戦国の世に翻弄された天正遣欧少年使節の数奇な運命
- 2024/12/20
伴天連被れと称された織田信長はとりわけキリスト教を庇護し、欧州視察を目的に、天正遣欧少年使節(てんしょうけんおうしょうねんしせつ)を送り出しています。が、数年を経て日本に帰ってきた彼等を待っていたのは過酷な運命でした。
今回は戦国の世の悲劇、天正遣欧少年使節の運命をご紹介します。
天正遣欧少年使節はキリスト教を学んだエリート
天正遣欧少年使節の結成は天正10年(1582)。大友義鎮・大村純忠・有馬晴信らの名代としてキリスト教の見識を深め、故郷の人々を啓蒙するのが彼等に課された使命でした。正式なメンバーは以下の4人です。
- 伊東マンショ
- 千々石ミゲル
- 中浦ジュリアン
- 原マルチノ
平均年齢は13〜14歳、現代の感覚ではまだまだ子供です。2人の修道士と3人の神父も随行しました。
全てのはじまりはローマ出身の司祭、アレッサンドロ・ヴァリニャーノが立てた計画。彼は日本における布教活動の後ろ盾をローマ教皇やスペイン王室に求め、有馬のセミナリヨに在籍する少年たちの留学を目論んだのです。
セミナリヨとはヴァリニャーノが設けた修道士育成を目的とする初等教育機関に当たり、地理学・語学・天文学・美術・音楽・運動・宗教他、西洋の最先端の学問が施されました。教育課程は予科1年、本科3学級の全寮制。課程修了に費やす期間は平均6年ほどなので、使節に選ばれた少年たちはエリート中のエリートと言えます。語学とはラテン語の勉強のことで、当時の聖書がラテン語で綴られていた事実に起因します。一見宗教と関係ない美術・音楽・運動が含まれるのは、情操教育に貢献すると考えられたからだとか。
少年使節一行を乗せて長崎から出港したポルトガル船は、洋上で嵐や大時化に見舞われる他、乗組員が次々熱病に倒れるなど度重なる困難に直面します。一行が喜望峰を回り込んでリスボンに辿り着いた時には、船出から2年6か月の歳月が経過していました。寄港地にマカオが挙がっているのが少々意外ですね。
巡礼先で体験した数々の出来事
長い船旅を終えた少年使節たちは、欧州の人々の熱狂的歓迎をうけました。マンショ以下、メンバーは初めて目にする西洋の都市に驚き、素晴らしい建築や芸術の数々に感動しました。天正12年(1584)にはスペインの首都マドリードにてフェリペ二世(スペイン国王)に謁見。翌年にはイタリアに入り、大公妃ビアンカ・カッペッロ主催の舞踏会に招かれています。ピサの斜塔やサン・ピエトロ大聖堂の見学も忘れません。
ローマでは教皇グレゴリオ13世に会い、ローマの市民権を与えられました。それから間もなく高齢のグレゴリオが死去した関係で、新教皇シクスト5世の戴冠式にも列席しています。
人生の絶頂期にあった彼等は預かり知らぬことですが、その頃の日本は織田信長が既に本能寺の変(1582)で死去しており、豊臣秀吉の治世が始まっていたのです。
豊臣の世の異端児 帰国後の末路
信長の死は日本におけるキリスト教布教に大打撃を与えていました。彼の遺志を継いで天下統一に乗り出した秀吉は、天正15年(1587)に突如として伴天連追放令を発布。ちなみに伴天連(ばてれん)の由来はポルトガル語で司祭をさすパードレでした。秀吉が手のひらを返して宣教師を追い出した理由は、日本人の奴隷貿易および日本の植民地化を防ぐ為だったと一部で言われています。博多在住の宣教師・コエリョが自分の造らせた軍艦に秀吉を招き、「私は好きな時にスペイン艦隊を動かせます」と豪語したことも無関係ではありません。
秀吉の真意はどうあれ、追放令を境に切支丹への弾圧が強まったのは事実。結果として教会は破壊され、宣教師たちは異国に居残り布教を続けるか、早々に帰国するかの二択を迫られました。
天正18年(1590)、長旅を終えて帰国した少年使節を待ち受けていたのは世間の冷ややかな反応でした。彼等は西洋の絵画や最新の海図、南蛮船の精巧な模型や活版印刷機の複製を日本にもたらします。秀吉には立派なアラビア馬を贈りました。翌年3月には秀吉の御前で西洋楽器を演奏し、束の間の穏やかなひとときを過ごします。秀吉は使節団の土産を大変気に入り、ポルトガル人調教師に馬の躾を頼んだそうです。
この時点において、彼らの関係は決して悪くありませんでした。秀吉は伴天連追放令を出す一方で使節団の学識を高く評価し、全員に士官を勧めています。特にマンショには目を掛け、「ワシの側に仕えぬか」と熱心に説得しました。それに対する答えは否。「我々は司祭になります」と天下人の誘いを断ったことで、マンショたちは不興を買ってしまいます。
その後の少年使節の運命は想像を絶する過酷さ。伊東マンショはイエズス会に正式入会後司祭に叙階されたものの、慶長16年(1611)に領主・細川忠興によって追放の憂き目に遭い、翌年長崎で病没。原マルチノは江戸幕府の切支丹追放令を受けてマカオに移住、異邦人として生涯を閉じました。
とりわけ非業の最期を遂げたのが中浦ジュリアン。キリスト教禁令後も20年にわたって逃亡を続けた末に捕縛と相成り、長崎で棄教を迫られるも断固として応じず、穴吊るしの拷問の果てに絶命しています。
彼がキリスト教を捨てられなかったのは、高熱で謁見を諦めざるを得なかった際に、ローマ教皇の見舞いをうけた恩義に根差しているのかもしれません。
残る1人、千々石ミゲルは唯一の脱会者。棄教後は千々石清左衛門と名を改めて藩主の大村喜前に仕え、妻子を持ったと伝えられています。脱会の動機は定かではありませんが、一説にはヨーロッパの奴隷制に不信感を持ったからだと言われており、ただの卑劣な裏切り者とも断じきれません。
おわりに
以上、天正遣欧少年使節の解説でした。今回のコラム執筆にあたって色々と調べ直し、彼らの複雑な境涯にやりきれない感慨を覚えました。中浦ジュリアンに至っては穴吊るしの拷問で息絶えるまで4日もかかっています。享年65歳……もし本当に天国があるのなら、殉教者の信仰が報われるように祈ってやみません。【主な参考文献】
- 松田毅一『天正遣欧使節』(講談社、1999年)
- 五野井隆史『日本キリスト教史』(吉川弘文館、1990年)
- 三浦小太郎『信長 秀吉 家康はグローバリズムとどう戦ったのか 普及版 なぜ秀吉はバテレンを追放したのか』(ハート出版、2024年)
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