『寛政重修諸家譜』(かんせいちょうしゅうしょかふ)によれば、その娘について
「仁木助左衛門某が妻となり、助左衛門死するの後三河賀茂郡の内に采地をたまひ、天正七年八月二十九日築山御方生害のときこれに殉じたてまつるとて、入水して死す。」
と記している。
仁木氏は足利氏の一族であり、戦国時代には伊賀の守護を務めていたという。ところが、仁木氏は伊賀をまとめきれず、有力土豪が割拠する状況に陥る。やがて、伊賀惣国一揆が成立すると、伊賀の仁木館は一揆勢の襲撃を受け仁木氏は逃亡を余儀なくされた。
これは、1560年前後のことと思われる。仁木助左衛門某が、この時期に伊賀から三河に落ち延びた可能性はないだろうか。仁木氏の発祥の地が三河国額田郡仁木郷であることも考えると、あり得ない話ではないように思える。
そしてもし、仁木助左衛門某と妻・伊奈忠基の娘との間に娘がいたとしたらどうだろう。確かに、系図には子女の記載はないのであるが、何らかの事情で記載が漏れてしまうことがままあったというから、娘の存在を否定しきれないのである。
この娘が西郷局について知ったとしたら、その心中は穏やかではあるまい。
自分の母が仕えていた築山殿と嫡男・信康は粛清され、母は殉死。そして、西郷局が産んだ秀忠が、おそらく徳川の家督を継ぐことになるであろうこと。母のことを思えば、これは面白くないだろう。
さらには、西郷局の継父が伊賀の郷士の服部正尚であったこと。伊賀服部氏は伊賀守護仁木氏と敵対関係だったろうから、西郷局に逆恨みに近い感情を抱いても不思議はない。
ここで、さらに興味深い話がある。信康及び築山殿粛清、そして伊奈忠基の娘の殉死という出来事に不満を抱いて出奔した人物がいるのだ。
伊奈忠基の子の忠家と孫の忠次である。彼らは堺にいた忠家の兄・貞吉を頼ったと言われている。となると、父・仁木助左衛門某と母・伊奈忠基の娘の双方を亡くした娘も忠家・忠次と共に堺に向かったのではないか。
二人とも後に帰参を許されているから、どちらかの養子になり西郷局の侍女として側に仕えた可能性はないだろうか。西郷局を毒殺したのが彼女であれば、「築山殿の侍女が西郷局を毒殺した」という噂を流したのは彼女自身ということになるだろう。
もっとも、仁木助左衛門某と伊奈忠基の娘の間に娘がいたことを裏付ける史料が何一つないので、推測の域を出ない筋書きではある。
あとがき
毒殺説まで囁かれる西郷局であるが、その性格は温和にして誠実であったと伝わる。そのため、周囲の家臣たちや侍女たちからも慕われていたという。およそ毒殺には縁がなさそうな人柄ではあるが、そのような噂が流れるということは、周囲に妬み嫉みの感情を少なからず抱いていた人物がいた可能性を示唆していないだろうか。仮に、前述した推測通り、仁木助左衛門某と伊奈忠基の娘の間に娘がいて、西郷局に仕えたとすれば、おそらくは憎しみと思慕の情のはざまで心が揺れたであろう。
ひょっとすると、迷っているうちに西郷局が突然死してしまい、行き場のない感情を吐露するために、「築山殿の侍女が西郷局を毒殺した」という噂を流したと言うだけのことなのかもしれない。
【主な参考文献】
- 山本博文 『徳川秀忠』(吉川弘文館、2020年)
- 滝澤美貴 『戦国女傑伝説 天下人の妻妾 』(学研プラス、2015年)
- 黒田 基樹『家康の正妻 築山殿 悲劇の生涯をたどる』(平凡社、2022年)
- 黒田 基樹『家康の最新研究 伝説化された「天下人」の虚構をはぎ取る』(朝日新聞出版、2023年)
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