大友宗麟は1530年1月3日に長男として生まれて父は第20代当主大友義鑑。大友家は九州北部を鎌倉時代から治めてきた名家で、大友義鑑の時に勢力を拡大して九州の有力大名の1つになった。そんな家督を継ぐのは長男である大友宗麟だと思われがちだが、戦国時代は必ずしも長男が跡を継ぐものではない。
父親の大友義鑑は三男を最もかわいがっていたことから三男に家督を譲ろうとするも、それに反対する家臣が登場して主君と家臣の対立が激化してしまう。1550年2月10日に家臣の津久見美作らが大友義鑑の屋敷を襲撃して、そのときの怪我がきっかけで大友義鑑は死亡する。(二階崩れの変)
結果的に大友義鑑の遺言で21歳の大友宗麟が大友家の家督を相続することになった。この前後に継室として奈多夫人を迎える。三男派の家臣は粛清された。
大友宗麟が家督を継いだ翌年の1551年から大きな事件が起こり始めた。 北九州と中国地方の大きな勢力だった大内家の当主大内義隆が家臣である陶晴賢の謀反で自害に追い込まれた。 陶晴賢は大内家の当主として大友宗麟の弟である大内義長を擁立するも実権は陶晴賢が握っていた。しかし、中国地方の有力大名の毛利元就が陶晴賢を討伐するために大軍を派遣して、陶晴賢は追い詰められて自害する。 後に当主の大内義長も毛利元就に攻め立てられて討ち死にする。
こうして大内家は滅亡してその領地は毛利家が支配することになった。このとき大友宗麟は大内家の北九州の領地を受け継ぐ権利があると主張して占拠していく。 北九州ではスペインやポルトガルとの南蛮貿易が盛んだったことから、フランシスコ・ザビエルなどの宣教師にキリストの宣教を許可した。
1557年には日本初の病院を建設。1558年に奈多夫人が嫡男の大友義統を出産している。 1559年6月には室町幕府将軍の足利義輝に多額の献金を払って、北九州の筑前と豊前の守護に任ぜられ、同年11月には九州探題に補任されて名実ともに筑前と豊前を支配下に置いていく。1560年に左衛門督の任官を受けるなど大友家はこの頃全盛期を迎える。
1562年に不可侵協定を結んでいた毛利元就が突如襲撃、門司城の戦いと呼ばれる数度の合戦において大友軍は毛利軍に敗れることに。この大敗を受けて宗麟は出家して「休庵宗麟」と号した。
1567年に毛利元就は中国地方の大名尼子家を滅亡させると再び北九州に侵攻。1567年には大友家の国人が毛利家と内通して蜂起することもあって苦戦を強いられるも、大友家には「雷神の化身」という異名を持つ男がいた。それが立花道雪である。宗麟は立花道雪に平定を命じてこれを鎮圧している。
1569年に肥前国の有力大名・龍造寺隆信を討伐するために自ら軍を率いて侵攻。しかし、毛利元就の息子の小早川隆景と吉川元春が4万もの大軍を率いて筑前に侵攻してきたため、急遽撤退してこれを迎え撃った(多々良浜の戦い)。激しい攻防戦の末、毛利軍が九州から撤退することになる。続く1570年にも宗麟は再び肥前に侵攻するも大敗を喫して和睦せざるを得なくなる。(今山の戦い)
こうして、九州北部は大友家と龍造寺家の2つの大きな大名家が支配することになる。
人心が離れたこともあって、1576年に家督を大友義統に譲って隠居生活をするが、実権はまだ手放さなかったようだ。そんな中、宗麟は日向にキリシタンの国を作るべく日向の侵攻を計画。立花道雪をはじめとする重臣らがこれに反対するも、翌1577年に宗麟自ら総が大将となって日向に南下していく。日向の隣国の島津家はこれに危機感を覚えて兵力を招集、日向の耳川という川を越えた先にある高城で激戦を繰り広げた(耳川の戦い)。この戦いで大友軍は大敗を喫して撤退を余儀なくさせられ、多くの重臣を失うのである。
1579年には筑後の諸勢力が大友家の弱体化を見て離反していくと同時に、宗麟は大友義統とも確執が深まっていった。大友家の領地の国人の相次ぐ反乱、島津義久や竜造寺隆信の侵攻によって大友家はどんどん領地を失って、大友家は衰退の一途をたどっていく。 宗麟は何とか大友家を再興するために織田信長に接近するも、1582年に本能寺の変が起こって織田家との協力関係もなくなる。 結局疲弊した大友家の再興は叶うことなく、大友宗麟は1587年に病没する。享年57だった。