大河ドラマ「光る君へ」 紫式部の弟・藤原惟規が都を離れたくなかった訳とは?

元服の儀を翌日に控え、彰子との別れを惜しむ敦康親王
元服の儀を翌日に控え、彰子との別れを惜しむ敦康親王

 大河ドラマ「光る君へ」第39回は「とだえぬ絆」。紫式部の弟・藤原惟規の死が描かれていました。

 惟規はドラマにおいては、式部の弟として描かれていましたが、一説には兄とも言われています。それはさておき、劇中では学問には余り熱心ではなかった惟規。式部の日記(『紫式部日記』)においても、少女時代の式部は漢籍を理解することに長けていたと記される一方で、惟規は手間取っていたと書かれています。そうしたこともあり、式部と惟規の父・藤原為時は「この娘(式部)が男子であったなら」と嘆いたとも日記に書かれていますので、惟規の心中を思えば可哀想な気がします。父・為時の嘆きを幼少の惟規もよく聞いたでしょうから。

 さて、長じて後、惟規には恋人が出来ますが、それは斎院(選子内親王)に仕える女房(中将と称された源為理の娘)でした。惟規は中将に逢うため、夜に忍んでいきますが、警衛の武者に怪しい者と咎められてしまいます。そうした時に詠んだのが次の和歌です。

「神垣は木の丸殿にあらねども名のりをせねば人咎めけり」

(神垣(斎院)は、木の丸殿ではないが、名乗らなかったので咎められてしまいました)

 中大兄皇子(後の天智天皇)が「木の丸殿」(筑前の朝倉橘広庭宮)にいた時、用心のため、出入りの者には必ず名乗らせていた故事を踏まえた歌でした。

 惟規は和歌の才はありましたが、職務の方は今ひとつ。妊娠した中宮・彰子(藤原道長の娘)の見舞いの勅使として惟規は遣わされますが、公卿に酒を勧められ泥酔。本来ならば立礼すべきところで、座ったまま礼をしてしまうという失態を犯しています(藤原実資の日記『小右記』)。迂闊な性格だったのでしょうか。父・為時が越後守に任じられた際(1011年)には、惟規も同行しています。

 しかし、惟規は「今朝は都の人ぞ恋しき」との歌を詠んでいますので、本当は都を離れるのが嫌だったのでしょう。都にいる恋人の存在もその要因だったと思われます。望郷の念を持ちつつ、哀れにも惟規は同年にこの世を去ります。惟規の生年は不明ですが、30代の若さで京から遠い越後で死去したのでした。


【主要参考文献一覧】
  • 朧谷寿『藤原道長』(ミネルヴァ書房、2007年)
  • 倉本一宏『紫式部と藤原道長』(講談社、2023年)

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  この記事を書いた人
濱田浩一郎 さん
はまだ・こういちろう。歴史学者、作家、評論家。1983年大阪生まれ、兵庫県相生市出身。2006年皇學館大学文学部卒業、2011年皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。専門は日本中世史。兵庫県立大学内播磨学研究所研究員、姫路日ノ本短期大学講師、姫路獨協大学講師を歴任。 著書『播 ...

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