【滋賀県】八幡山城の歴史 織豊時代に築かれた二重構造を持つ城
- 2025/07/07
JR近江八幡駅から、北西へ3キロ程の地点に聳えるのが、標高272メートルの八幡山(鶴翼山)です。麓からロープウェーで山頂へ上がれば、そこから雄大な琵琶湖や、近江八幡の町並みを臨むことができるでしょう。
山頂には瑞龍寺が建ちますが、そこは羽柴秀吉が築き、甥の秀次が入ったという八幡山城の本丸跡となります。ちなみに秀吉の城といえば、大坂城や伏見城のように平城、もしくは平山城というイメージがありますよね。なぜ八幡山のような峻険な場所に城を築こうとしたのでしょう。
そこには、是が非でも近江を防衛したいという秀吉の思惑がありました。だからこそ堅固な城を築く必要に迫られたのです。果たして八幡山城がどんな城だったのか?その歴史とともにご紹介してみたいと思います。
山頂には瑞龍寺が建ちますが、そこは羽柴秀吉が築き、甥の秀次が入ったという八幡山城の本丸跡となります。ちなみに秀吉の城といえば、大坂城や伏見城のように平城、もしくは平山城というイメージがありますよね。なぜ八幡山のような峻険な場所に城を築こうとしたのでしょう。
そこには、是が非でも近江を防衛したいという秀吉の思惑がありました。だからこそ堅固な城を築く必要に迫られたのです。果たして八幡山城がどんな城だったのか?その歴史とともにご紹介してみたいと思います。
秀吉にとって脅威だった、家康・信雄という存在
天正12年(1584)、羽柴秀吉と徳川家康・織田信雄連合軍との間で戦端が開かれました。これが世に言う「小牧の役」です。戦力で圧倒する秀吉ですが、家康・信雄が小牧山で守りを固めているため、どうしても攻め切れません。ならばと臨んだ三河中入り作戦も、長久手で大敗を喫してしまいます。
長期にわたる対陣のあと、秀吉は方針を転換して信雄の懐柔に踏み切りました。つまり織田の惣領としての地位を与え、所領を保証することで単独講和を結んだのです。信雄の説得によって家康は領国へ退き、ここに小牧の役は終わりを迎えました。
しかし和睦を結んだとはいえ、秀吉はまだ安心できません。家康は三河・遠江・甲斐・信濃・駿河を領し、信雄も尾張・美濃・伊勢を領有しています。もし再び戦端が開かれ、彼らが攻め込んできたなら、真っ先に戦場となるのは近江でしょう。
そこで秀吉は近江の防衛強化に動きます。長浜城に山内一豊を入れ、佐和山城には堀尾吉晴を配置。さらに水口岡山城には中村一氏を入れ置くなど、万全の態勢を固めました。そして近江における守りの拠点として築かれたのが八幡山城です。
ちなみに八幡山から東へ6キロほどの地点に、織田信長が築いた安土城があります。本能寺の変後に焼け落ちたと考えられがちですが、実は修復が完了済みでした。実際に信長の孫・三法師が入り、のちに京都へ移り住んでいます。
しかし秀吉は安土城を再利用しようとせず、あえて八幡山に城を築こうとしました。なぜなら安土城はあくまで信長の城ですから、これを引き継ぐことはできなかったのでしょう。羽柴(豊臣)が近江を支配するうえで、自らの手で築く必要があったと考えられます。
甥の羽柴秀次が八幡山城へ入る
小牧の役に続く紀州征伐、四国征伐で戦功を賞された羽柴秀次は、近江で43万石(うち宿老分が23万石)を与えられました。彼は秀吉の姉の子、つまり甥にあたり、当時は猶子となっています。さっそく八幡山では普請工事が始まり、山麓にあった願成就寺が別の場所へ移され、合わせて城下町の建設も進んでいきました。もちろん築城については、秀吉の意思が働いたのは言うまでもありません。
また秀次の八幡入封に際して、秀吉は5人の宿老を付属させています。近江各地へ配された山内一豊・堀尾吉晴・中村一氏以外に、田中吉政を補佐役として八幡に置き、普請奉行の経験を持つ一柳直末を新たに加えました。
ただし城の完成時期は明確ではなく、天正14年(1586)6月に出された、城下町に関する掟書が存在するため、それ以前に城と城下町が完成したのでは?と推測されています。
ちなみに長浜城を除き、八幡山城・佐和山城・水口岡山城などは、いずれも堅固な山城でした。また対徳川・織田を意識した場合、それらの城は東向きの扇状として配置されており、ちょうど要の位置に八幡山城が存在する形となっています。
これは信長が、長浜・大溝・坂本を結ぶ西向きの扇の要として、安土城を築いたことに類似していますね。
天正13年(1585)、秀吉はこのような書状を秀次へ送っています。
「普請については、秀吉自ら視察に行くから、油断なく申し付けておくように。移築したばかりのものは差し置いても、作事を怠慢にすることはまかり成らない。知行を与えている者どもをして差配させ、念を入れてしっかりやるよう申し付けよ」
なんだか秀吉の八幡山城に対する思い入れと、普請・作事への意気込みが伝わってくるようですね。
八幡山城はどんな城だった?
現在の八幡山城跡は、山頂の主郭部や山麓に石垣が残るのみです。しかも本丸跡に瑞龍寺が建っていることで、ほとんど痕跡が残されていません。往時の様子を推し量るには、わずかな史料や発掘調査に頼るほかないようです。ただし八幡山城の縄張りについては明確となっています。山頂の山城部分、そして中腹より下の居館部に分別され、いわば二重構造の城郭となっていました。
これは、安土城以前の城とよく似ていて、城主はふだん山麓で暮らし、いざ籠城する際は、山頂の詰城へ籠るという古い城郭の形態となります。
天下人・秀吉が、なぜ時代に逆行するかのような城を築いたのか?その答えは明白です。近江防衛の要である以上、常に戦いを意識したからでしょう。
戦いに備えて堅固な城を築くには、峻険な地形を生かすことが重要です。しかし山頂部では広いスペースを確保することができず、飲料水の確保も難しいものがあります。
何より城主の居住空間や、政庁機能が限られてしまうため、政務に支障をきたす恐れがありました。その点、山の中腹に居館や家臣団屋敷を設ければ、そのような問題が起こることはありません。八幡山城が二重構造となったのは、そんな理由があったのです。
さて山頂の主郭部には、本丸を中心として二の丸・西の丸・北の丸などが、放射状に配置されており、それぞれ高石垣で構築されていました。
城の出入り口にあたる虎口部分は何度も屈曲させてあり、さらに本丸部分の虎口は内枡形を成しています。これは敵を内部へ引き込み、四方から攻撃するための仕掛けとなっていました。
また石垣によって構成される塁線には、各所で屈曲部や突出部が設けられており、横矢を掛けたり、鉄砲を撃つことが可能となっています。
さらに北の尾根沿いには堀切が設けられていて、高石垣とともに城の背後を守っていました。これらの縄張りは、極めて高い防御性を備えていたに違いありません。
そして八幡山城に天守があったかどうか、現在でも判然としないところです。ただし寛政10年(1798)年に描かれた絵図には、本丸に方形の石垣が描き込まれており、これが天守台だった可能性は否定できないでしょう。
次に山腹の居館部分です。大手口を進んだ突き当りにあり、巨大な枡形虎口を備えています。ちなみに居館跡は、昭和42年(1967)に発生した地滑りによって、広大な敷地の半分近くが埋没したものの、平成12年(2000)の確認調査では、良好に遺存していることが判明しました。
居館跡には多くの礎石があることから、複数の建物跡の存在が確認されており、さらに金箔を用いた軒瓦などが検出されています。おそらく往時には豪壮華麗な御殿が建っていたのでしょう。
それから大手道の左右には、曲輪群が雛壇状に整えられており、これは家臣団屋敷跡と推察されています。さらに屋敷群を囲うように八幡堀がめぐっており、城を守る防御施設だけではなく、城下へ物資を運び入れる水路になっていました。
八幡山城の城下町
八幡山城の普請・作事とともに、城下町の整備も同時並行で進められました。こんな史料が残されています。“あつち町之儀、ことことく島郷へ被成御引候て、寸の隙なく取乱候、委細は兵衛可申候、よくよくうんせき様へも御侍者様へも御心得候て御申頼存候、恐々謹言
十一月廿五日 長田ノ孫兵へ“
これは京都大徳寺の塔頭、真正庵へ宛てたもので、年貢上納の督促に対して、「安土から島郷(八幡)への引っ越しが忙しいから、村人がまだ年貢を運べない。だからもう少し待ってほしい」と返答しています。
つまり安土から八幡へ領民を移住させることで、新しい城下町を作ろうとしたわけです。おそらく領民だけでなく、安土城下にあった寺院や建物、石材などが移されたのでしょう。その混乱ぶりは想像以上だったに違いありません。
また天正14年(1586)に、安土で執り行われた祭礼では、八幡へ移住した人々が華やかな衣装で参加したことが記録されています。
八幡の城下町を整備する際、安土の領民全てが移転したわけではなく、在地の人々は残ったのでしょう。そして八幡へ引っ越した人々が祭礼に加わることで、かつての隣人と旧交を温めたのかも知れません。
やがて完成した八幡山城の城下町は、安土の2倍を超える規模となりました。北は八幡堀、東には長命寺、西は願成就寺がある日杉山、そして南には下街道が通っています。
そして南北4~6条、東西12条の街路を配し、碁盤の目状に区画された町家地区が形成されました。
そして城下には鍛冶屋町・大工町・魚屋町といったふうに、商工業に関する町が生まれています。また池田町や佐久間町のように、旧織田家臣の名が付けられた町も存在しました。
これらは安土城下に同じ地名があるため、おそらく安土から移転した人々が暮らしたのでしょう。
そんな八幡の町並みは、南北方向の道筋に木戸を設けた両側町となり、道と道の間には、北の八幡堀へ流れる背割り下水が流れていました。さらに上水が整備されたことで、充実した都市機能を持っていたようです。
また八幡は水陸交通の要になったこともあり、多くの商人が在住することになりました。江戸時代になると、近江八幡は「商人の町」として栄えることになります。
築城からたった10年で廃城となる
天正18年(1590)、小田原北条氏を滅ぼした秀吉は、すぐさま徳川家康を関東へ移しました。その際、徳川旧領への移封を拒んだ信雄を改易に処しています。秀吉とすれば、邪魔な二人を追いやったことになり、これでようやく東方の脅威から解放されたと言えるでしょう。
そうなると近江は安全地帯となり、もはや厳重に守らせる必要もありません。秀次は尾張清州へ移り、八幡山城には京極高次が2万8千石で入封しています。
しかし文禄4年(1595)、かつての城主だった豊臣秀次が、謀反の罪を得て切腹したことにより、八幡山城は廃城となりました。築城からわずか10年、その短い歴史に幕を閉じたのです。
秀吉が八幡山城を廃した理由は二つあると考えられます。まず戦乱が収まったことで、堅固な山城は不要となりました。ましてや近隣に大津城が完成していますから、わざわざ不便な八幡山城を残す必要がありません。実際に八幡山城を去った京極高次は、大津城へ入っているのです。
そしてもう一つの理由は、いわゆる「秀次事件」にあります。秀吉とすれば、何としても秀次の痕跡は消したかったはず。同時期に聚楽第も破却されていますから、八幡山城も同じ理由で廃城となったのでしょう。
おわりに
上下の二重構造を持つ八幡山城は、織豊時代の城郭としては珍しい事例となっています。それは天下人を目指す秀吉にとって、近江を何としても守りたい意思の表われだったのかも知れません。しかし全国統一が進むにつれ、八幡山城の特異な構造は、すっかり時代遅れとなってしまうのです。ただし、八幡の城下町はその後も繁栄し続けました。なぜなら先進的な都市機能を持ち、水陸交通の要衝というメリットがあったからです。
たとえ城はなくても町は栄える。それを具現化したのが近江八幡という町だったのでしょう。
<略年表>
天正13年(1585) 八幡山城の普請が始まり、同年中に完成。羽柴秀次が43万石で入る。
天正18年(1590) 秀次の清州移封に伴ない、京極高次が2万8千石で八幡山城へ入る。
文禄4年(1595) 豊臣秀次事件が起こり、城が破却される。
昭和36年(1961) 秀次の菩提寺である瑞龍寺が、本丸跡へ移される。
昭和37年(1962) 八幡山ロープウェーが開通し、同年から運行を開始する
昭和42年(1967) 本丸直下からの地滑りにより、居館跡の半分が埋没する。
平成12年(2000) 本格的な発掘調査が始まる。
平成18年(2006) 続日本100名城に選出される。
【主な参考文献】
中井均「近江の山城ベスト50を歩く」(サンライズ出版 2006年)
中井均「秀吉と家臣団の城」(KADOKAWA 2021年)
仁木宏・福島克彦「近畿の名城を歩く 滋賀・京都・奈良編」(吉川弘文館 2015年)
滋賀県安土城郭調査研究所「戦国から近世の城下町 ―石寺・安土・八幡―」(サンライズ出版 2006年)
滋賀県教育委員会「八幡山城跡 天下を継ぐ城」(2011年)
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