刑務所よりも恐ろしい牢屋敷の驚愕の実態! 牢名主の暴力が支配する弱肉強食の世界
- 2024/11/08
皆さんは江戸時代の牢屋敷の実態をご存じですか?当時は刑務所が存在せず、罪を犯した者は牢屋敷と呼ばれる場所に投獄されていました。そこはリンチや賄賂が罷り通る悪徳の温床で、弱肉強食の掟が幅を利かせていたそうです。
今回は刑務所とは似て非なる牢屋敷の凄惨な真実や日々の暮らしを徹底検証していきます。
今回は刑務所とは似て非なる牢屋敷の凄惨な真実や日々の暮らしを徹底検証していきます。
懲役と禁固はない?刑務所と牢屋敷の違い
徳川家康が江戸に幕府を開いた頃に設置された日本橋小伝馬町の牢屋敷は、日本で一番有名な監獄と言っても過言ではありません。江戸時代には懲役刑がなかった為、伝馬町の牢屋敷は詮議中の未決囚や、刑の執行まで待機を命じられた既決囚を収監する拘置所の機能を有していました。その代わり、現在の終身刑に当たる永牢(えいろう)が設けられ、遠島刑に都合のいい島がない藩や、罪人が減刑を自訴した場合に用いられたと言います。
明暦3年(1657)に大村藩で起きた大規模な切支丹狩り、通称・郡崩れの際には、捕縛された603人の切支丹のうち、20人に永牢処分が下ります。天保10年(1839)の蛮社の獄の折には、シーボルトの愛弟子にあたる蘭方医・高野長英が永牢を命じられました。同じく蛮社の獄で挙げられた蘭学者・小関三英は、牢屋敷に入れられる恐怖に耐えかねて自害しました。
このように牢屋敷の悪評は全国に轟いていたのです。
身分によって投獄先が変わる、知られざる伝馬町牢屋敷の内側
伝馬町牢屋敷は高い塀に囲まれた敷地内に十数か所の牢舎を擁し、囚人の身分によって収監先が分かれていました。揚座敷は500石以下御目見以上の旗本・医者・高僧・神主など、家柄や財源に恵まれた未決囚が暮らす施設。監視役と世話役が置かれ、布団や手拭いなどの日用品の差し入れが許された上、食事は御膳で運ばれてきたそうです。世話役は軽犯罪で収監された囚人から選出されました。しかも一人一部屋が与えられるときて、至れり尽くせりですね。
翻り、一般の未決囚は大牢に投獄されます。大牢は30畳ほどの面積の雑居房で、伝馬町の場合は東牢に有宿者、西牢に無宿者が入れられました。衛生環境は大変劣悪で、いじめや鶏姦が横行し、たびたび疫病が蔓延したというから怖いですね。
誤解なきように断っておくと、牢屋敷にも現代の医務室に相当する、「溜」と呼ばれる場所はありました。しかし誰もが移れるわけではなく、主人や親を殺した者は手遅れになるまで捨て置かれたのです。
無宿者とは故あって宗門人別改帳から外れた住所不定者をさし、その多くは飢饉で食い詰め、農村から出てきた百姓崩れだったと言います。都市部出身者の中には放蕩癖が祟り、実家に勘当された人物も多数含まれました。哀しいかな、失業者が生きる為に犯罪に走るのは世の常なのでした。
食事は一日朝と晩の二食、主食は二合の白米。副菜を買うには別途お金が必要だった為、娑婆の家族に送金してもらったそうです。意外なことに正月には雑煮もふるまわれていたとか。食事以外の数少ない娯楽は賭博で、サイコロを使った丁半博打に興じていました。囚人一人に許されたスペースは最大半畳……大牢は慢性的に過密状態だったので、殆ど身動きできなかったでしょうね。
リンチと殺人は日常茶飯事
ご想像の通り、牢屋敷ではリンチや殺人が日常茶飯事でした。その代表として挙げるのが入牢儀式です。囚人の中から長として選ばれ、牢内の取り締まりなどに当たった「牢名主(ろうなぬし)」が、”きめ板”と呼ばれる厚い板きれで新人の尻を打ち、徹底的に上下関係を叩き込みます。多額の賄賂を払えば手心を加えてもらえるかもしれませんが、袖の下が尽きれば即死もあり得ました。
初日の洗礼をくぐり抜けた後も心が休まる暇はありません。大牢が満員になる都度、牢名主が「作造り」と称し、元岡っ引きや目明し、病人や命の蔓(賄賂)を持たない者、牢内のルールを乱す者を対象に間引きを行っていたからです。投獄された警察関係者への当たりが強いのは、江戸時代から続く悪習だったんですね。
牢名主による殺人は三日おきに繰り返され、きめ板で男性の急所を滅多打ち、最後は禁じ手の陰嚢蹴りでとどめをさしました。睾丸は骨に覆われてない為、ここを殴られると大変な激痛を味わいます。
牢屋敷における殺しはご法度ですが、不心得者への仕置きは許容されていました。そこで牢名主は自分がいじめ殺した囚人の死因を病死と偽って届け出をし、賄賂を渡して黙らせます。監視任務に就く牢番同心もこれを黙認していました。
その他、濡れ手拭いを顔に被せたり、小便を飲ませるなどの嫌がらせや、梅の花びらの形に並べた椀の上に正座させる「梅鉢」、囚人を全裸にして水を入れた椀を持たせ、反対の手に箒を押し付けて立たせ続ける「不動」などの私刑が記録に残っています。
火事場は脱走のチャンス
火事と喧嘩は江戸の華。付け加えるなら、火災発生時はまたとない脱獄のチャンスでした。明暦3年(1657)の明暦の大火において、牢獄奉行・石出帯刀は、牢屋敷から出した囚人たちに「切放(きりはなし)」の措置を下しました。これは人命を優先した石出の独断によるもので、囚人たちがちゃんと帰ってくる保証はありません。石出は切腹を覚悟し告げます。
石出:「今から3日後、善慶寺の境内に集えば罪一等を減じる。戻ってこぬなら雲の果てまで追い詰める」
結果……囚人たちは一人たりとも裏切らずに約束の日時に集合し、大した忠義者だとして全員に減刑が約束されたのです。
明暦の切放は美談として語り継がれていますが、江戸時代に実施された切放の公式記録は14回。次第に帰ってこない囚人が現れ始め、期間中の庶民は外出を控え、商人は店を閉めたと言います。
実際のところ、脱獄囚には執拗な追手が掛かる上、戻ってこなければ連帯責任で一門が罰される為、逃げ切るのは困難でした。
前述した高野長英も脱獄を企て、言葉巧みに雑役夫を唆し、牢屋敷に放火させています。長英は切放に乗じて知人に接触、物資を調達したのち、6年に亘る逃亡生活に入りました。逃亡中は沢三伯の偽名で町医者として活動、妻との間に長男をもうけています。
おわりに
以上、江戸時代の牢屋敷の知られざる実態を解説しました。今回ご紹介したのは男牢ですが、女性専用の女牢もあり、そちらは女性の牢名主が仕切っていたそうです。地獄の沙汰も金次第とはよく言ったもので、牢屋敷で生き残りたければ賄賂の持ち込みは必須ですね。【主な参考文献】
- 中嶋繁雄『物語大江戸牢屋敷』文藝春秋、2001年
- 中嶋繁雄『江戸の牢屋』河出書房新社、2019年
- 石井良助『江戸の刑罰』中央公論新社、1964年
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