「亀姫」家康と正室築山殿の娘…大久保忠隣と本多正信父子との権力争いにも関与した?
- 2023/04/27
彼女は正室の唯一の姫という立場から血縁関係の構築にとても重要な立場となりました。夫に側室を許さなかったという話や本多正純の失脚に関与していたという話等もあります。今回はそんな様々な噂のある亀姫について、その人物像に迫りたいと思います。
桶狭間の戦いと同年に生まれた亀姫
亀姫の生年は永禄3年(1560)が通説となっています。歴史学者の黒田基樹氏は、異説の考察もしていますが、一次史料で新しい物が出ないかぎり、この生年は変わらないでしょう。徳川一族の記録『御九族記』では3月18日生まれとされています。桶狭間の戦いはこの年の5月19日であり、家康の出陣時期を考えると、生まれたばかりの亀姫を駿府に残して出陣したということになりますね。
家康は桶狭間の戦いで今川義元が討ち取られた後に岡崎に戻り、永禄4年(1561)4月の鵜殿氏攻めの際には今川からの独立を明確にします。築山殿と子どもたちはその間に岡崎城に入ったと言われていますが、『松平記』では鵜殿氏攻めの際、鵜殿氏の子ども2人を捕縛し、築山殿らとの人質交換をしたという記述もあります。
いずれにせよ、亀姫は生後まもなく駿府から岡崎に移住したのは間違いないでしょう。
信長の提案で、奥平氏に嫁がれる
亀姫は天正4年(1576)3月に奥平信昌に嫁ぎました。奥平氏は三河の作手を代々治める国人領主です。作手は奥三河と呼ばれる山岳地帯で、現在の愛知県北東部(新城市・北設楽郡)の要地です。元々今川に従っていた奥平氏は、一時期は家康の配下となったこともありましたが、元亀元年(1570)末の徳川と武田の戦い後は、武田氏に従属します。奥三河の再支配を目指す家康は元亀4年(1573)頃に奥平氏の懐柔を図りますが、最初は上手くいきませんでした。
当時は織田信長包囲網が最盛期であり、家康は三方ヶ原で敗れたばかり。まもなく信玄の死により、武田氏は撤退しましたが、その情報はまだ奥平氏に知られていなかったのです。
『信長公記』によると、困っていた家康に信長が婚姻による懐柔を提案したと記されています。同年の6月22日、家康は当時の奥平当主である奥平貞能に書状を出しています。そこで信玄の死が確実であることを告げ、自分の味方に戻るよう説得したと言われています。
この条件として家康は亀姫を奥平貞能に嫁がせました。貞能は正室で武田の人質だった ”おふう” という女性と離縁し、武田からの離反を明確にしました。おふうは奥平一族の娘だったため、武田勝頼によって処刑されています。なお、『寛政重脩諸家譜』によれば、天正2年(1574)には家康の元に家臣を派遣しており、武田氏から守ってもらうために必死だった様子がうかがえます。
そして、天正3年(1575)に作手の長篠城で有名な長篠の戦いが起こります。しかし、奥平氏としては援軍がくるのか不透明でしたが、家康は信長との連合軍を率いて武田軍と決戦し勝利しました。
これ以後、奥平氏は全面的に家康に協力して徳川の一翼を担うようになるのです。
亀姫が嫁ぐのが長篠の戦いの後になったのは単純に年齢の問題と思われます。
側室は不要だった? それとも許されなかった?
亀姫は天正5年(1577)に嫡子である家昌を産んでいます。その後天正7年(1579)に家治、天正8年(1580)に忠政、天正10年(1582)に千姫、天正11年(1583)に忠明が生まれています。この間の天正7年(1579)には、信康の切腹と築山殿の殺害が発生し、母と兄を失っています。ただ、亀姫は既に奥平氏の作手にいたため、特に咎められることはありませんでした。 次男の忠政以降は元服時に松平姓を与えられています。歴史学者の黒田基樹氏はこれをもって嫡男の家昌が庶長子という可能性を唱えていますが、おそらくないと思われます。というのも、家治が養子入りした天正16年(1589)の時点で家昌は家康の偏諱を受けて元服しており、奥平氏を家康と血縁のある譜代家臣にしたかったため、嫡男のみを奥平に残したと考えるのが自然だからです。実際、貞昌(改名して信昌)以後、譜代大名として長く日光街道の要地を任される家臣となっています。
奥平信昌は亀姫以外の側室を持ちませんでした。これは、亀姫が側室を持つことを許さなかった、という視点で語られることが多くなっています。この理由は後述する本多正純との確執から、亀姫ならそういうこともするかもしれないという文脈で語られることが多いです。
ただし、奥平信昌側が無理に側室をもたなかったという視点も忘れてはいけません。亀姫は男子を4人産んでいます。家康が養子に欲しがるほど家の存続には余裕がある状況です。この状況でいたずらに側室を増やし、男子が生まれても家督争いなどの種になりかねないからです。
信昌にとって嫡男・家昌が産まれた時期は、家康が三河・遠江・駿河の支配を確立した時期です。本能寺の変の後、さらに信濃・甲斐にまで勢力を拡大した家康は、奥平氏にとって大きな後ろ盾でした。信昌は家康の支援を期待し、側室はあえて持たなかった可能性もあるでしょう。
いずれにせよ、この点は今後、新史料などが発見されることを願うばかりです。
本多正純の失脚との関わり
奥平氏は関東移封後上野国甘楽郡(現在の群馬県富岡市宮崎)3万石を与えられました。慶長5年(1600)の関ケ原合戦には奥平信昌、家昌、忠明が出陣しています。家昌は徳川秀忠軍とともに信濃の真田攻めを担当、信昌は本隊で戦ったとも、真田攻めだったとも言われています。いずれにせよ、信昌と家昌は関ケ原後の京都で治安維持を担当し、功績を上げています。この功績で夫の信昌は美濃加納(現在の岐阜県岐阜市)10万石を与えられ、家昌は下野宇都宮10万石(現在の栃木県宇都宮市)を与えられました。
奥平氏と亀姫の子どもたちは関ケ原までの戦乱期を生き抜きました。亀姫は夫についていく形で加納入りしたため、加納御前と呼ばれるようになっています。
大久保忠隣の失脚
この状況に本人も安泰と思ってたでしょうが、娘の千姫に悲劇が待っていました。慶長16年(1611)に千姫の夫・大久保忠常が急死、これに失意した忠常の父・大久保忠隣は意気消沈したといいます。そして仕事にも支障が出たとして、忠隣は慶長19年(1614)に改易となってしまうのです。詳細は触れませんが、この一連の事件は大久保長安と本多正信という、家康を支えた能臣の子孫による権力闘争とも言われています。この騒動で大久保派は失脚し、本多正純は宇都宮10万石を手に入れて15万5千石に加増されました。
亀姫は大久保派失脚の少し後には嫡男の奥平家昌を、その翌年に夫の信昌も失ってしまいます。その後まもなく剃髪して「盛徳院」と号し、尼となりました。
ここまでが確認されている確実な亀姫の活動になります。
宇都宮城釣天井事件
しかし、この後の本多正純の失脚に亀姫が関わったという説があります。「宇都宮城釣天井事件」と呼ばれるもので、2代将軍・徳川秀忠により、本多正純が処罰されて失脚した事件です。同時代史料である『梅津政景日記』では奉公不足と記され、細川忠利の書状では将軍である秀忠の意向に沿わないことが多かったため、と記されています。確かなことで言えば、宇都宮城の無断改修などを咎めて秀忠が正純に出羽由利(現在の山形県由利本荘市)5万5千石に減封を命じました。しかしこれを固辞した正純に激怒した秀忠が改易を命じ、流罪となったというものです。この正純を追求したものの1つが宇都宮釣天井とされ、秀忠暗殺のために造られたという伝承があります。そして釣天井について直訴したのが亀姫という話が伝わっているのです。
亀姫と本多正純の関係が良好だったとは言えないでしょう。娘の夫の死につけこんだ形で権力拡大を狙った本多正純と仲良くできるとはとても考えられません。しかし、釣天井について同時代に触れている史料はなく、幕府の記録である『寛政重脩諸家譜』にもそうした記述は見られません。信憑性についてはほぼないと言ってもいいでしょう。
夫の死後、亀姫は藩主には若い孫の後見役となったと言われています。寛永2年(1625)に加納で亡くなりました。戒名は盛徳院殿香林慈雲大姉と伝わります。家康の娘の中で最も長生きした女性でした。
亀姫の子孫は?
亀姫の子孫は家昌と忠明の2人と千姫の子が江戸幕府で要職を歴任しました。家昌は亀姫より先に亡くなりましたが、孫の忠昌以後も宇都宮奥平藩として存続しました。その後、豊前中津藩へ移封となり、福澤諭吉の父らが仕えて血縁から養子をとりつつ明治維新まで残りました。忠明は松平姓を与えられ、大坂の陣で活躍し道頓堀の名付け親になったと伝えられています。江戸幕府初期の宿老として播磨姫路藩18万石を与えられ、その子孫はその時代ごとの要地へ何度も転封となりながら存続しました。最終的には武蔵忍藩10万石となり、明治維新まで続いています。
大久保忠常と千姫の子大久保忠職は本多正純失脚後に罪を許され、美濃加納藩を継ぐ形で大名に復帰しました。その後に肥前唐津藩へ移封となり、亀姫のひ孫の代に大久保氏が保有した小田原藩に復帰して明治維新まで存続しています。
【主な参考文献】
- 『愛知県史』
- 黒田基樹『家康の正妻 築山殿: 悲劇の生涯をたどる』(2022年、平凡社)
- 下重清『小田原藩 シリーズ藩物語』(2018年、現代書館)
- 平山優『武田氏滅亡』(2017年、角川書店)
- 堀田正敦『寛政重脩諸家譜』(国立国会図書館デジタルアーカイブ)
- 三谷紘平『中津藩 シリーズ藩物語』(2014年、現代書館)
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