鎌倉幕府滅亡…『太平記』が描く、ひどく不愉快な裏切り3選
- 2026/01/08
『太平記』にはさまざまな裏切り者が登場します。戦乱が長く続いた南北朝の抗争では敵味方が激しく入れ替わり、裏切り者のオンパレードですが、鎌倉幕府滅亡の悲劇にも不愉快極まる裏切りエピソードが伴っています。質実剛健のイメージがある鎌倉武士にも、忠義心が吹っ飛んでしまい、武士らしからぬ行動をとる者も数々登場します。
【目次】
〈その一〉北条時行の兄を敵に売り渡した叔父「五大院宗繁」
鎌倉幕府の裏切り者と言えば、何といっても五大院宗繁(ごだいいん・むねしげ)です。『太平記』には「五大院右衛門宗繁」として登場。北条氏主流「得宗(とくそう)」の直臣「御内人」であり、さらには北条高時の側室・新殿(にいどの)の兄です。新殿は高時の長男・北条邦時を産み、邦時は中先代の乱を起こす北条時行の異母兄。得宗・高時からすれば、宗繁は身近な存在であり、最も信頼できる家臣の一人でした。
北条高時に嫡男保護を任される
危機を迎えた鎌倉で、北条高時は五大院宗繁に長男・邦時を託します。高時:「邦時をなんじに預け置くぞ。何としても隠しておき、時が来たら、われらの恨みを晴らせ」
宗繁:「承知しました」
邦時はこの時9歳。主君の跡継ぎであり、自身の甥でもある邦時を保護する役目を託された宗繁は、北条一族が壮絶な全滅を迎える中、身を隠します。3~4日が経ち、北条氏の縁者が次々と捕らえられ、鎌倉を攻めた新田勢に協力した者は北条氏旧領を得ている状況を見て、宗繁に良からぬ心が芽生えます。
宗繁:「いやいや、命運尽きた邦時を養い、運良くつなぎとめた命を落とすのもバカらしい。それよりも新田勢に密告して二心がないことを示せば所領も安堵されるだろう」
新田義貞の非情な判断
元弘3年(1333)5月27日、五大院宗繁は北条邦時に、夜陰に紛れて伊豆山神社(静岡県熱海市)へ逃げるよう進言します。新田義貞の重臣・船田義昌が近辺を捜索する情報があるというのです。宗繁:「お供したいのですが、そろって逃げると、(捜索する)船田入道(船田義昌)に怪しまれます。あえて、お供をしない方がよいと思います」
邦時は従者だけを連れて鎌倉を脱出。ここで宗繁は悪賢く考えます。自分で邦時を討って敵に差し出したら、裏切り者と非難されるだろうと、まずは船田義昌のもとへ駆けつけて密告しました。
5月28日明け方、待ち伏せに同行した宗繁は、相模川を渡ろうとする少年を見つけ、「あれこそ、まさに邦時です」。船田義昌の家来に捕縛され、鎌倉に連れ戻された邦時は翌日斬られました。
宗繁は計算通り、船田義昌に手柄を立てさせ、恩を売ったつもりでしたが、新田義貞の判断は非情でした。裏切り者を認めず、「この者も斬るべし」。これを伝え聞いた宗繁は隠れますが、旧知の者の多い鎌倉でも宗繁を助ける者はいません。皆、宗繁の行為を嫌悪したのです。みすぼらしい姿におちぶれた宗繁は、ついに路上で飢え死にしました。
〈その二〉名馬でいざ一騎駆け…からの敵前降伏「島津四郎」
新田義貞の軍勢が攻め込んできた元弘3年(1333)5月21日の鎌倉合戦でも、なかなかの人物が出てきます。島津四郎は北条高時の直臣で、すごい怪力。能力も風采も優れた武士です。敵の侵入経路である鎌倉七口の防戦には出陣せず、最終決戦まで温存されました。最終兵器といった扱いです。敵が鎌倉中心部の若宮小路に攻め入ったと聞き、高時は島津四郎を屋敷に呼び寄せます。いよいよ出番到来です。
華やかな出陣もいきなり下馬
島津四郎は北条高時の盃を受け、坂東一の名馬を与えられます。同僚たちもうらやむ華やかな出陣で由比ヶ浜の戦場に向かいます。その姿は威圧感もあり、堂々としたもの。新田勢の剛勇の若武者が「これは良い敵だ」と、われ先に一騎打ちを仕掛けようと馬を進めます。敵味方、固唾を飲んで見守る中、敵の間近に迫ったところで島津四郎は馬からを降りて、兜を脱ぎます。何と、敵に降伏。そして北条勢の将兵に降伏する者が続出します。
島津四郎の武勇と、北条高時との主従関係を強調した場面は、オチへの壮大な前振り。『平家物語』のような名場面を期待した敵味方、そして読者をも振り回す『太平記』らしい漫画的な滑稽さです。
多々良浜合戦では足利勢に
鎌倉武士で島津氏といえば、源頼朝から島津荘を与えられた島津忠久を初代とした一族。島津荘は日向、薩摩、大隅の3カ国にまたがる広大な荘園で、後も名門武家として発展します。ただ、島津四郎は内管領・長崎円喜を烏帽子(えぼし)親としており、薩摩の有力御家人・島津氏との関係は定かではありません。また、『太平記』の中には、曾我奥太郎時久がこの役割を担う写本もあります。そして、多々良浜合戦で足利尊氏に従う兵の中に、島津四郎も曾我奥太郎も名を連ねています。北条氏側近から新田勢に降参し、その後、足利勢の配下に移ったとすれば、常に勝ち馬を見抜く、時代感覚に優れた武士だったということになります。周囲からどのように見られていたかは、また別の問題ですが……。
〈その三〉主君の遺言に背いて蓄財たくらみ惨死「狩野重光」
『太平記』では、鎌倉合戦が佳境に入った元弘3年(1333)5月21日、北条一門の壮絶な自害の描写が続きます。その中に「塩田陸奥入道道祐」こと塩田国時がいます。塩田氏は極楽寺流北条氏の支流。この塩田国時の自害の場面に登場するのが、長年の家臣である狩野五郎重光(工藤茂光)です。遺体から武具、名刀奪う
敵が間近に迫る中、塩田国時の子息である民部大輔こと俊時が父の自害を促すため、まず自ら腹をかっ切って壮絶な自害。わが子の遺体に涙しながら、塩田国時は臨終の法華経を唱え、主君と共に自害しようと集まってきた家臣200人に「経を読む間、防ぎ矢を射よ」と命じます。三方に散って懸命に防戦をする家臣の中で一人だけ、塩田国時のそばに残されたのが狩野重光です。国時:「わしが自害したら屋敷に火をかけ、首を敵に渡すな」
狩野重光は門前に出て、周囲を見渡し、塩田国時に報告。
重光:「防ぎ矢を射た者たちは皆、討たれ、敵の声は間近に聞こえます。早く、ご覚悟をお決めください。重光もすぐに冥途へのお供をいたします」
塩田国時は左手に経文を握り、右手で刀を抜いて切腹。ところが、狩野重光は屋敷に火をかけず、自害もせず、主君・塩田父子2人の鎧、太刀などをはぎ取り、上等な衣類なども下人に持たせて逃げ出します。
重光:「これだけの財宝があれば、一生不自由しない」
しばらく、円覚寺の僧房に隠れていましたが、あえなく新田勢の船田義昌に生け捕りにされ、ついに首をはねられました。『太平記』はこれを天罰としています。
悪行にふさわしい末路
塩田氏は信濃・塩田荘(長野県上田市)を拠点した一族。得宗からみれば、支流の支流ですが、北条一門の中では家格も高く、その長年の家臣・狩野氏は北条氏あっての存在です。それが、主君なき後の振る舞いはあまりにせこく、その悪行にふさわしい末路を迎えてしまいました。とはいえ、人物名を含め、『太平記』の逸話が真実かどうかは別問題。鎌倉幕府滅亡の混乱の中、数々あった裏切り行為が登場人物に象徴されているのではないでしょうか。
〈番外編〉結局は「足利尊氏」 北条縁戚ながら計画的行動
『太平記』では、北条氏の直臣の武士たちの裏切りが強調されていますが、そもそも鎌倉幕府の滅亡は多くの有力御家人が幕府を裏切った結果であり、こちらの方が招いた結果は重大です。特に、御家人の中でも源氏の有力一族で、北条氏との縁戚関係も深かった足利尊氏(この時は高氏)の裏切りこそが北条氏の時代を終わらせたと言えます。
鎌倉出陣、妻子は人質
足利尊氏がいつ倒幕を決意し、どのような戦略を持っていたかは議論のあるところですが、『太平記』では、元弘3年(1333)3月、鎌倉出陣時には既に幕府への反逆を決意しています。軍事行動にも関わらず妻子を同行しようとして、当然ですが、長崎円喜に怪しまれます。妻子は人質として鎌倉に残すことになり、誓紙も要求された尊氏。弟・直義に相談すると、「大事の前の小事」といい、北条高時の要求に応じて偽りの誓紙を出して鎌倉を出発。鎌倉攻撃は新田義貞に任せ、足利勢は反幕府勢力と連携して京の六波羅探題を攻略しました。
北条氏と足利氏の関係
足利氏は鎌倉幕府初期から執権・北条氏との結びつきは強く、正室を北条氏から迎え、その正室の子が出生順に関わらず、嫡子として跡を継いできました。足利氏2代目・足利義兼は北条政子の妹・時子を正室とし、時子が産んだ義氏が三男ながら義兼の跡継ぎとなり、義氏も3代執権・北条泰時の娘を正室とするなど足利氏と北条氏は何代にもわたって婚姻関係を築いています。
足利尊氏自身も北条一門で最後の執権・赤橋守時の妹・登子を正室に向かえています。その尊氏が京で反旗を翻して六波羅探題を攻め滅ぼし、鎌倉幕府滅亡の中心人物となります。人質となっていた正室・登子、その子・千寿王(義詮)は無事、鎌倉を脱出。一方、尊氏の長男・竹若丸は北条氏の刺客によって殺害されました。尊氏も犠牲を払った行動だったのです。
おわりに
主従関係でいえば、裏切りは絶対悪ですが、生き残りに真剣だったという観点からは真っ当と言えば真っ当です。滅亡する鎌倉幕府と運命を共にする「滅びの美学」を選ぶのか、それとも家系を守るのか、それなりの武家であれば、大いに迷うところです。ただ、批判がつきまとうリスクがあります。『太平記』のこうした記述は、実在の人物なのか、実話なのか怪しい部分も多いのですが、裏切り武士の醜態を強調し、鎌倉幕府の滅亡と鎌倉武士の忠義の崩壊を重ねて転換期の情勢を象徴しているのです。そのエピソードは脈絡なく、また、かなり誇張されて記述されているわけですが、こうした後味の悪さ、胃もたれするようなくどくどしさも『太平記』の特徴であり、醍醐味です。
【参考文献】
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この記事を書いた人
1965年生まれ。新聞社勤務を経て、ライターとして活動。「藤原秀郷 小説・平将門を討った最初の武士」(小学館スクウェア)、「小山殿の三兄弟 源平合戦、鎌倉政争を生き抜いた坂東武士」(ブイツーソリューション)などを出版。「栃木の武将『藤原秀郷』をヒーローにする会」のサイト「坂東武士図鑑」でコラムを連載 ...






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