無宿人 故郷を捨てた者たち…追われ追われ流れ着いた江戸の片隅でも”厄介者”扱い

 時には時代劇のヒーローも務める無宿人ですが、その実態はどのようなものだったのでしょう。

無宿人とは

 無宿人とは江戸時代の戸籍台帳にあたる宗門人別改帳(しゅうもんにんべつあらためちょう)の記載から名前を消された者です。

 この人別帳は村や町ごとに庄屋や名主・町年寄が作成管理し、家長を定め、家族の氏名・年齢・旦那寺などを書き込みます。嫁入り・婿入り・奉公などで住所地を離れるときは旦那寺で「寺請証文」を出してもらい、新しい住所地の寺で受け入れ手続きを行い、人別帳に書き入れてもらわなければなりません。

 この時に「寺請証文」を持参しないと書き入れを拒否されます。この制度は案外しっかりしたものでしたが、制度が整っていればいるほど、そこから零れ落ちた者は不利益を被ります。

 なぜ人別帳の記載から漏れて帳外れ(無宿)となるのでしょうか? 飢饉や貧窮により村人が農地を捨てて逃げる離村や逃散(ちょうさん)、勘当や罪を犯しての逃亡などで、きちんとした手続きをせずに住所地を離れてしまうのが主な原因です。

 人別帳を作る庄屋や名主たちは、毎年あるいは数年に一度、帳面を作り直します。手続きをせずに住所地を抜けた者はここで名前を書き入れてもらえず、無宿となります。

 正当な権利や庇護の対象から外れた無宿人は、食べるために無宿野非人(のひにん)と呼ばれる街道を彷徨う ”物乞い” となったり、”盗賊”に身を落としたり、”博徒集団” に加わったりしますが、都市へ流れ込む者も多かったのです。

「東京や大阪へ行けば何とかなるだろう…」

 現代でも、あてもなく大都市へ流れ込む人はいますが、同じようなことでしょうか。

無宿人問題がクローズアップされた将軍家宣の宝永期

 人別帳から零れ落ちた無宿人の増加は社会の不安定要素であり、生産人口の減少でもありました。

 幕府はこのような社会的脱落者に対し、6代将軍・徳川家宣の治世の宝永6年(1709)2月に法令を発し、逮捕した無宿人はなるだけ元の住所地へ戻すこと、それが無理なら非人身分に落として非人頭に管理させ、非人集団の統制下に置く措置を取ります。

 しかし8代吉宗の時代になると、この方策も行き詰ります。際限なく増える無宿人を非人身分に落とし続けた結果、非人集団が膨れ上がり、非人頭が過度な監督権限を持つようになりました。

 そこで非人溜り以外に新たに「無宿溜り」を作り、そこに収容し、稼ぐための手わざを覚えさせようとの意見が出ます。また、江戸城外の普請現場で働かせて賃金を払い、収容所へ維持費を納めさせようとの案も出ます。しかしこの時も彼らの監督は非人頭に任せられます。次に大名領移植案も考えられました。これは無宿人を南部や薩摩など辺境大名領に引き取らせ、そこで荒れ地開墾や土木作業につかせる案です。

 どれも良い案に思われますが、送り込まれるほうが拒否したようで、結局これらは実現しませんでした。無宿人は何とかしたいが、非人集団がこれ以上勢力を持つのは困る… 問題は手詰まりのままです。

佐渡金山へ送ってしまえ

 10代将軍 家治の代になり、いよいよ煮詰まってきた無宿問題。安永7年(1778)4月、幕府は「近来ご当地近国ともに無宿者多数徘徊し騒がしき事世上一統の難儀」として、無宿悪党の積極的逮捕を命じます。

 これまでは下手に逮捕しても後の措置に困るので、積極的には取り締まりませんでした。そして逮捕した悪党無宿人を懲らしめるため、佐渡金銀山に送ると決定します。これはかつて佐渡奉行を務めた勘定奉行・石谷淡路守から出た意見でした。

 現職の佐渡奉行は治安悪化を懸念して強く反対しますが、幕閣は

  • 無罪の無宿人に限る
  • 心底が直れば帰国させる
  • 何より試験的な措置である

として、反対意見を抑え込んでしまいます。

 同年7月、早速江戸から60人の無宿人が佐渡に送られました。佐渡奉行は盗みを警戒したのでしょう。直接金・銀に触れる採掘や運搬には彼らを用いず、鉱山の水替え人足に使います。

 彼らは佐州水替人足(さしゅうみずかえにんそく)と呼ばれますが、その労働内容は「暫時も休まず作業に当たらねば水増し上るにつき、一昼夜づつ詰め切らせて食事時に休むのみ」と言う厳しいものでした。この仕事に就けば3年以上は生きられぬ、とさえ言われます。

歌川広重が描いた佐渡金山(出典:wikipedia)
歌川広重が描いた佐渡金山(出典:wikipedia)

再浮上する無宿溜り案

 「佐渡へ送るのは無罪の無宿人に限る」

 当初のこの約束は天明8年(1788)、早くも反故にされてしまいます。老中の松平定信は軽い罪で入れ墨刑を受けた者のうち、再犯の恐れが無い者を佐渡送りにする決定を下します。お仕置きが済んでいるから無罪だとの理屈です。

 文化2年(1805)には有宿無宿に関わらず追放刑を受けた者のうち、今度は特に悪質な者を佐渡に送る事になりました。追放刑を宣告されたのだからその時点でお上のお仕置きは済んでいるとの理屈です。しかし、佐渡に送られても追放刑は継続中ですから娑婆に戻ることはできず、厳しい労働を課され、事実上そこで命を終われとの意味です。

 しかし佐渡へ送るだけでは江戸へ流れ込んでくる無宿人をすべて処理しきれません。安永9年(1780)10月、江戸城中で南北町奉行の間で次のような会話が交わされました。

「深川茂森町に無宿養育所を作れと言われていましたがこの度出来上がりました。無罪の無宿人があれば引き渡されますよう。養育所が無理な無法な無宿人は佐渡へ送られますよう」

 これを見ると、以前から話が出ていた「無宿溜り」案がここへ来て実現したようです。そしてその統制は町奉行管下に置かれ、無宿人に手に技術をつけさせわずかでも賃金を払い元の住所地へ送り返そうとしたのです。しかしそう上手くは行かなかったようで、後年火付け盗賊改めの長谷川平蔵が

「無宿養育所取り計らい仕り候も、出奔の者多く難儀仕り」

とこぼしています。そして天明6年(1786)5月には、南町奉行山村信濃守が北町奉行曲淵甲斐守に無宿養育所は廃止になると伝達します。

 わずか7年間の措置でした。

おわりに

 社会の固定制度から零れ落ち、どこへ行っても厄介者扱いされた江戸の無宿人たち。彼らはやがて設立される人足寄場(長谷川平蔵の献策により、設置した浮浪人収容所)へ収容されることになります。


【主な参考文献】
  • 平松義郎「江戸の罪と罰」平凡社/2010年
  • 笹間良彦「図説・江戸町奉行所事典」柏書房/1991年

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  この記事を書いた人
ichicokyt さん
Webライターの端っこに連なる者です。最初に興味を持ったのは書く事で、その対象が歴史でした。自然現象や動植物にも心惹かれますが、何と言っても人間の営みが一番興味深く思われます。

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