信長も謙信も四苦八苦? 戦国大名の裏切り防止策で重要なこととは
- 2024/09/19
ゲームと史実で家臣に裏切らせない方法
戦国時代のゲームでは、家臣に「忠誠」データがあり、恩賞として官位・家宝・領地・報奨金を与えることで、数字を上げることが多い。その逆に、これらを取り上げたり、功績に見合う報酬を与えずにいたりすると低下していく。
少なくなったらその分だけ裏切りやすくなるので、あまり下げない方が賢明だ。裏切りは、他の大名からの引き抜き、不意の謀反という形で起きてしまう。多くの場合、他の大名がプレイヤー大名の領土を狙って計略を仕掛けているので、家臣の裏切りは御家滅亡のピンチに繋がりやすい。
さて、史実において、家臣の裏切りを防止するのもこのように、恩賞に気配りする必要があったのだろうか。答えからいうと、イエスである。だが、実際の大名は家臣に体罰や折檻を加えることも少なくない。
織田信長や武田信虎は、カッとなって家臣を手討ちにすることがあった。奥州の伊達政宗も家臣に刀の鞘で殴ったことを後から詫びている。明智光秀も信長から打擲されたという話があり、それを謀反の理由にしていた節がある。他にも信長から殴られたり蹴飛ばされたりした者がいたのだろう。
こんなことを当たり前にやっていたら、どれだけ恩賞を与えていても忠誠パラメータがぐんぐん下がって、簡単に謀反フラグが立ってしまうだろう。ただ、それでも彼らがいきなり主君を裏切ることは、そんなに多くなかった。
それは恩賞が充分だったからではない。ゲームのシステムで採用されていない「家臣を裏切らせないたったひとつの冴えたやり方」を使っていたからである。
結論をいうと、身も蓋もない方法だが、家臣の機嫌を取るのではなく、人質を取ってしまえばよかったのだ。
シンプルな対策
大名が家臣の家族や彼らの家臣(大名にとっては陪臣)を手元に置いて、その生殺与奪の権を握ってしまう。たったこれだけのことで、彼らは離反できなくなってしまったのだ。もちろんこの手も万能ではない。
例えば、上杉景勝に息子を預けておきながら離反した真田昌幸のような者もいる。
天文20年(1551)の大寧寺の変で、主君・大内義隆を自害させた陶隆房(すえ たかふさ)は、毛利家を味方につけるため、「自分から人質を送りたい」と申し出た。すると毛利隆元は家臣に「近頃は卑怯な振る舞いが流行っている。隆房なら、人質の五人や三人ぐらい平気で見捨てる」とその提案を退けた(『毛利家文書』666 号文書)。
隆元の判断は正しかった。陶隆房の立場なら、周辺大名と争ってたくさん死傷者を出すより、自分から人質を差し出して時間稼ぎを行ない、自勢力を増強したあとで、周辺大名を裏切るのが自然だからだ。
人質の存在は裏切り防止の絶対的証明にはならないが、それでも普通は人質を預ければ、「裏切りの心配はない」とされていたのである。
人質は、当時の言葉で「証人」と呼ばれた。文字通り、「我々は決してあなたを裏切りません」と約束を証明する人だったのである。
証人を得るには理由が必要
馬廻(うままわり)などの親衛隊員や、土地のない牢人出身者なら、はじめから身内を城下町に住まわせていることが多い。だが、そうではない家臣の場合、証人は基本、関係強化を誓うときのものだから、何かのきっかけがないと集められない。証人が大名のもとに移住するのには次のパターンが代表的である。
- ① 国衆が大名の直属に入って、旗本や馬廻になるとき。
- ② 緊急事態(周囲に裏切りが多発、または大勢力が接近してくる恐れ)があって疑心暗鬼を回避したいとき、どちらかからの提案で証人を移住させる。
- ③ 相互の関係を強化するとき。
こういうタイミングがあれば、証人を城下町に住まわせることが可能であった。大名が家臣に対して、それなりの理由もなく証人を取ることはできなかった。
織田信長の馬廻と証人
特殊な例もあげてみよう。天正6年(1578)正月、織田信長は、居城を美濃国岐阜から近江国安土城へ移そうとしていた。そんな折、御弓衆(おゆみしゅう。親衛隊のひとつ)の福田与一の宿舎から出火があった。話を聞いた信長は「妻子を引越し候はぬ故」ではなかろうかと怪しんだ。実際に調べさせると、「御弓衆六十人、御馬廻六十人の妻子」合計 120人が夫を安土城へ単身赴任させたまま、現地から引っ越していないことが判明した。
呆れた信長は「一同 御折檻(ごせっかん)」を命じた。しかもそれだけで済まさず、「尾州(尾張国)」に残っていた御弓衆・馬廻の「私邸」を跡形なく焼き払い、「女房衆共」を無理やり安土の城下に移住させてしまった(『信長公記』巻 11)。
乱暴な話だが、これには理由があるだろう。
昨年 9 月、織田軍は加賀国 手取川合戦において上杉軍に惨敗した。これに勢いを得た越後国の上杉謙信は、大々的な遠征準備を進めていた。大変な事態である。
春には謙信が織田領に侵攻してくるかもしれない。そこで信長は急ぎ、直属兵を安土城へと強制移住させたかったわけである。
それにしても信長はこの時まで親衛隊からですら証人を集めていなかった。少なくとも美濃国岐阜城を居城と定めて、安土城へ移転準備するまでの12年間、親衛隊120人の家族は、岐阜城ではなく、出身地の尾張国から動かずにいたのだ。
信長は親衛隊のメンバーが、自発的に家族を城下に移住するのを忍耐強く待っていた。だが、彼らは信長を甘く見て、のんびりしていたのである。
上杉謙信や武田信玄は、そんなことはしない。決断したら早々に城下町への移住命令を下す。信長の家中統制はほかの大名と比べてかなり緩かった。
馬廻を中心とする親衛隊は、忠誠のありようを示す模範的家臣でなくてはならない。信長ですらそう思って、ギリギリまで彼らに強制移住を命令できなかったのである。
上杉謙信の証人管理
さて、信長が恐れた謙信だが、永禄10年(1567)、他国出身の領主クラスであろう者たちを引き取り、「在府」して謙信の「馬廻」となるよう命じた。他国出身の牢人を直属の親衛隊に仕立てたのである。それから2年後(1569)、越後国下郡(しもごおり)でひとりの反乱があった。挙兵したのは勇猛で鳴る本庄繁長であった。謙信は繁長からは人質を取っていなかったようである。
驚いた周辺領主は、謙信に起請文と証人を差し出し、救援を求めた。しかしその中でひとりだけ証人を差し出さなかった領主がいた。新発田長敦(しばた ながあつ)である。
すると謙信は苦い顔をして、長敦を説得した。
謙信:「わたしはあなたをとても信じている。だが、世間の評判を心配している。あなたに使者を 2 人送るので、彼らに『家中之証人』を託してほしい」
と低姿勢ながらも証人の出仕を半ば強引に求めてきた。謙信は隙あればこうやって独立的な領主からも人質を集め、直属の家臣に切り替えさせようとしていた。
だが、こうして急増した証人の中には、素行不良の者もいた。
この事件がきっかけで、下郡の家臣・鮎川清長は、謙信に自らの家臣・須河原(すがわら)父子を春日山城に預けていた。謙信にとって陪臣にあたる。
証人の管理は、大名に任じられた奉行が請け負う。この場合は、吉江景資が担当者であった。ところがこの須河原の息子が、ある愚行をやらかしてしまう。なんと景資の使用人である男の妻と「密懐(びっかい。不倫の関係を結ぶこと)」してしまったのだ。
中世の武家法では、当事者である男女ともに死罪にするのが当然であった。この事件は、鮎川家のほかの証人たちにも目撃者がいて、言い逃れのできない状況だった。
謙信は須河原の息子を「大罪」だと非難した。
ただ、口先では厳しいものの、実際の対応はとても甘いものとなった。謙信は、須河原の息子を「馬鹿之者」なので、もしも逃亡でもされては面倒だからといって、鮎川清長のもとへ送り返してしまったのだ(『上越市史』1447 号文書)。
証人は裏切り防止のために集めている。これを強く罰して、証人を差し出した家臣の不満を膨らませるのは下策だと判断したのだろう。
なお、この話には余談がある。事件から 1 年後、謙信は鮎川清長に
謙信:「去年は須河原の兄の子が問題を起こしましたが、罪を免じて保留にしてあげました。これに限らず、わが思いやりを海山の深さや高さのように思いなさい」
と恩着せがましく伝えて、これからと武功を立てるよう言い聞かせている( 『上越市史』1439 号文書)。
これがリアルな「忠誠」の上げ方であるようだ。
この春日山城不倫事件は、鮎川清長の「忠誠」を何点ぐらいあげたかわからないが、その後も謙信に忠節を尽くしたらしい。謙信が亡くなって20年ほど後の慶長 2 年(1597)には、越後で11村を単独知行していた記録が確認されている。
裏切り防止には、証人を取ることが重要で、それと共に、あれこれと気を遣い、地道に地道に情けをかけ、恩を着せ、彼らの「忠誠」を高めるべく四苦八苦していたのである。
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