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「明応の政変(1493年)」細川政元が将軍・足利義稙を廃して義澄を擁立。戦国時代の始まり?

東滋実
 2020/07/30

細川政元の肖像画(龍安寺 蔵)
細川政元の肖像画(龍安寺 蔵)

8代将軍・足利義政の後継者問題(弟の義視VS嫡男の義尚)と、畠山氏と斯波氏の家督争い、細川勝元と山名宗全の争いが絡み合い、11年にわたって続いた応仁の乱は、一応の終結を迎えたものの、その後も影響は続いていました。

細川政元が将軍・足利義稙を将軍の座から引きずりおろした明応の政変。その背景には、少なからず応仁の乱の影響があったのです。一言でいってしまえば政元のクーデターは見事成功したわけですが、結果を見るとなかなか喜べない、もともと混乱していたものを余計に複雑にしただけの出来事であったといってもいいのかもしれません。

本記事では、応仁の乱以後からこの政変に至るまでの一連の流れをみていきます。

将軍の後継者問題でひと悶着

まずは応仁の乱後の幕府周辺の人間関係から見ていきましょう。

義尚の後継は誰に?

足利義政の後に将軍となっていた嫡男・義尚(よしひさ)は、応仁の乱のために失墜してしまった将軍の権威を取り戻すべく、まずは近江の六角高頼の討伐から始めます。

六角氏は応仁の乱の混乱をきっかけに勢力を拡大しようと、寺社や、義尚の近臣らの所領を横領していました。近臣たちの訴えを聞いた義尚は出陣を決定し、細川政元と協議の上で近江に入りました。

近江出陣時の足利義尚(地蔵院 蔵)
近江出陣時の9代将軍 足利義尚(地蔵院 蔵)

しかし、さっさと六角氏を討伐して幕府の力を取り戻すつもりが、ゲリラ戦によりなかなか決着はつきませんでした。そうこうしている間に義尚はだんだん飽きてきたのか、軍事に関わらなくなり、酒におぼれて長享3(1489)年3月26日に陣中で没してしまいました。享年は25歳。

このとき義尚には跡継ぎとなる男子がなく、これが新たな争いの火種になるのでした。

10代将軍・足利義稙(義材)

空いた将軍の席に座ったのは、かつて敵として争った叔父の子・義材(よしき/のちの義尹・義稙。※便宜上、以降の表記は「義稙」で統一)でした。

義稙は義政の弟・義視の子で、そして日野富子の妹の子でもあります。つまり、父方・母方両方の従兄弟です。血筋が近かったことが推挙された大きな理由のひとつでした。伯母である富子と、畠山政長によって強く推された義稙は、延徳2(1490)年に将軍に就任しました。

応仁の乱では原因を作った悪女のように語られる富子ですが、近年は否定されています。義視を廃して何がなんでも義尚を将軍に、という考えがあったわけではないと見られているので、応仁の乱の後、このようにもともと対立していたはずの義尚を推挙したことは、矛盾してはいません。

この義尚の後継者をめぐって、義稙ではなく別の人物を推していたのが細川政元です。政元は、足利義教の子で堀越公方の足利政知の子・天龍寺香厳院の清晃(のちの義澄。※以降の表記は「義澄」で統一)を推していました。

政元の意に反する結果となりましたが、とりあえずは政元に政務を任せるという約束で納得したようです。

富子は小川御所を清晃に譲渡

義稙を推して甥と結びつきを強めたかに見えた富子でしたが、権力の均衡を保つためか、自身が義尚と暮らした小川御所を義澄に譲りました。しかし、この行動が裏目に出ます。

この件を知った義視は、富子が義澄を次期将軍に立てるつもりだと思い、現将軍である義稙を軽視している、と怒って小川御所を壊してしまったのです。

義稙を推したことでいい関係を構築するどころか、義視を怒らせ、また義視の死後も義稙とのぎこちない微妙な関係が続くのでした。

着々と根回しを進めていた政元

さて、義稙の将軍就任をしぶしぶ認めた政元でしたが、水面下では義稙をさっさと引きずりおろすための計画を進めていました。

義澄の従兄弟にあたる澄之を養子にする

その手始めが、延徳3(1491)年、自身が次期将軍に推す義澄の従兄弟にあたる子を猶子としたことです。

のちの澄之であるこの子は、九条政基の末子。母は武者小路隆光の娘です。同じく義澄の母も武者小路隆光の娘。政元は義澄との結びつきを強めるため、血縁関係にある九条政基の末子を迎えたものと思われます。

この子は、細川京兆家の世継ぎとなる子が代々名乗った「聡明丸」と名付けられ、実子がいない政元の跡継ぎとして育てられることになるのですが、この子の存在が新たな争いのきっかけになるというのはまた別の話(永正の錯乱)です。

義澄の父とも連携しようとする

また、政元は義澄の父・政知に近づくべく、東国巡礼と称して越後から奥州へ、そして政知のいる伊豆を経由して帰る予定を立てました。

しかしこの計画は、道中で義稙に六角氏討伐のため帰還を求められたこと、政知が重病にかかり亡くなったことなどにより、実現せずに終わりました。

畠山基家と連携

続いて、政元は内乱が続く畠山氏の、畠山基家との関係を深めます。政元はもともと義稙にべったりの畠山政長と敵対する立場であったため、その政長の仇敵であった畠山義就の子・基家に近づいたのです。

敵の敵は味方。政元は延徳3(1491)年の時点で細川内衆のひとりの娘を養女として基家に嫁がせ、その後も会合を重ねて連携を強めました。

そのほか、政元は将軍家の政所執事を代々務める伊勢貞宗や、富子、さらには複数の大名を味方に引き入れ、着実に仲間を増やしていきます。

政元はなぜ義稙が気に入らない?

このように義稙を排除する計画を進める政元ですが、政変を起こしてやろうと思うに至った最大の理由は何なのでしょうか。

政元自身が朝廷に報告した内容によれば、義稙は政元に政務を任せると約束したにもかかわらず、彼の意見を聞き入れることなく六角氏討伐や畠山氏の統一に踏み切ったことが理由だったようです。

足利義稙の肖像画(東京国立博物館 蔵)
足利義稙の肖像画(東京国立博物館 蔵)

将軍に就任した義稙は、先代の義尚の遺志を継いで、延徳3(1491)年に六角氏討伐を進めます。

義尚のときはひとりだけ事前に出陣日を相談されるなど、第一次六角征伐では主力として戦った政元でしたが、義稙による第二次六角征伐は当時国一揆も注視しなければならない状況であったことから、反対の立場をとっていました。

結局政元自身は出陣せず、名代として家臣の安富元家を出しています。このころから政元や富子らと義稙の関係はさらに悪くなりました。

また、このころ応仁の乱の余波で内乱を引きずっていたのが畠山氏です。義稙は畠山政長の求めに応じて、畠山基家(義豊)の討伐を決定します。長らく続いた畠山氏の内乱をおさめ、統一させようと考えたのです。

これがまた政元には迷惑な決断でした。畠山氏は、同じ三管領家で、いわばライバル関係です。

今はお家のゴタゴタでもめていますが、それくらいが政元にとっては都合がいいのです。それを政長に泣きつかれた義稙が鎮めてやろうとし、あろうことか政元と対立する政長を畠山氏のトップに据えてやろうとしているのです。

冗談じゃない。政元が基家と連携したのは、こういう背景もあったのでした。

政元によるクーデター

とうとう堪忍袋の緒が切れたのか。その心中はわかりませんが、義稙が基家討伐のため河内に出陣した明応2(1493)年、将軍が不在のこのタイミングで、政元は迅速に動きました。

3月20日、政元は大和の越智氏や古市氏にクーデター決行を知らせ、翌月の4月22日に義澄を遊初軒という寺に移すと、その翌日、京都にある義稙側の邸宅を襲撃しました。畠山政長の子、義稙の弟妹、義稙の側近らの屋敷や居所を次々と破壊したのです。

政元によって京が制圧されたという知らせが河内の幕府軍にもたらされると、動揺した諸将は軍から離脱して帰京。将軍の奉公衆でさえ軍を離れる始末。さらには、政元が義稙・政長討伐の兵を挙げると、離脱した諸将はこちらに転じて討伐に加わったといいます。

何度か戦闘を繰り広げるも、正覚寺で孤立した政長は自害し、義稙は捕らえられて京都の竜安寺に幽閉されることになりました。

義稙は、降伏した際に足利家伝来の小袖・銘を義澄に渡しました。これは義稙が義澄に家督を譲渡したことを示しています。

政元側についた日野富子

義稙の将軍擁立を支持した富子でしたが、政元のクーデターに賛同し、手を貸しています。すでに義稙との関係は悪化していましたし、義尚と同様に諸大名を巻き込んでの出兵を続ける義稙のやり方に不安を抱いていたとも考えられます。

おかげで政元のクーデターが無事成功したといえるかもしれません。

将軍家は二分され、混乱は深まる

その後、富子の命令で幽閉された義稙に毒が盛られるという事件があり、義稙は上原元秀の屋敷に移されました。この後は側近の手を借りて逃亡。越中に身を寄せ、打倒政元を掲げて反撃に出ます。

追っ手を送った政元は北陸の大名たちを味方につけた義稙に一度敗れています。その後義稙は越前や近江を転々とし、のちに周防の大内義興を頼り、ここで8年の時を過ごすことになります。

一方の政元は、義澄を元服させ、将軍に立てました。ところで義澄将軍宣下をめぐっては、朝廷ともひと悶着あって時期が延び、明応3(1494)年12月27日にようやく任ぜられました。

時の天皇・後土御門天皇は、自身が任命した将軍を勝手に廃されたことに激怒し、譲位しようとしていたのです。天皇になかなか認められずに時期が延びてしまったのでした。

足利義澄の像(等持院霊光殿安置)
足利義澄の像(等持院霊光殿安置)

政元政権が樹立

こうして義澄を将軍にした政元は、京兆専制の体制を築きます。もともと管領は三管領家がもちまわりで務めるものでしたが、以後は細川家が独占することになります。

将軍となった義澄は当初、政元の目論見通り傀儡とされました。しかし、成長するにしたがって自分で政治を取り仕切ろうと考えるようになります。結局政元はまた将軍との関係にジリジリすることになるのです。

明応の政変は、義稙を逃してしまったことで将軍家を二分する事態になり、これは15代の義昭が将軍に立つまで続きました。

応仁の乱で乱れた幕府にまた余計な混乱を招き、「上司の首を部下が挿げ替える」という室町幕府始まって以来初のことを成し遂げた政元は、もともと落ちていた幕府の権威をさらに落としたのでした。

戦国時代は応仁の乱をきっかけに始まったとよくいわれますが、明応の政変を戦国時代の始まりとする説もあります。

さて、このクーデターで政権を半分握ったといっていい政元でしたが、このあと細川京兆家内部で勃発した問題により、死に追いやられることになります。


【参考文献】
  • 日本史史料研究会監修・平野明夫偏『室町幕府将軍・管領列伝』(星海社、2018年)
  • 丸山裕之『図説 室町幕府』(戎光祥出版、2018年)
  • 福島克彦『戦争の日本史11 畿内・近国の戦国合戦』(吉川弘文館、2009年)

  この記事を書いた人
東滋実 さん
大学院で日本古典文学を専門に研究した経歴をもつ、中国地方出身のフリーライター ...


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