田沼意次は「賄賂政治家」か「辣腕改革者」か? ~悪徳老中の300年後の再評価~

 ゆかりの土地の静岡県牧之原市で「ワイロ最中」なんてご当地菓子を作られてしまうほど、賄賂政治家としてのイメージが強かった田沼意次(たぬま おきつぐ)。でもそれも昭和までの話。最近では先進的な改革者として再評価されています。

  悪と善。両極端な評価をされた田沼意次の実像を考えます。

江戸時代、賄賂は必要悪として認められていた!?


「おぬしも悪よのう……」

「へっへっへっ、お代官様にはかないませんよ」

 昭和の時代劇の悪役といえば、こんなセリフを言いながら賄賂を渡し渡されているようなイメージがありますね。実際、江戸の中期以降は賄賂が横行していた時代でした。

 田沼時代の後に寛政の改革を行い、清廉潔白なイメージのある老中・松平定信ですら、家格をあげるために失脚前の意次に賄賂を贈ったそうです。ただ、賄賂をとる悪徳政治家としてのイメージが定着してしまったのは、その前任者・田沼意次の方でした。

 江戸時代でも賄賂は「悪いもの」であるという認識はありましたが、同時に社会の慣習として認められていた部分もあります。江戸の下級役人・同心などは、給料が安く、賄賂がなければ配下を養っていくことは不可能でした。

 もちろん、あまりに過度であれば問題になったでしょうが、田沼意次が同時代の人間に比べて大量に賄賂を贈ったり貰ったりしていたという信用に足る記録はありません。それどころか、『伊達家文書』には仙台藩七代目藩主の伊達重村からの賄賂を断ったという記録すらあります(ただし、後に貰った可能性は否定できません)。

 当時の慣習として意次にも多少の賄賂の授受はあったと思われますが、前述の通り、清廉といわれる松平定信ですら賄賂を贈っていたのです。ただ、賄賂を貰っていたからといって、現代の感覚で「悪人だ」と断定することはできないでしょう。

 ではなぜ、意次は悪徳政治家のイメージが付いてしまったのでしょうか。そこには、意次の出身と政敵による悪評の流布、そして彼の不運がありました。

成り上がり大名への嫉妬や軽視

 田沼意次の父・意行(おきゆき)は、紀州藩の足軽でしたが、紀州藩主時代の吉宗に側近に登用され、吉宗が第8代将軍となった時に600石の旗本となった人物です。

 そして子の意次は第9代将軍となる徳川家重の小姓に抜擢され、やがて側衆となり、1万石の遠州相良藩(現在の静岡県牧之原市に存在した藩)の藩主に取り立てられました。さらに第10代将軍徳川家治に重用され、側用人と老中を兼任して、最終的には5万7000石の大名にまで成り上がったのです。戦国が遠くなった太平の世では、異例の大出世だと言っていいでしょう。

 ですが、時代は江戸中期。下剋上の時代は遠くに過ぎ去り、すでにガチガチに身分制度は固まっています。低い身分から成り上がった意次は、身分制度を重んじる人たちにとってはそれだけで秩序を乱す「悪」でした。最初から反感を抱かれていたために、彼のやることなすこと悪くとったり、足を引っ張ろうとする人がいたのではないでしょうか。そこまで積極的な行動はしなくても、田沼家が元は足軽身分と言うことで彼を軽んじる人たちは多かったと思います。

 意次自身、そのことは弁えていて、反発を避けるために謙虚な言動を心がけ、「家格の低い大名とも裏表なく接するように」といった家訓を遺しています。

 それでも悪評を避けられなかった裏には、政敵だった松平定信によるプロパガンダがあったのではと言われています。若い頃の話ですが、定信は懐に短刀を忍ばせて、殿中で暗殺しようと狙うほど意次を嫌っていました。意次の長男・田沼意知(おきとも)は天明4年(1784年)3月に佐野政言によって暗殺されていますが、その裏には政府高官(=松平定信)がいたのではと、当時の長崎商館長であるチチングは『日本風俗図誌』の中で語っています。

 意知の死後、意次の権勢は翳りを見せ始め、天明6年(1786年)8月に将軍家治が死去すると、反田沼派の策謀によって所領を没収されて隠居を命じられてしまいます。そして、天明8年(1788年)7月に失意のうちに70歳で亡くなってしまうのです。

先進的な改革も民心を得られず…

 田沼意次の悪評は、そのほとんどが彼の死後に流布されたもので、事実とは言い難いものも多く含まれています。もっとも、いくら政敵に悪評を流されたとしても、意次によって実際に生活が良くなっていたのであれば、民衆の支持は得られていたはずです。

 けれど、意次が権力を握っていたいわゆる「田沼時代」は、百姓一揆や打ちこわしが多発した時代でした。打ちこわしとは、民衆が米屋や質屋、豊かな商人などを襲撃する暴動のことです。つまり、田沼政治は民衆には不満を持たれていたということになります。

 とはいえ、名君と言われている徳川吉宗の治世でも一揆や打ちこわしは発生していますから、それらがあったからといって失政だったとは言い切れません。

 実は、打ちこわしや百姓一揆が多発した背景には、明和の大火(1772)や浅間山の大噴火(天明大噴火、1783)、天明の大飢饉(1782~88)など、天変地異や火災の続発があります。迷信深い江戸時代は、天災が起きるのは為政者の徳が足りないからだと考えられていました。当然批判は幕府へ、ひいては老中である意次に向かったでしょう。

『天明飢饉之図』(出典:wikipedia)
『天明飢饉之図』(出典:wikipedia)

 天災や飢饉によってもともと芳しくなかった幕府の財政は悪化し、意次は財源確保に頭を悩ませることになりました。これまでの通説では意次は緊縮路線の享保の改革から、積極財政へと転換したといわれてきました。けれど、近年は吉宗の改革を引き継いだ形で経費削減などに取り組んだと言われています。

 ただ、意次の改革はそれだけに留まらずに多岐にわたりました。特に大きなものは農業主義から商業主義への転換です。行き詰まりを迎えていた米中心の経済に変わり、新たな税収減として発展しつつあった商業に着目したのです。

 意次は、運上金や冥加金として商人たちから税を徴収します。当然、税を取り立てられた商人たちは反発しました。それを抑制するために、株仲間を奨励して営業上の優遇をしています。

 また、新貨幣を鋳造し、両替レートも一定にして、流通する貨幣の量を増やしています。いまでいうインフレ政策です。さらに長崎貿易を改善し、外貨の獲得にも励みました。

 意次の政策によって貨幣経済は発展し、江戸の町は豊かになりました。平賀源内など低い身分でも登用される自由な気風の中、文化や学問も躍進します。けれど、株仲間の奨励により民間に賄賂がはびこり、インフレ政策によって物価が上昇、豊かな都市部・貧しい農村といった格差も生まれてしまいました。

 鉱山開発とロシア交易を目論み、蝦夷地開拓をめざすも思うような結果が得られず、意次失脚後に開拓はいったん中止されています。農地と水運の拡大のため印旛沼干拓にも着手していますが、洪水によって頓挫するという不運に見舞われてしまいます。

悪徳だとしても悪政ではなかった

 米経済からの脱却、商用重視の政策、産業振興、海外交易による外貨獲得などなど、意次の政策は当時としては非常に先進的なもので、その後の日本の近代化に大きく影響を与えたと言われています。ですが、先進的なために反発を招き、天変地異が重なったこともあり、改革を思うように進めることは出来ませんでした。

 それでも、田沼時代がもう少し続いていたら、当時の評価も変わっていたかも知れません。けれど、松平定信ら反田沼派によって老中の座から追い落とされ、悪評をばら撒かれたことで、彼は民衆の間で『賄賂をとる悪徳政治家』のイメージが定着してしまったのです。

 でも、たとえ悪徳だったとしても田沼政治が悪政だったというわけではありません。

「白河の清きに魚も棲みかねて もとの濁りの田沼恋しき」

 これは、意次後に老中となった定信の緊縮政策を風刺した有名な狂歌です。江戸っ子風に意訳すると「松平様(白河=松平定信)は息苦しくってかなわねーや、田沼様時代に戻りたいなあ」という感じでしょうか。

 この狂歌がいつ頃作られたのか正確な年月は不明ですが、定信は6年で老中から失脚しています。つまり、たった6年以内で「前の田沼の方がマシだった」と言い出す人が現れているのです。ダーティーなイメージを植え付けられた当時でも、田沼の政策は悪いものとは思われていなかったという証拠でしょう。

おわりに

 それから300年足らずの現代において、ようやく意次の評価は改まりつつあります。現代で悪徳政治家と言われている方々も、もしかしたら300年後には再評価されているかもしれませんね。


【主な参考文献】

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  この記事を書いた人
プラム・ベル さん
ライトな歴史好き。一般目線で気になる歴史話を語っていければと思っています。

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