「応仁の乱(1467-77年)」戦国時代の幕開けとなった全国規模の内乱!

東滋実
 2017/11/23

応仁の乱の絵

応仁・文明の乱(通常は単に「応仁の乱」という)は、応仁元(1467)年から文明9(1477)年まで11年にわたって続いた戦乱です。日本史上最も有名で、名前を知らない人はいないであろう戦乱ですが、規模は大きく相関図は複雑で、「ちょっと説明してみてよ」といわれても難しいものです。

よく、応仁の乱をきっかけに室町幕府は衰退し、戦国大名が台頭して戦国時代が始まったといわれます。そうはいっても何がどうしてそうなったのか。できるだけ詳しく、簡単にまとめてみましょう。

不安定な室町幕府

応仁の乱をきっかけに幕府は有名無実になったと言われますが、振り返れば幕府の始まりから不安定でした。

まず、発足からわずか12年で観応の擾乱(内紛)が起こります。3代の義満の時代は全盛期で安定していましたが、続く4代の義持ののちは5代・義量から7代・義勝まで代替わりが目まぐるしく、その間には義持が後継者を決めないまま死去するなど後継者問題もありました。

こんな状態でよく15代も続いたものです。

嘉吉の乱

特筆すべき出来事といえば「嘉吉の乱(変)」でしょう。嘉吉元(1441)年6月24日、6代将軍・義教が赤松満祐邸に招かれ暗殺されました。関東で起こった結城合戦(永享の乱)勝利の祝宴として用意された場で、足利将軍が家臣に殺されるという前代未聞の事件が起こったのです。

暗殺の背景には、「万人恐怖」と称された義教の恐怖政治があります。

ところで、そもそも義教がそのような政治を行ったのも、弱まった将軍権力を義満の時代のように理想的なものにしようという狙いからでした。しかし、よかれと思ってやった義教の政治は「将軍暗殺」によって余計将軍の権威を失墜させることになったのでした。

義教を暗殺した赤松満祐には治罰(討伐)の綸旨(りんじ/朝廷が発給する天皇の命令書)が出されて朝敵となり、山名持豊(のちの宗全。以後表記は「宗全」で統一)らに攻められて自害します。

後にも述べますが、この事件は応仁の乱の要因のひとつとなります。

幕府の主要勢力

幕府内の最高役職は「管領」です。応仁の乱のころには足利一族出身の斯波・細川・畠山の3氏から任命される決まりとなっていました。この三管領家が絶大な勢力を誇っていたのはもちろんのことですが、嘉吉の乱をきっかけに勢力を伸ばした人物がいます。それは山名宗全です。

幕府の侍所長官を交替で務める「四職」には、山名・一色・赤松・京極の4氏があり(土岐氏がいた時期もあった)、宗全は山名氏の当主でした。

山名氏は、赤松満祐討伐の功績により、赤松一族に与えられた播磨東三郡を除く播磨、さらに備前・美作が与えられました。山名一門の分国は但馬・因幡・伯耆・石見・播磨・美作・備前・備後・安芸・伊賀の計10か国で、宗全は美作・備前を除く8か国を独占しました。

応仁の乱で東西に分かれて対立することになる細川氏は8か国の守護(勝元は摂津・丹波・讃岐・土佐の4か国守護)ですから、立場的には三管領家に劣る宗全が力では拮抗できるだけの存在になったといえます。

応仁の乱の要因

8代将軍・義政の時代、幕府の勢力は大きく分けて3つありました。

  • 伊勢貞親ら、将軍の側近集団
  • 山名宗全をリーダーとする集団
  • 細川勝元をリーダーとする集団

本質的な要因は、この3つの政治勢力のせめぎ合いといわれます。続いて、細かな要因をまとめましょう。

有力守護大名の家督争い

畠山義就 vs 畠山政長

応仁の乱の直接的な要因をひとつ挙げるとしたら、畠山氏の内訌、つまり家督争いでしょう。これは応仁の乱の終わりを見てもわかります。

三管領家の畠山氏は、畠山持国の後継者をめぐって争いました。持国の子(しかし庶子)の義就(よしひろ)と、継嗣に決まっていた持国の甥・弥三郎。持国は弥三郎への相続を撤回し、実子の義就に継がせようとしますが、家臣らは反発して弥三郎を推しました。のちに弥三郎が亡くなると、反対派の家臣らは弥三郎の弟・政長を擁立して対立は続きます。

この問題には義政も関わっていました。義政は一度は義就の家督を認めたものの京都から追い出して弥三郎が家督を継承し、しかしまた義就を呼び戻して家督を回復させる、といった風見鶏のような無定見なありさまでした。

斯波義廉 vs 斯波義敏

こちらも三管領家の斯波氏。当主の斯波義敏は宿老の甲斐常治と対立して義政に疎まれ蟄居し、新たに子の松王丸に家督を譲ることに。その次に、関東の堀越公方執事の渋川義鏡の子・斯波義廉が当主となりますが、義敏はこの義廉と対立します。このふたりの背後には、義敏を支援する伊勢貞親、義廉の妻の養父である山名宗全の対立もありました。

山名宗全と細川勝元の対立

応仁の乱で東軍・西軍の実質的な長となった山名宗全と細川勝元の対立です。後に述べますが、当初は伊勢貞親という共通の敵を排除するために同盟関係にあったふたりは、複数の要因により対立関係に転じます。主な要因は、

  • 宗全の末子・山名豊久を養子に迎えていた勝元に実子(政元)が生まれ、豊久が廃嫡された。
  • 畠山氏の内訌において、宗全は義就を支援、勝元は政長を支援。御霊合戦で義政は義就と政長を一対一で対決させようと、山名・細川の介入を禁じたが、宗全は義就軍に加勢。介入しなかった勝元は面目を失い、宗全を恨んだ。
  • 斯波氏の内訌において、宗全は娘婿の義廉を支援、勝元は善敏を支援。
  • 関東で起こった享徳の乱において、義政と当時管領だった勝元は上杉支持・古河公方・足利成氏討伐路線で動いた。これに、上野を本拠とする新田氏の一族である宗全は反発。宗全の娘婿・斯波義廉は堀越公方の下にいた渋川義鏡で、義廉は関東の状況を把握し、和平に一役を買っていた可能性が高い。宗全は反古河公方の姿勢を崩さない義政・勝元政権を打倒しようとした。

などがあります。

足利将軍家の継嗣問題

義政は正室の日野富子、また側室との間にも長らく女子しかおらず、男子が生まれませんでした(最初の男子は夭折)。

そのため義政は実子への継承を諦め、仏門に入っていた弟の義尋(のちの義視)を還俗させ、もし男子が生まれたとしても出家させるという約束で後継者としました。

しかし間もなく富子が男児を出産(義尚)。義政と富子は当初「義政→義視→義尚」の継承を考えます。よく実子を将軍にしたい富子が義視を排除しようとしたといわれますが、義視の正室は富子の妹・良子であったため、当初は義視との関係も悪くなく、考えは義政と一致していました。

しかし義尚を養育する立場の伊勢貞親は義尚をこそ将軍にと画策し、義視と対立。 当初は義視への継承で納得していた義政、のちに義視が西軍に転じたことで義尚を将軍にします。

宗全・勝元、共闘から敵対へ

先に述べたように、当初宗全と勝元は友好関係にありました。宗全の子・豊久が勝元の養子になっていただけでなく、勝元の正室も宗全の養女であり、二人は縁戚関係にあったのです。

文正の政変

文正元(1466)年、山名、細川、そして政所執事の伊勢貞親を合わせた、応仁の乱の本質的な要因である3者の関係に動きがありました。

  • 貞親の働きかけにより、義政は斯波氏の家督を義廉から義敏に替えた。娘婿の義廉を支援する宗全は不満を抱く。
  • 貞親はさらに、瀬戸内の制海権と対明貿易をめぐって勝元と敵対していた大内政弘を赦免。勝元は隠居を願い出て不満を露わに。
  • 畠山義就の上洛。宗全ではなく貞親との連携と考えられる。貞親は反山名の義敏・赤松政則、反細川の義就・政弘を糾合し、自身と敵対する宗全・勝元を潰そうとした。

宗全、勝元はどちらも貞親が共通の敵であったわけです。貞親の目論見は、その前に共通の敵をもつ宗全・勝元が共闘へ向かったため失敗に終わりました。

貞親は同年9月5日、「義視に謀反の疑いがある」と義政に讒言。義政は鵜吞みにして義視を誅殺しようとします。義視は宗全と勝元を頼って勝元邸に逃れました。6日、宗全・勝元らの抗議により、讒言した貞親、さらに貞親と連携していた義敏らは失脚します。

政変後、勝元邸に入った義視の政権が成立しますが、義政は「全部側近たちのせいだ」と側近に罪を擦り付けて義視を呼び戻し、政務に復帰しました。

さて、共闘関係にあった宗全と勝元ですが、共通の敵がいなくなり、結束がゆるみつつあります。おまけに、自分を頼った義視を将軍にいただいて娘婿の義廉を管領にして政権を牛耳ろうという宗全の思惑は外れてしまい、ところが一方の勝元は義政の復権を主導している。つまり、めざす道が変わってしまったのです。

御霊合戦

宗全は、勝元を後ろ盾に持つ畠山政長と対立する義就に目を付けました。義就は同年12月26日に上洛し、千本釈迦堂に陣を構えます。

義政は義就の無断の上洛に怒り政長支持にまわりますが、なんと数日後の文正2(1467)年1月2日には、恒例だった管領家への御成(おなり)を取りやめて御所で義就と面会します。さらに8日には政長を管領から下ろし、義廉を任命。どっちつかずの無節操さ、義政のこの性格が応仁の乱の原因、とまでは言えないまでも、少なからず影響はあったことでしょう。

15日、管領から下ろされた政長、さらに勝元・赤松政則らは、軍を率いて御所巻(将軍への異議申し立て)を行うと、宗全はそれを察知して警備の名目で花の御所を占拠しました。これは宗全による事実上のクーデターでした。

1月17日夜、追い詰められた政長は自邸に火を放って北上し、上御霊社(現在の御霊神社)に陣取ります。

この時の義政の思いは、「合戦に巻き込まれたくない」ということ。義就と政長を一対一で対決させようとし、山名・細川方の軍事介入を禁じました。勝元は素直に命令に従い介入しませんでした。ところが宗全はそれをあざ笑うかのように義就軍に加勢したのです。結果、政長は敗れて勝元に匿われました。

勝元は義政の命令に従ったに過ぎませんが、宗全が破ったことで世間的には「勝元は政長を見捨てた」形になり、勝元は面目を失いました。宗全と勝元との間に亀裂が入ります。

東西両軍、全面衝突へ。応仁の乱の始まり

3月に元号が「応仁」に改元され、5月、細川方は各地で軍事行動を起こします。赤松政則は宗全分国の播磨へ、斯波義敏は義廉分国の越前へ。

5月26日、激戦

そして迎えた応仁元(1467)年5月26日。前日夜から朝にかけて、細川方の武田信賢・細川成之が一色義直の邸を襲い、義直は宗全邸へ逃れます。この事件を契機に、両軍は前面衝突へ。初日の26日は京都の各地で戦闘・放火があり、京都北部の武家・公家屋敷や寺社は焼亡してしまいました。

義政、中立から東軍支持へ

義政は停戦命令を出し、義就には河内へ下るよう説得します。ところが、勝元が「将軍旗」と「宗全治罰の綸旨」拝領を願い出て、さらに義視を宗全討伐の総大将にと要請。このころ富子とその兄の日野勝光は義視・勝元の牽制のため宗全に通じており反対しますが、6月3日、義政は将軍旗を勝元に与えてしまいます。

つまり、今まで中立の立場を貫いてきた義政はとうとう勝元支持にまわったのです。

両軍の構成

  • 【東軍】細川一門、畠山政長、斯波善敏、京極持清、赤松政則ら
  • 【西軍】山名一門、畠山義就、斯波義廉、大内政弘、一色義直ら

『応仁記』によれば、東軍は16万騎、西軍は11万騎の兵力だったようです。彼らがどこで戦ったかを考えるとこれは誇張ないし、総動員した場合の数字である可能性が高いでしょう。

ここまで紹介してきた乱の要因からもわかるように、両軍の構成員はそれぞれ同じ目的のため団結したわけではありません。畠山氏、斯波氏はそれぞれの内訌のため、政則は嘉吉の乱に始まる宗全との関係のため、大内政弘は瀬戸内の制海権・対明貿易をめぐる細川氏との敵対のため、などなど。つまり「敵の敵は味方」の論理で結集しただけでした。これは応仁の乱が長引いた要因のひとつとなりました。

官軍となった東軍が優勢

結果としてなあなあで終わってしまう応仁の乱ではありますが、どちらが優勢かといえば東軍でした。将軍は自軍にいましたし、10月には後花園法皇が山名宗全治罰の院宣を下し、宗全は朝敵となったからです。

さらに東軍は、文明元(1469)年には西軍の義廉軍の指揮をとっていた朝倉孝景を寝返らせ(のちに越前守護へ)、西軍の補給路であった越前を手に入れて優位に立ちます。

出奔した義視、西軍の総大将に

さて、義政ともども東軍に属し、総大将となった義視でしたが、将軍就任のための目覚ましい軍功がほしいために逸り、孤立して失脚します。8月23日に伊勢に出奔。翌年8月には義政が上洛を促しますが、義視が「勝光を排斥せよ」と諫言すると怒り、さらには義視を追いやろうとした伊勢貞親を政務復帰させてしまいます。

11月13日、義視は比叡山に逃れ、23日には帰京して西軍入りし、総大将となりました。こうして西幕府が誕生し、東西にふたりの将軍が同時に立つことになったのです。義視にも治罰の院宣が下されました。

長引く戦い

京で疫病が大流行

膠着状態が続く中、文明3(1471)年7月に京都で疱瘡や赤痢が流行りました。そもそも応仁の乱勃発以前から全国的な大飢饉(長禄・寛正の飢饉)で、西日本を中心に大変な状態でした。その間、義政は民を苦しめる問題を解決しようとしなかったわけですが、この時の疫病は将軍家周辺にも襲い掛かります。勝光の子は疱瘡で亡くなり、後土御門天皇も疱瘡にかかりました。さらに、義尚も病に倒れ、看病した義政・富子も腹を下したようです。

細川・山名の和睦交渉始まる

疫病は人々を疲弊させ、戦乱の収束へ向かわせたのか。翌文明4(1472)年1月には、宗全・勝元の間で和睦交渉が始まりました。長引く戦乱で士気が下がっていることも無関係ではありません。西軍では毬杖(ぎっちょう)で遊んでいた者たちが勝敗をめぐって喧嘩になり、殺し合いに発展したとか。一向に終わらない戦乱のストレスもあったでしょう。

面目のために立ち上がった勝元は東軍優勢のまま和睦に向かうことになんら不満はなかったでしょうし、宗全にとってもこのまま戦を続けるより和睦したほうが利があると考えたのでしょう。

義視を将軍に立て、義廉を管領にして政権を牛耳るという宗全の思惑は、もともと管領にはなれない身分の宗全が既存の秩序の中で見出したチャンスでした。宗全は老齢ですし、最後の夢でもあったのでしょう。しかし老い先短い今、西軍不利の状況で義就との結びつきを重視して戦いを継続することに価値はないと考えたのではないでしょうか。

しかしここで和睦には至りませんでした。大内政弘、畠山義就、赤松政則らが和睦に反対したのです。それも当然。彼らの目的は当初から宗全と異なるのですから。

勝元・宗全の引退と死去。世代交代へ

ゴールが奪われ失意の宗全。錯乱したといううわさも飛び交ったようです。同じころ、勝元は髻を切って引退。政元に家督を譲ると決めます。政元は正室(宗全養女)の子ですから、「これで手打ちにしよう」という宗全へのメッセージでもありました。

文明5(1473)年3月18日に宗全が70歳で死去すると、5月11日には勝元も44歳で死去。長い戦乱の心労もあったのでしょう。12月19日には、将軍義政も9歳の義尚に将軍職を譲りました。

応仁の乱の終わり

文明6(1474)年2月、和睦交渉が再開されました。依然として反対意見はありましたが、4月3日に宗全と勝元の子の山名政豊と細川政元が会談し、和睦が成立します。しかしこれは表面上の単独和睦で、応じない人々の対立は続きました。西軍に斎藤妙椿がついたことで、「まだやれる」という気運が生まれたのです。

日野富子が講和交渉で活躍

さて、彼らをどうやって止めさせるか。ここで活躍したのが日野富子です。妹婿の義視との仲介役となり、さらに政弘も仲介を頼みました。見返りとして義視に3000疋(30貫)、政弘に5000疋(50貫)要求しました。富子が「私腹を肥やす守銭奴の悪女」と評される理由ですが、当時礼銭を受け取るのは普通のことでした。東西軍問わず金を貸して戦を拡大させたというのも誤り(西軍には貸していない)という説もあります。

大内政弘は領国へ

政弘は11月3日に降参。従四位下左京大夫の官位、さらに周防・長門・豊前・筑前4か国の守護職、知行地の安堵という破格の厚遇です。当初の目的・勝元打倒が果たせず、しかし何の成果もないまま帰るわけにもいかない、というのが政弘を京に留まらせた理由でしたが、上記の成果を得たことでついに政弘は引き上げたというわけです。

義視の処遇

西軍の撤退が進み、どこにも行き場がない義視は斎藤妙椿の計らいで美濃の時成頼が引き取ることになりました。 こうして応仁の乱は、11年の戦いで誰も勝利しないまま形の上で終わりを迎えました。

応仁の乱後も続く両畠山氏の戦い

乱後、文明9(1477)年に京都を出た義就は河内であばれ、10月にほぼ平定。この人だけは、最初から最後まで一貫して幕府の権威の外にある実力主義の暴れん坊のままです。

ベストセラーとなった呉座勇一氏の『応仁の乱』の帯文には大きく「英雄なき時代の「リアル」」と記されています。義就はもちろん英雄ではないし、むしろ悪人のイメージですが、主人公にしたら面白そうな人物ではあります。

山城国一揆の活躍

10月、義就は大和に入り、政長方の筒井氏らを一掃。文明14(1482)年には義就治罰の綸旨が発給されますが、誰も止められず、両畠山の戦いは続きました。

それを止めたのは、南山城の国人たち(山城国一揆)でした。彼らは自治を行い、その機関は「惣国」と呼ばれます。山城国一揆が圧力をかけて両畠山に撤退要求を叩き付け、義就・政長方は受け入れました。両畠山の撤収により、応仁の乱の戦後処理も完了しました(畠山氏の内訌自体はまだ続く)。

まとめ

日本の歴史や文化を知るには応仁の乱以後だけ学べば十分といわれますが、それだけ応仁の乱が変えたものは大きく、それが現在まで続いているということです。

最後に、応仁の乱によって変わったことをいくつか紹介しましょう。

戦法

京都で市街戦が行われたため、要害の役割を果たす御講が出現したほか、軽装の歩兵の足軽が多く登用されたことで、戦が長期化していきました。足軽は、慢性的な大飢饉で周辺村落から流れてきた市民、失職した牢人らがその供給源でした。時代の流れとともに足軽の在り方も変化し、安土桃山時代ごろには訓練された傭兵として組織化されるに至ります。

大名たちは在京から在国へ。戦国大名の登場

応仁の乱以前、有力な守護大名たちは在京し、分国は守護代に任せるものでした。しかし斯波氏のように分国越前を守護代の朝倉孝景に奪われたように、おちおち京に留まってなどいられない世の中になりました。

下剋上の戦国の世で、在京することに何の価値もありません。秩序の時代はもう終わりました。分国支配を保証するものは将軍による守護職補任や家柄ではなく、実力なのです。

いいことといえば、大名たちは在国するようになり、また戦乱を逃れた公家が地方へ移り、各地に小京都ができ、公家文化も広まりったことでしょうか。

しかし、諸大名が幕政から離脱したことで、幕府内では奉公衆・奉行人らが力を強めていきました。将軍と有力守護大名の協議によって政治が行われていた乱前は将軍の影響力は全国にありましたが、乱後は諸大名が離れたことで将軍の影響力は主に畿内のみに。

大名の在京から在国への変化は、将軍権力の縮小、地方の戦国大名誕生を招いたのです。これが、応仁の乱が戦国時代幕開けのきっかけといわれる所以です。


【主な参考文献】
  • 『国史大辞典』(吉川弘文館)
  • 峰岸純夫『享徳の乱 中世東国の「三十年戦争」』(講談社、2017年)
  • 呉座勇一『応仁の乱 戦国時代を生んだ大乱』(中央公論社、2016年)
  • 『歴史群像シリーズ37号 応仁の乱 日野富子の専断と戦国への序曲』(学研研究社、1994年)

  この記事を書いた人
東滋実 さん
大学院で日本古典文学を専門に研究した経歴をもつ、中国地方出身のフリーライター ...

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