「喧嘩するなら命を捨てよ!」武田信玄が定めた戦慄の ”喧嘩両成敗” 事例
- 2025/11/07
いきなりですが、喧嘩はいけません。どんな事情があろうとも、どっちが先に手を出そうとも、ダメなものはダメなのです。
この考えを法として定めた「喧嘩両成敗(けんかりょうせいばい)」は、戦国時代に広く知られるようになりましたが、その起源はさらに遡ります。室町時代の応永年間(1394~1428年)には、喧嘩をした者を双方とも罰する事例が確認されており、戦国大名たちはこの考え方を自らの所領を統治する分国法(ぶんこくほう)に積極的に採り入れました。
甲斐の虎と恐れられた武田信玄もまたその一人。分国法「甲州法度之次第(こうしゅうはっとのしだい)」に喧嘩両成敗が明確に規定されています。果たしてどのように運用され、どのような戦慄の事例があったのでしょうか。
今回は武田家中における厳しい喧嘩両成敗の実態を紹介してまいります。
この考えを法として定めた「喧嘩両成敗(けんかりょうせいばい)」は、戦国時代に広く知られるようになりましたが、その起源はさらに遡ります。室町時代の応永年間(1394~1428年)には、喧嘩をした者を双方とも罰する事例が確認されており、戦国大名たちはこの考え方を自らの所領を統治する分国法(ぶんこくほう)に積極的に採り入れました。
甲斐の虎と恐れられた武田信玄もまたその一人。分国法「甲州法度之次第(こうしゅうはっとのしだい)」に喧嘩両成敗が明確に規定されています。果たしてどのように運用され、どのような戦慄の事例があったのでしょうか。
今回は武田家中における厳しい喧嘩両成敗の実態を紹介してまいります。
喧嘩両成敗の条文と武士の覚悟
まずは「甲州法度之次第」における喧嘩両成敗の条文を確認しましょう。一、喧嘩の事是非に及ばず。成敗を加ふべし。但し取り懸ると雖も、堪忍せしむるの輩に於ては、罪科に処すべからず。
※「甲州法度之次第」
【意訳】喧嘩を行った者については、一切の理由を問わず処刑せよ。ただし挑発を受けても我慢した者については例外とし、罪に問うてはならない。
「ゴチャゴチャ抜かすな、喧嘩した者は斬り殺せ」――このシンプルかつ非情な規定に、戦国の論理が凝縮されています。現代的な感覚では冤罪などが気になるところですが、たとえば戦場で喧嘩が起きたらどうでしょうか。
戦場という極限状況を考えれば、双方の事情を聞いている暇などありません。「なまじ敵よりもタチが悪いので斬ってしまえ」――実際に喧嘩のふりをして内部霍乱を謀った事例もあったものと考えられます。
真に御家を思うのであれば、つまらぬ私闘はしないはず。この規定は、私的な感情よりも家中の秩序と結束を最優先させるという、信玄の強い意図に基づいて定められたのでしょう。
「刀を抜かぬ」行為への断罪:喧嘩両成敗の事例1
それでは、武田家中における喧嘩両成敗の実例を紹介したいと思います。一 武田信玄の家中の士、口論を仕出し、對手を取つて伏せ、散々打擲し、踏み附けしを、傍輩駈け附け、引き分けたり。家老共僉議にて、「踏まれたる士仕置仰せ付けらるべき」由申し上ぐる。信玄聞し召し、「勝負は末なり。武道を忘れ刀束を用ひざる事、冥加に盡きたる者共なり。以来家中の見懲の為、両人共に磔に懸くべし。」と申し付けられ、引き分けたる傍輩共追放なり。
※『葉隠聞書』第十巻
【意訳】武田家中で家臣同士が口論の末に喧嘩となった。一方が相手をねじ伏せて散々に殴る蹴るしていたところを、他の者たちが駆けつけて引き離した。この件について家老たちが検討した結果「負けた者を処罰するべき」と信玄に言上した。すると信玄は「勝敗などは関係ない。武士でありながら刀を用いなかったことは、本分を忘れた不覚悟と言う他にない。今後の見せしめとして、喧嘩した両名は磔(はりつけ)にかけよ」と命じた。また喧嘩を引き離した者たちについても、領国より追放したという。
喧嘩両成敗だから、喧嘩した両名について磔刑とするのは規定通りですが、喧嘩を止めた者たちまで追放されたのは、なぜでしょうか。
信玄が両名を磔とした理由は、「武道を忘れ」「冥加に尽きた」(=死んだも同然の不覚悟)と判断したからです。武士が刀を用いず素手の殴り合いに終始したことは、武士としての本分を捨てた行為と見なされました。
武とは「戈(ほこ)を止(とど)める」と言う字の如く「無益な争いを抑止するための力」と言えます。しかしひとたび争いとなれば、それは相手を屠り去るまで戦わねばなりません。だから武士たる者、喧嘩をするなら刀を抜かねばならず、刀を抜いたら相手を殺して自分も処刑される覚悟が必要なのです。
死の覚悟もなく争いを起こし、周囲が止めてくれるのを待つような者は「冥加に尽きる」つまり死んだも同じと言えます。だから喧嘩の当事者はもちろん、喧嘩の場に居合わせてしまったら、瞬時に死の覚悟を決めて不届き者を斬り殺して秩序を守ることが求められました。
ついカッとなって……では済まされない世界が、戦国乱世にはあったのです。
「脇差心」の欠如が招いた悲劇:喧嘩両成敗の事例2
もう一例、追放に終わった事例を紹介します。時は天文16年(1547)、武田家中に関東牢人の赤口関左門(あこうぜき さもん)と上方牢人の寺川四郎左衛門(てらかわ しろうざゑもん)という者が仕えておりました。両名は共に新参衆であり、日ごろから仲良くしていたものの、ある時に些細な口論から取っ組み合いの喧嘩に発展してしまいます。
はじめは寺川が赤口関を取り押さえましたが、赤口関の繰り出した反撃によって逆転勝利。この喧嘩はたちまち武田家中の噂となりました。両名は取り調べの末、信玄によって「両名とも耳と鼻を削ぎ、追放せよ」と判決が下されます。
武士の喧嘩は百姓や子供とは異なり、ひとたび事を起こした以上、相手を斬らねばなりません。斬るまでもない状況で武力の行使に及ぶのは、武士として不覚悟と言うべき失態です。
寺川が赤口関を取り押さえながら、これを斬らなかったのは、周囲に止めてもらおうと思ったのでしょう。一方、赤口関が反撃に転じながら、寺川に斬りかからなかったのは、やはり周囲が止めてくれると期待していたに違いありません。
武士として脇差を帯びていながら、いざ喧嘩に及んでそれを抜かないのは、武士としての覚悟すなわち「脇差心」に欠けていると判断されました。このような不覚悟な者は武田家中の恥であるとして追放が命じられます。
かくして両名は追放され、雁坂峠(甲斐国と武蔵国の国境)を越えた辺りで斬られてしまいました。おそらく「禍根を残したまま生かしては後日の災い」とばかり、現場判断で斬られたものと考えられます。もし耳と鼻を削がれた後だとしたら、泣きっ面に蜂ですね。
終わりに
今回は武田信玄「甲州法度之次第」より、戦慄の喧嘩両成敗の事例を紹介しました。「喧嘩をするなら命を捨てよ、命を捨てるまでもないと言うなら喧嘩をするな」
こうした独自の価値観、死の覚悟の強要によって、武田家中の厳しい秩序は維持されていたのです。
他国の分国法における喧嘩両成敗や、「甲州法度之次第」の他の条文にも興味が尽きません。機会を改めて紹介したいと思います。
【参考文献】
- 菅野覚明『武士道の逆襲』(講談社、2004年)
- 佐伯真一『戦場の精神史 武士道という幻影』(NHK出版、2004年)
- 和辻哲郎ら校訂『葉隠 下』(岩波文庫、2011年)
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