「享徳の乱(1454~82年)」一足早く戦国時代?28年も続いた関東の大乱!
- 2017/11/23
一般に、応仁の乱を戦国時代幕開けの原因であるといわれますが、こと関東においては、それよりも10年以上早い、「享徳の乱」こそが戦国時代の始まりであると見られています。それだけでなく、応仁の乱は享徳の乱が波及して起こったものであるという説もあるのです。
今回は享徳の乱についてまとめてみました。
兄と弟が治める京都・鎌倉ふたつの国
享徳の乱は鎌倉公方・足利成氏(しげうじ)が関東管領・上杉憲忠(のりただ)を誅殺したことからはじまり、鎌倉公方方と関東管領・上杉(山内上杉氏)方に分かれて戦いが繰り広げられました。この大乱において、室町幕府は上杉方に味方しました。つまり、幕府と鎌倉公方の対立でもあるわけです。
鎌倉府とは
享徳の乱の主人公のひとりといえる足利成氏が長を務めた「鎌倉府」とは何なのか。これは、室町幕府が京から離れた関東経営のために置いた統治機関です。
元弘3(1333)年5月、鎌倉幕府が滅亡した後、足利尊氏は嫡子の千寿王(のちの義詮)を鎌倉にやっていましたが、同年12月には尊氏の弟・直義が後醍醐天皇の皇子・成良親王を奉じて鎌倉に下向しました。この時に成立したのが鎌倉将軍府、鎌倉府の前身です。
南北朝の内乱ののちに足利氏によって京都で室町幕府が開かれ、全国の統治が始まっても、尊氏は関東の重要性を忘れてはいませんでした。嫡男の義詮は次の将軍にし、代わりに尊氏弟の直義が鎌倉府を継承しました。直義が亡くなると、今度は義詮の弟・基氏が就きます。つまり、2代将軍の時代までは兄弟によって京都・関東が治められていたのです。
基氏以降は、3代将軍・義満の弟ではなく、基氏の子孫が鎌倉公方を世襲しました。
大乱の序章
兄弟とその子孫たちによりうまく協力して統治が行われていたかといえば、そうではありませんでした。当初の共通の敵であった南朝方との問題が片付くと、3代義満の代から対立が始まります。
鎌倉公方・氏満は機会さえあれば幕府を転覆させ自分が将軍に取って代わってやろうという野心があったようです。これを止めたのが、関東管領・上杉憲春です。
享徳の乱のもうひとりの主人公である関東管領は、もともと鎌倉時代後期に宮将軍として鎌倉下向した宗尊親王を補佐した上杉重房が始祖といえる存在です。上杉氏はのちに足利氏の家臣となりました。上杉氏は山内(やまのうち)・扇谷(おおぎがやつ)・犬懸(いぬかけ)・詫間といった分家に分かれ、この各家から適任の者が関東管領に任命されましたが、やがて山内上杉氏が独占するようになります。
関東管領は鎌倉公方の補佐でしたが、幕府との調整役も担っていました。つまり、鎌倉公方が幕府に対してよからぬことを考えた時に諫めるお目付け役でもあったわけです。
先に紹介した憲春も、氏満を止めるために諫死までしました。おかげで氏満は考え直したようですが、このように必ずしも主たる鎌倉公方に忠実ではなく口うるさい関東管領は、疎んじられるようになります。
永享の乱
永享10(1438)年、鎌倉公方・足利持氏は将軍・足利義教と対立します。持氏は権力欲が強く、一方の義教も「万人恐怖」の独裁者でしたから、折り合いがよくなかったようです。持氏は義持の代から将軍職を継ぎたいと申し出ていましたから、それが無視され、あろうことかくじ引きで義教が選ばれたことも納得がいかなかったのでしょう。
持氏は、幕府との間を取り持って諫める関東管領・上杉憲実とも対立しました。持氏は憲実討伐のために挙兵しますが、憲実のバックには幕府がついています。関東管領そして幕府の討伐軍に追い詰められた持氏は自害しました。
その後、下総の豪族の結城氏朝・持朝父子が、持氏の遺児(安王丸・春王丸)を擁立して幕府に抵抗しますが(結城合戦)、敗れて結城父子は自害、遺児ふたりも殺されました。
享徳の乱の始まり
鎌倉府再興へ
持氏が亡くなって以降、混乱続きで空席のままだった鎌倉公方。持氏と対立した義教が家臣に殺された(嘉吉の乱)ことにより、鎌倉府再興の流れが生まれました。鎌倉公方として擁立されたのは、持氏のもうひとりの遺児・万寿王丸(成氏)です。そして関東管領には、憲実の子の憲忠が任ぜられました。
両者の親同士の関係を見ればわかると思いますが、このふたりがうまくいくはずがありません。成氏にとって憲忠は親の仇の子。鎌倉府再興当初から、両者の間にはすきま風が吹いていたのです。
成氏は関東の諸豪族を重用したため、上杉氏(山内上杉氏・扇谷上杉氏)、それぞれの家宰の長尾景仲、太田資清らと対立。宝徳2(1450)年4月、両上杉氏家宰の景仲、資清は成氏に軍事圧力をかけ、成氏は江の島に逃れ、江の島合戦が勃発。のちに両者は和睦し、家臣の行いの責任をとって謹慎していた憲忠も職に復帰しました。
成氏、憲忠を誅殺
しかし、それでもわだかまりは解けませんでした。享徳3(1454)年12月27日、成氏は憲忠を自邸に招いて誅殺してしまったのです。
これにより、鎌倉公方・成氏と両上杉氏の対立は決定的なものになりました。文明14(1582)年の和睦まで28年にも及ぶ長い戦いが始まりました。
分倍河原の戦い
翌享徳4(1455)年1月21日、武蔵の分倍河原で両軍は激突。成氏軍は500余騎、上杉軍は2000余騎であったといわれますが、成氏軍の勝利に終わりました。
室町幕府は成氏討伐に乗り出す
さて、東の鎌倉公方と関東管領の対立に室町幕府はどう反応したのでしょうか。
憲忠殺害の件で双方から主張が上げられたようですが、幕府は憲忠を誅殺した成氏の行動を許しがたいことと断じ、上杉方を援助・成氏を討伐することを決定します。
幕府は、
- 関東御分国に隣接する駿河守護・今川範忠、越後守護・上杉房定に出陣を命じる。
- 幕府直属軍を派遣。
- 将軍・義政の庶兄・政知を関東に下す(のちの堀越公方へ)。
といった対応をとります。享徳の乱は、鎌倉公方と関東管領の対立に留まらず、室町幕府を巻き込んだ東西の戦いにもなっていくのです。
幕府方との戦いに発展し、成氏は抵抗の意味を込めて「享徳」の元号を使い続けました。28年の戦いの中で6度の改元がありましたが、おそらく幕府側も成氏に通達しなかったものと思われます。
利根川を境界に
憲忠亡き後の関東管領には、その弟の山内上杉房顕が任命されました。一方の成氏は、鎌倉が今川に制圧されてしまったため、下総の西北端の古河(現在の茨城県古河市)を本拠地としました。このことから、成氏は「古河公方」と称されます。
利根川を挟んだ長いにらみ合い
上杉・幕府方は、越後・上野・武蔵や、京から派遣された勢力をまとめ、長禄3(1459)年に房顕を総大将として武蔵の五十子(いがっこ)に本陣を形成します。長禄3(1459)年10月、両軍は武蔵国太田庄で戦い、上杉方は大敗を喫します。以後両陣営のにらみ合いが続き、この陣所はなんと18年も存続するのです。それだけ両者の対立が長引いたことがわかります。
そんな中で、総大将の房顕は文正元(1466)年に陣中で没し、後継者には越後守護・上杉房定の子・顕定がつきました。
こうして両陣営は利根川(現在とは異なる旧流路)を境に、古河公方方→東北、上杉・幕府方→西南、という形で勢力圏としました。
堀越公方
先に紹介したとおり、幕府は長禄2(1458)年に将軍・義政の庶兄・政知を還俗させ、鎌倉公方として関東に下向させました。また、関東探題として渋川義鏡(よしかね)を武蔵に、東常縁(とうのつねのり)を上総・下総に派遣しました。
しかし、政知が鎌倉に入ることはありませんでした。最初は伊豆の奈古谷(なごや)の国清寺を本拠地とし、ここが成氏方に襲撃されると同じ伊豆の堀越に退去しました(このことから「堀越公方」と呼ばれる)。
戦局は行き詰まる
一進一退。戦は長引く中、文明2(1470)年に上杉・幕府方は古河公方方の武将あてに大量の御内書を発給して自軍へ帰属させようと賭けに出ます。結果、小山持政・小田光重・佐野愛寿丸らが上杉・幕府方に寝返りました。
文明3(1471)年4月、上杉・幕府方は山内上杉氏の家宰・長尾景信を総大将として成氏を攻めます。一時古河城から追いやった(成氏が退去した)ものの、成氏は翌年にはまた古河城に戻って結城・那須・茂木氏らとともに態勢を立て直しました。
長尾景春の乱
山内上杉氏の家宰・長尾景信が、文明5(1473)年6月に没しました。これにより、家宰の後継をめぐる一族の争いが勃発します。
後継者は景信の嫡子・景春ではなく、景信の弟の忠景に決まったのです。これは山内上杉氏の宿老である寺田入道・海野佐渡守が相談して決定したことでした。景春は白井長尾氏の家督だけでなく当然山内上杉氏の家宰も自分が継ぐと期待していたようですが、景春の性格に難があったことを問題視され、叔父・忠景に奪われる形となったのです。
この一件を恨みに思った景春は、文明7(1475)年に武蔵鉢形城で挙兵。文明9(1477)年正月18日の景春の攻撃に五十子陣は成すすべなく(景春軍には上杉の内応者もいた)、ここに18年続いた五十子陣は崩壊してしまいました。
なお、景春は、扇谷上杉氏の家宰・太田道灌にも一緒にやろうと声を掛けますが、道灌は拒絶。両上杉氏の家宰も敵対することになりました。
都鄙合体へ
五十子陣の崩壊により優勢となった成氏は、景春と組んで攻撃に出ます。古河公方方は文明9(1477)年12月に広馬場(現在の群馬県榛名山東麓)に着陣。一方の上杉・幕府方は西北方の水沢(群馬県渋川市)・白岩(群馬県高崎市)の東麓に着陣しました。
しかし、対陣は翌年正月2日まででした。対陣中に大雪になったことで、どちらも戦闘不能に陥ったのです。
上杉・幕府方は和平を申し入れ、成氏は応じました。こうして戦によって決着がつかないまま、天候のおかげで両者は和睦することになったのです。文明12(1480)年3月、管領・細川政元により幕府と古河公方の和睦交渉が進められます。
そして文明14(1482)年11月、ついに和議が成立しました。交渉がここまで長引いたのは、堀越公方の処遇のためだったようです。関東にふたりの公方はいらないという意見もありましたが、妥協策として伊豆一国を関東公方の支配から切り離し、堀越公方が管轄することで決着しました。
室町幕府のある京を「都」、鎌倉を「鄙(田舎の意味)」とし、それぞれの公方は「都鄙之公方」と表現されました。そのため、この和睦は「都鄙合体」という表現もされます。
戦国大名の登場
その後にも少し触れておくと、和睦交渉で問題となった堀越公方の国・伊豆は、明応2(1493)年に伊勢新九郎(のちの北条早雲)によって北部が制圧されます。
早雲は戦国大名の先駆者といわれますね。やがて早雲の子孫たちは関東に進出して勢力を拡大。危機感を抱いた両上杉氏は北条氏と戦いますが、扇谷上杉氏は滅亡し、生き残った山内上杉憲定は逃れました。
一方、越後では守護代長尾為景(上杉謙信の父)が守護上杉房能を殺害します。房能の兄である関東管領・上杉顕定は長尾氏の下剋上に怒って報復に出たものの敗死。長尾氏は戦国大名化しました。
その為景の子・景虎(のちの上杉謙信)に助けを求めたのが、北条氏に敗れて逃走した憲政です。謙信が山内上杉氏の家督を継いで関東管領となった背景には、こういう事情がありました。
鎌倉公方と上杉・幕府方が長きにわたって戦った関東はのちに、成り上がり者の北条・上杉、そして武田を加えた3氏の戦国大名の戦いの場へと移り変わっていくのです。
【主な参考文献】
- 『日本大百科全書』(小学館)
- 『世界大百科事典』(平凡社)
- 日本史史料研究会監修・平野明夫偏『室町幕府将軍・管領列伝』(星海社、2018年)
- 峰岸純夫『享徳の乱 中世東国の「三十年戦争」』(講談社、2017年)
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