歌舞伎町シネシティ広場(旧・噴水池広場) 噴水池ダイヴは青春の通過儀礼だった!?

 新宿コマ劇場の解体工事は、東日本大震災の前日に始まったという。幾度かニュースや記事で見て知っていたのだが。未曾有の大災害に遭遇して混乱した日々がつづき、そのことをすっかり忘れてしまい、気がついた時には〝ゴジラビル〟と呼ばれる TOHO シネマズに建て替わっていた。

 新宿コマ劇場はかつて、歌舞伎町の真ん中に鎮座するランドマークだった。歌舞伎町で酒飲み映画観たりした20代の頃の記憶には、北島三郎ショーとかの横断幕や提灯の下がる劇場エントランスをよく目にしていた。その記憶がいまも目に焼きついている。
 いまさらながら気になって色々調べてみると、コマ劇場が取り壊されただけではない。周辺の様子もかなり様変わりしているようだ。近年は歌舞伎町からすっかり足が遠のいてしまっていたが、久しぶりに行ってその現状を見てみようと思う。

 靖国通りの横断歩道前、信号待ちの外国人旅行者たちが、その先に見える TOHO シネマズのゴジラにスマホのカメラを向けていた。いまや世界的に有名なフォトジェニックなのだとか。信号を渡ってセントラルロードに入る。コマ劇場が健在だった頃、道沿いには「劇場通り」と書かれた看板が掲げてあった。いまはそれが「GODZILLA LOAD」になっている。

 セントラルロードを真っ直ぐ進みTOHOシネマズの前を左に曲がるとまもなく、歌舞伎町の中心に位置するシネシティ広場が見えてくる。かつてはこの広場も「コマ劇場前広場」という名称だった。しかし、それよりも「噴水広場」と呼ぶ人のほうが多かったように思う。
 広場の中心に噴水池があって「●●時に歌舞伎町の噴水のとこで」と、携帯電話もスマホない昔は、待ち合わせ場所にこの名をよく耳にしたものだ。だから、私的にも噴水広場のほうしっくりとくるのだけど……しかし、肝心の噴水池がもうなくなっている。

 噴水池は昭和58年(1983)に水が抜かれて、翌年には花壇に改装されていたという。驚いた。こちらはもうずいぶん昔に消滅していたのだな。当時は関心が薄くて気がついていなかった。記憶が曖昧で、最後に噴水池を見たのがいつなのかさえも覚えていない。
 平成10年(1998)には、噴水池の名残だった花壇も撤去されたという。その頃はもう歌舞伎町には行かなくなっていたから、まったく知らなかった。

 現在、噴水池の跡地は、何もないタイルを敷き詰めただけの広場になっている。噴水池もコマ劇場とならんでかつての歌舞伎町を象徴する存在だった。しかし、こちらはコマ劇場解体の時のようにニュースや記事にはならず、誰も気がつかないうちに消滅してしまっている。
 私を含めて若い頃にはよく目にした馴染みの眺めだったはず。それだけではない、戦後史の重要な舞台なのだけど……。

噴水池へのダイブが「夜の早慶戦」の恒例行事に

 70〜80年代、歌舞伎町の噴水広場は「夜の早慶戦」の主戦場となり、当時の新聞や雑誌にもその記事がよく載っていたという。
 六大学野球の早慶戦がおこなわれた夜には、早稲田大学と慶應大学の学生たちが夜の繁華街で大騒ぎするのが恒例となり、それが「夜の早慶戦」と呼ばれるようになった。その歴史は古く 1920 年代頃に遡る。銀座の路上で学生たちが乱闘騒ぎを繰り広げたことに始まり、1930 年代に舞台は新宿に移った。
 戦前の繁華街は新宿駅付近にしかなく、学生たちは駅東口の武蔵野館(映画館)前に集まり騒いでいたという。この頃の歌舞伎町はまだ蟹川沿いの寂しい低湿地、田圃や草原が広がり夜は漆黒の闇につつまれていた。

 戦後の復興事業で、その湿地帯に歌舞伎演舞場を中心とした興業街の建設計画が立ちあがり、歌舞伎町の名称もこの時につけられたもの。昭和 30 年代に入った頃にはコマ劇場を中心に繁華街が形成され、映画館や居酒屋に都内の大学生が集まるようになった。
 そして、夜の早慶戦の戦場も歌舞伎町に移るのだが、早稲田大学の学生たちには新宿が自分たちの縄張りといった意識が強い。縄張りを死守すべく戦いは過激化してゆく。早慶戦だけじゃなく早明戦や早法戦など、その日の神宮での対戦カードがそのまま夜の歌舞伎町に持ち越され、激しいバトルが展開されるようになった。

 70年代末頃からは、噴水池に飛び込むのが、夜の早慶戦の恒例行事になっていた。阪神タイガースファンによる道頓堀ダイブのルーツも、ここにありか?
 また、昭和 50 年(1975)に放送開始され、当時の若者たちが夢中になって観ていたテレビドラマ『俺たちの旅』のオープニングでも、主役の中村雅俊たちが歌舞伎町の噴水池に入るシーンがあった。早慶戦に関係なく、ドラマを真似て噴水池に入り込む者が増えた。苦情も多く寄せられるようになり「水がなくなれば飛び込むヤツもいなくなるだろう」と、水を抜いて花壇にしてしまったようだ。

閉鎖前の広場は、トー横キッズの溜まり場だった

 噴水広場を囲むビルの2階には、広い窓の喫茶店があったことを記憶している。夜の早慶戦を観るにもここが特等席か? しかし、いまはその店もなくなり、広場を囲む建物やそこに入るテナントは様変わりしている。昔からあるのは広場北側のビルに入っているコパボウルとサウナくらいだろうか。
 広場西側の「ミラノ座」や「ミラノボウル」の入っていた東急文会会館も、いまは 48 階建ての東急歌舞伎町タワーに建て替わった。そのエントランスはイベントスペースとして使われ、アイドルグループのライヴが定期的に開催されている。道を挟んだシネシティ広場にはファンが集まり一緒に踊っていた。夜の早慶戦が繰り広げられた広場は、アイドルのライヴ会場になっていた。

 しかし……なんかヘンだぞ。

 ライヴ会場として開放されているのは広場の西側半分だけ。東側の TOHO シネマズ付近は柵で厳重に囲って、誰も入れなくしてある。無人の広場のなかに、ぽつんと放置された「歌舞伎町建設記念」の石球モニュメントが、なんかとってもシュールな雰囲気を醸している。

 「この場所は(シネシティ広場)は公道です」という新宿警察の警告看板が、柵の前に掲げられていた。公道ゆえに交通の妨害となる座り込みや寝そべり等の行為は許されない。それを防ぐため柵を設置したもので、これも数年前からおこなっていた措置だという。

 2010年代末頃から TOHO シネマズ東側の歩道沿いに若者たちが集まり「トー横キッズ」と呼ばれるようになる。家出中の未成年少女も多く、それを狙って援交に誘う者やキャバクラなどのスカウトも現れるようになった。
 やがて警察や補導員が頻繁に巡回するようになり、トゲ状のシートを設置して植え込みに座れないようにする措置もおこなわれた。

 それで居心地悪くなったトー横キッズたちは、西側のシネシティ広場のほうに移動した。若者たちが広場で飲み会や喫煙をする光景が目につくようになる。区や警察に多くの苦情が寄せられ、広場を封鎖する強行措置がおこなったというわけなのだが……なんだか、臭いモノにはフタしておけばいいって感じ。考えてみれば、噴水池の水を抜いて花壇にした時もそうだった。
 やっぱ、歴史は繰り返すものなのだなぁ。

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  この記事を書いた人
青山誠 さん
歴史、紀行、人物伝などが得意分野なフリーライター。著書に『首都圏「街」格差』 (中経文庫)、『浪花千栄子』(角川文庫)、 『江戸三〇〇藩城下町をゆく』(双葉社)、『戦術の日本史』(宝島文庫)、『戦艦大和の収支決算報告』(彩図社)などがある。ウェブサイト『さんたつ』で「街の歌が聴こえる』、雑誌『Shi ...

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