上杉謙信ゆかりの地おすすめ17選
- 2022/07/11
「上杉謙信」と聞くと皆さんはどんな印象をお持ちでしょうか。
織田信長・豊臣秀吉・徳川家康といった天下人ほどはメジャーではなく、歴史にあまり興味がないと知らないなんて言う方もいるかもしれません。おそらく何をしたかは知らないけれど名前くらいは聞いたことがある、程度の方が一番多いのではないでしょうか。
妻夫木聡さんが上杉家の家臣、直江兼続を演じて話題となった2009年の大河ドラマ「天地人」で知った方も多いかと思います。
実はこの上杉謙信というお方、知れば知るほど面白く、不思議な魅力を放つ戦国武将としては異色の存在だったりします。
トップに立ちたい、大名になりたい、というような欲や野心がなく、ひたすら義のために戦う人だったりします。
人が困っていたり助けを請われると断れずに出陣し人のために戦うことが多く、自己犠牲の精神を持つ人だったようです。
そのくせ戦はめっぽう強く、ほぼ負け知らずで頭脳も明晰で判断力もズバ抜けているカリスマだったので「軍神」などとも呼ばれていました。自らを戦いの神様である毘沙門天の生まれ変わりなどと言っていたそうです。
そんな素晴らしいリーダーなのに家臣が自分の言うことを聞かず仲間同士で争いなんかしていると嫌気がさしたのかサッサと大名を自ら辞めてしまい、皆であわてて謝って思いとどまってもらったなんていうエピ ソードも残されています。さらには実は女性だったのでは?などという説が飛び出すなど、謎の多いミステリアスな面を持つ魅力たっぷりの戦国武将なのです。
そんな上杉謙信の生涯や生き様を紹介しつつ、数多く残る史跡を「歴史探訪」として戦国時代に思いを馳せながらご案内していこうと思います。
川中島古戦場
上杉謙信の居城と言えば、現在の新潟県上越市に今も史跡が多く残る春日山城跡です。本来はここから紹介するのが順序的に良いのですが、少し後回しにさせて頂き、謙信を語るに欠かせない「川中島古戦場」を真っ先に見て欲しいとの想いから、まずは八幡原史跡公園から紹介させて頂きます。
歴史好きな方なら「上杉謙信」と言えば、まるで夫婦のようにセットで名前が挙がってくるのが「武田信玄」ではないでしょうか。「川中島の合戦」は特に有名で戦国最強と謳われる事の多いこの両雄が、雌雄を決するべく幾度も対峙した場所が川中島でした。
越後の上杉謙信と甲斐の武田信玄が有する土地の真ん中である信濃北部の支配権をめぐっての戦いなのですが、両雄の戦う理由はまさに正反対だったりします。
野心に燃え自身の勢力拡大のために領土を広げる武田信玄と、そんな信玄に攻め込まれ困っている人から助けを求められて立ち上がる正義の味方、上杉謙信。
現在の長野県長野市にある川中島付近で5度も合戦が行なわれました。中でも全軍の8割が死傷するという大激戦だった4度目の合戦が特に有名です。その舞台が八幡原であり、今は八幡原史跡公園となっています。「川中島古戦場」として散策する事ができ、広大な緑地が広がって池などもあり、のどかな憩いの場という雰囲気です。
ここで多くの死傷者を出した大合戦があったとは到底思えない静けさなのですが、土塁や堀の跡が今も生々しく残されているので、
目を閉じて当時に思いを馳せれば足軽たちの怒号や刀や弓の音、馬のいななきや勝どきの声などが聞こえてくるかもしれません。
そしてなんと言ってもこの公園の目玉であり、息を呑むような感覚に襲われるのが上杉謙信と武田信玄が一騎打ちをしたときの銅像でしょう。テレビや映画などメディアでこの2人の戦いが取り上げられる度に、必ずと言って良いほど描かれるのが両雄の一騎打ちではないでしょうか。
信玄の本陣にただ一騎で攻め込み馬上から刀で襲い掛かる謙信と、それを座ったまま軍配で防ぐ信玄。この名シーンがそのまま銅像になっているのです。
「武田・上杉両雄 一騎打ちの地 八幡原」という石碑が立ち、銅像の近くには「三太刀七太刀之跡之碑」との石碑もありました。
これは、謙信は3度斬りつけたが、それを防いだ信玄の軍配には7つの傷ができていたことから三太刀七太刀之跡と呼ばれるようになったそうです。その他にも園内には信玄が陣を構え御加護を仰いだ八幡社や、首塚や慰霊碑、執念の石などがあり見どころ満載と言って良いでしょう。
長野市立博物館
川中島古戦場に行かれたら同じ園内にある「長野市立博物館」にもお立ち寄りください。
川中島合戦のあらすじを紹介したビデオや当時の文書や後世の甲陽軍鑑なども展示されているので理解が深まります。
両雄が信仰していた善光寺や、江戸幕府のもとで長野で10万石を治めた真田氏の松代藩の記述などもあり、歴史好きとしてはなかなかに楽しめる内容です。
その他、長野盆地の自然や風土、民俗などをテーマにした常設展や時期ごとに替わる特別展もあり、プラネタリウムも人気を集めているようです。
「武田上杉武将列伝」など大河ドラマに関連した特別企画展が行われることが多いのでチェックしてみましょう。
- 所在地
- 長野県長野市小島田町1384-1(※博物館は小島田町1414)
- アクセス
- 車の場合、上信越自動車道 長野ICから3分。
電車の場合、JR・長野電鉄 長野駅 または長野電鉄 松代駅からアルピコ交通バス 30系統「川中島古戦場」バス停下車。
海津城(現・松代城)・妻女山
次に紹介するのは川中島古戦場から少しだけ南に位置する「海津城」と「妻女山」(さいじょさん)です。
川中島とは切っても切れない城と山です。「海津城」ですが、現在は真田時代より「松代城」と名を変えています。
永禄4年(1561年)の大激戦となった4度目の川中島合戦では、武田軍が「啄木鳥(キツツキ)戦法」という作戦を実行しました。ドラマなどで描かれる時にもよく出てくるこのキツツキ戦法が、海津城と妻女山を舞台に繰り広げられたというわけです。
ここで死闘となった激戦を解説しながら紹介してみたいと思います。
海津城は武田信玄が川中島方面への守りとして山本勘助や馬場信春らに築城させたと言われる、さほど大きくはない要害のような城です。信玄は4度目の川中島合戦に備えて海津城を築き、重臣の高坂弾正(高坂昌信)を城代として入れ置き、2千の兵を駐屯させました。
上杉謙信は1万3千の兵を率いて越後から北国街道を南下し、まず善光寺に布陣します。そして合戦が始まると上杉勢はいっせいに犀川を渡り八幡原を南下してきます。
海津城の守りを固めていた高坂弾正はすぐに狼煙を上げて甲府の躑躅 ケ崎館(つつじがさきやかた)にいる武田信玄に急を告げます。
10町ごとに狼煙台が立ち海津城から甲府まで直線距離にして100キロの距離をわずか2時間半で急を知らせたと言うから驚きです。
高坂弾正は信玄の本陣が川中島に到着するまで海津城を死守する覚悟を固めますが、上杉勢は海津城には目もくれず城から西へ2キロの妻女山に布陣。妻女山に布陣し武田軍を見下ろす上杉軍と、海津城内の展望台から妻女山を睨みつける武田軍との対峙が始まりました。
「少数が守る小さな城をなぜ早く攻め落とさないのか」と側近が謙信に進言すると、謙信は「わずかな人数を攻めるのは卑怯、臆病の戦よ」と言ったと伝えられています。海津城の危機を知り、1万6千の兵を率いて駆けつけた武田信玄は、上杉軍と千曲川を挟んだ対岸に布陣し、双方にらみ合いが続きます。
いつまでも上杉軍が仕掛けてこないので武田軍は千曲川を渡り、海津城に入城しました。武田軍の行軍中も上杉軍は静観していたそうです。信玄は兵力で勝っていることを利用して、川中島の決戦場である八幡原へ直行する本隊と、妻女山から上杉軍を決戦場へおびき出すための別動隊との2隊に分けました。
世にいう「啄木鳥戦法」とはこの武田別働隊の行動であり、啄木鳥が木をつついて中の虫を驚かせ穴から出てきたところを食べるという習性から名付けられた戦法とのことです。
上杉軍を刺激するために別働隊を出し、後ろからつつく事で浮き足立った上杉軍を武田本陣と挟み撃ちにして一気に蹴散らしてしまおうという作戦です。啄木鳥戦法を生み出したのは、信玄の軍師として有名な「山本勘助」とされていますが、真相は定かではありません。
ところが海津城から啄木鳥の役目を果たそうと別働隊が出発し、妻女山に到着してみると上杉の陣はもぬけの殻で誰もいませんでした。海津城からあがった狼煙で武田軍の動きを察知した上杉軍はすでに闇夜と霧にまぎれ物音を立てないようにこっそりと八幡原へ移動した後だったのです。
慌てた武田の別働隊は即座に上杉軍の後を追いますが、時すでに遅く、八幡原に立ちこめていた霧が晴れた瞬間、
信玄の目の前に出現したのは布陣をすでに終えて臨戦態勢をとっていた上杉軍だったのです。
一気に攻めかかる上杉軍と別働隊が到着するまでなんとか持ちこたえなくてはと必死の武田軍の大激戦がこのようにして始まりました。必死で守る武田軍に次から次へと襲いかかる上杉軍。かなりの乱戦に信玄の弟である武田信繁など、名のある多くの侍大将が戦死しています。
ようやく武田の陽動隊が到着すると、数で勝る武田軍が何とか挽回して形勢逆転。その後、これ以上の戦いは無益と判断した謙信が撤退前に信玄のいる本陣へ単騎で乗り込んで一騎打ちをした、という伝説の逸話へとつながるのです──。
今は松代城と名を変えた海津城へ行くと、ついつい妻女山はどの山だろうと周囲の小高い山々を見渡してしまいます。
そして妻女山に登り小さな海津城を見下ろすと人の動きなどが手に取るように見えることが分かります。
両雄のどちら側から見るかにもよりますが、そんな歴史を知った上で当時に想いを馳せながら川中島を歩き、
海津城や 妻女山を見上げてみると、全く違った風景に出会うことが出来ます。
- 所在地
- 長野県長野市松代町松代44(※妻女山は松代町岩野)
- アクセス
- 車の場合、上信越自動車道・長野ICから5分。
電車の場合、JR長野新幹線・長野駅から川中島バス「松代行き」で30分、「松代」バス停下車、徒歩5分
善光寺
次はその川中島から少し北に位置する「善光寺」を紹介しましょう。
長野に行くのならぜひ参拝して頂きたい日本有数の名所であり、7年に1度の御開帳時には数多くの参拝客で大いに賑わいます。
上杉謙信のゆかりの地でもあり、先にお伝えした川中島合戦でも幾度も謙信は善光寺に陣を張っています。
そもそも上杉謙信の「謙信」や武田信玄の「信玄」は法号であり、僧になってからの名です。謙信の本名は上杉輝虎であり、信玄は武田晴信であります。生前に法号を名乗るほど、2人とも信仰心が厚いことがうかがえます。
善光寺への信仰は両名とも特に厚かったようで、川中島合戦は実は善光寺の奪い合いだった、なんていう説も囁かれるほどです。
そんな観光名所である善光寺と両雄の関わりを第二次川中島合戦から紹介したいと思います。
合戦の発端は信濃国善光寺の国衆が武田方に寝返り、長野盆地の南半分が武田の勢力となり善光寺より北の上杉方の諸豪族らへの圧力が高まった事とされています。信玄と謙信は善光寺奪回のため長野盆地北部に出陣。終始にらみ合いとなった第二次合戦は決着せず今川義元の仲介により和睦となります。
信玄と和睦した謙信は、善光寺の大御堂本尊の善光寺如来や寺宝を越後へ持ち帰り、直江津に如来堂を建立し安置してしまいます。
一方、これに負けじと信玄は、その後に葛山城を陥落させると、善光寺本尊の阿弥陀如来像や寺宝を甲府に持ち帰って仮堂に収め、甲斐にも善光寺を建立し安置しました。秘仏とされる善光寺如来が甲斐に到着すると、甲斐の領民は非常に喜んだと記録に残っているそうです。
今は善光寺に戻されていますが、謙信も信玄もそれほど夢中になった善光寺というお寺には何か不思議なパワーが秘められているのかもしれません。善光寺にお参りするときはそんな謙信と信玄の気持ちを思い浮かべながら手を合わせてみるのも一興かもしれません。
- 所在地
- 長野県長野市元善町491
- アクセス
- 車の場合、上信越自動車道・長野ICから5分。
電車の場合、JR長野駅から善光寺口バス「善光寺方面行き」で15分、「善光寺大門」バス停下車、徒歩5分
春日山城
さて、それでは上杉謙信の居城である「春日山城」へ向かいましょう。国の指定史跡であり、日本100名城にも数えられています。
もし車で周られる方はぜひ武田信玄の居城、躑躅ヶ崎館から川中島へ向かい、そこから善光寺に立ち寄ってから春日山城へ行ってみて下さい。武田軍の進軍経路が体感出来るだけでなく距離感や地形なども目に 見えて分かります。信玄や謙信の気持ちになっての史跡めぐりは貴重な経験となることでしょう。
春日山城は戦国最強とうたわれる名将・謙信の居城として知られ、彼の生誕地でもあります。謙信は越後守護代であった長尾為景の末子として春日山城で誕生。幼名を虎千代と名乗りました。
元服してからは武田信玄や北条氏康、織田信長といった戦国時代の名将と戦を重ねましたが、そのほとんどが義を重んじ出兵したものだったと言われています。
謙信の旗印「毘」の文字は自らを生まれ変わりと信じ厚く信仰していた「毘沙門天」からとったもの。その戦ぶりから越後の龍とも呼ばれました。そんな謙信が本拠地とした春日山城は変化に富んだ地形を上手に利用した難攻不落の城 として威風堂々たる堅城だったそうです。
謙信の誕生から最期までも看取った春日山城は、後を継いだ上杉景勝が会津に移封されると静かにその役目を終えます。
現在は城郭はなく春日山に空堀や土塁、石垣や大井戸など山城 の特徴と言える遺構が残されているのみ。
春日山城跡の中腹には遠くを睨むかのような凛々しい上杉謙信公の銅像が立っていますので必見です。
その他にも本丸跡や上杉景勝屋敷跡、直江兼続屋敷跡、毘沙門堂跡など石碑があちこちに建っているので散策するのが楽しい史跡だったりします。
- 所在地
- 新潟県上越市大字中屋敷ほか
- アクセス
- 車の場合、北陸自動車道「上越IC」から車で15分。または上信越自動車道「上越高田IC」から車で15分。
電車の場合、トキ鉄妙高はねうまライン「春日山駅」から徒歩で30分。
春日山神社
続いて「春日山神社」に足を運びましょう。春日山城跡とほぼ同じ場所にあり、上杉謙信を主祭神としている神社で山形県米沢市の上杉神社より分霊された謙信公が祀られています。
明治になってから創建され、戦では負け知らずであった謙信公にあやかり勝運を授けてくれる勝利祈願の神社としても有名だそうです。この神社は上越のおもてなし武将隊が演舞を披露してくれることでも有名だそうです。演 舞日程は武将隊の公式ホームページに掲載されているとのこと。
直線的でがっしりとした重みのある神明造の社殿は厳かで見応えがあり、境内に隣接する春日山神社記念館には謙信の遺品・資料などが展示されており必見です。毘沙門天からとった「毘」と書かれた有名な軍旗を間近に見たときはその迫力に圧倒されました。
- 所在地
- 新潟県上越市大豆1743
- アクセス
- 車の場合、北陸自動車道「上越IC」から車で15分。または上信越自動車道「上越高田IC」から車で15分。
電車の場合、トキ鉄妙高はねうまライン「春日山駅」から徒歩で40分。
林泉寺
続いて春日山のすぐ近くにある上杉謙信の墓所、「林泉寺」に向かいましょう。謙信を語るにはまずここ林泉寺を参拝し、ここに眠る謙信公に手を合わせて感謝の気持ちを伝えてからにしましょう。
謙信は虎千代と名乗った幼少時代に林泉寺に預けられ、和尚の元で厳しい教育を受けたと伝わります。
林泉寺での修業は謙信の人格形成にも大きく影響したと言われ、義を重んじる精神や明晰な頭脳や判断力はここで養われたのかもしれません。
元服して長尾景虎と名乗り、のちに上杉氏を継承して上杉政虎を名乗り、最終的に上杉輝虎と名乗ったとき、林泉寺は上杉氏の菩提寺となりました。輝虎は七世住職益翁宗謙のもとで修行し、剃髪した時に師から一字を譲り受け不識庵謙信と号するようになり「上杉謙信」が誕生したとされています。
林泉寺の山門には写しではありますが、謙信公直筆と言われる「春日山」と「第一義」の文字が力強く書かれた額が掲げてあるので思わず見入ってしまいました。境内にある宝物館に行くとその額の本物を間近で見る事ができます。
他にも謙信が存命中に描かれたものとして唯一現存する肖像画など、ゆかりの品々が数多く展示されて いますので必見です。墓所には謙信の墓があり、川中島戦合戦の戦死者の供養塔もありました。
- 所在地
- 新潟県上越市中門前1-1-1
- アクセス
- 車の場合、北陸自動車道「上越IC」から車で15分。または上信越自動車道「上越高田IC」から車で15分。
電車の場合、トキ鉄妙高はねうまライン「春日山駅」から徒歩で30分。
栃尾城
次は謙信が初陣を飾り、青春時代を過ごした栃尾城をご紹介します。
春日山城で誕生し、幼少期を林泉寺で過ごした上杉謙信は、14歳にして城主として栃尾城へ入ります。
その後、19歳で守護代となり春日山城の城主となり21歳で越後守護(国主)となるのですが、最も多感な時期を栃尾城で過ごすことになります。栃尾城は城郭全体が鶴が翼を広げた様な三日月形をしており鶴翼の陣と同じ形状になっていることから「鶴翼城」とも呼ばれる要害城です。景虎を名乗っていた14歳の謙信が城主として栃尾城に入ると前城主の本庄実乃が補佐役として若き謙信を支え続けました。
幼少期の謙信の器量を見抜いて早 くから栃尾城に迎え側近となり軍学の師匠としても多くの影響を与え、謙信の成長に大きく貢献した重要な武将です。この栃尾城で軍学や政治などを学び、後に越後の龍と呼ばれ全国に名を轟かせることになる上杉謙信になっていったのでしょう。
今は城郭はなく、山城として石垣など城跡が残されているのみですが、長岡市栃尾の大野地区にある熊野神社付近に城主館跡があり周辺は家臣団の居住区でした。
周辺には謙信によって創建された常安寺があり、近くにある秋葉公園内の秋葉神社境内には上杉謙信の座像を見る事ができます。
秋葉神社から高台へ移動すると栃尾美術館があり、そこには謙信の凛々しい騎馬像もありますので必見です。栃尾美術館付近からの栃尾城の眺めは絶品です。美術 館の奥には大正時代になってから建てられたという「謙信公廟」があり、隣には謙信の幼少期からの教育係であり謙信が師と仰いだ門祭和尚の墓もあります。
青春時代に初陣を飾り、そこからはまさに戦いにつぐ戦いの連続であった上杉謙信の生涯。
武田信玄との「川中島の戦い」は有名ですがその他にも各地で合戦に明け暮れていた記録が数多く残されています。
織田信長らとの越中や越前の争奪戦だけでなく、北条氏康らと関東でも戦うなど日本各地で転戦を繰り返していたことがうかがえます。
謙信の関東侵攻は実に13回を数え、うち8回は戦地で年を越すという忙しさだったようです。
各地で転戦した合戦の全てを紹介すると膨大な数になってしまいますので、ほんの一部だけ簡単に紹介させて頂きます。
- 所在地
- 新潟県長岡市栃尾町
- アクセス
- 車の場合、関越自動車道「長岡IC」から40分。
電車の場合、JR信越本線「長岡駅」から「栃尾車庫」行きバスで50分、「中央公園前」バス停で下車、徒歩20分。
小田原城
まずは北条氏康と幾度も対決した「小田原城」です。
永禄2年(1559年)の上洛の際、将軍足利義輝に謁見し管領職同等の権限を受けた謙信は、幕府に敵対するものは逆賊であるとの考えを強め、関東管領を追いやった北条氏を見逃してはおけませんでした。
越後から関東へと進出し、関東管領の上杉憲政を助けて北条の支城をいくつも陥落させながら、難攻不落とうたわれた小田原城にまで攻め寄せて取り囲みました。しかし、要塞のような小田原城は軍神・上杉謙信の知略をもってしても落城させることは出来ませんでした。
- 所在地
- 神奈川県小田原市城内6-1
- アクセス
- 車の場合、小田原厚木道路「荻窪IC」から約10分、または西湘バイパス「小田原IC」から約5分、または東名高速道路「大井松田IC」から約40分。
電車の場合、「小田原駅」から徒歩10分
鶴岡八幡宮
謙信は小田原城攻略をあきらめ包囲を解くと、そのまま鎌倉へ向かい、鶴岡八幡宮において関東管領職並びに山内上杉家の家督を相続しました。
その時は長尾景虎と名乗っていましたが、上杉性と養 父となった上杉憲政から一字をいただき上杉政虎と名を改めました。
鎌倉の鶴岡八幡宮は謙信が上杉と名乗るようになった記念すべき場所でもあるのです。
ちなみに謙信の関東進出の際に攻城した城は、ザッと調べただけで、古河御所、小川城、名胡桃城、明間城、沼田城、岩下城、白井城、那波城、厩橋城、深谷城、忍城、羽生城、武蔵松山城、唐沢山城、箕輪城、館林城、騎西城、小山城、結城城、臼井城、和田城、小田城など膨大な数になります。北条方ではありませんが宇都宮城や富山城などでも有名な合戦が行われていましたので興味のある方は行ってみて下さい。
- 所在地
- 神奈川県鎌倉市雪ノ下2-1-31
- アクセス
- 車の場合、横浜横須賀道路「朝比奈IC」から5km
電車の場合、JR「鎌倉駅」東口より徒歩10分、または江ノ電「鎌倉駅」より徒歩10分
富山城
晩年の謙信が苦心したのが越中、越前の平定でした。富山城もそのひとつで何度も裏切りに合いその度に出兵しては攻略していました。
椎名氏を支援する謙信の攻撃により神保長職は富山城を追われ富山城はその後、上杉と一向一揆の争奪の的となったりします。
神保家の神保長住が織田信長の後ろ盾を得て富山城に入城した後に佐々成政が入城するなど織田家と富山城の争奪戦を繰り広げることになります。
- 所在地
- 富山県富山市本丸1-62
- アクセス
- 車の場合、北陸自動車道「富山IC」から約15分
電車の場合、JR「富山駅」から徒歩約10分
七尾城
こうして武田信玄や北条氏康といった強敵に織田信長が加わり、織田軍と加賀や越中での戦いが始まり七尾城の戦いが勃発します。
能登に進軍した謙信を迎え撃とうと七尾城を守る長続連は織田信長に援軍を要請するも謙信の調略により間もなく落城。
援軍要請を受けていた信長は七尾城を救援する軍勢の派遣を決定し、謙信との戦いに踏み切ります。
- 所在地
- 石川県七尾市古屋敷町
- アクセス
- 車の場合、能登道路「柳田IC」から。
電車の場合、JR「七尾駅」から循環バス「まりん号」で13分で「城史資料館前」下車。そこから本丸までは登山で1時間程度。
手取川古戦場
柴田勝家を総大将とする羽柴秀吉、滝川一益、丹羽長秀、前田利家、佐々成政ら3万の大軍を出兵させます。
越前北ノ庄城に結集した後、七尾城へ向けて越前から加賀へ入って一向一揆勢と交戦しつつ進軍しました。
しかし途中で秀吉が総大将の勝家と意見が合わずに自軍を引き上げてしまうなど足並みの乱れが生じていました。
勝家率いる織田軍は手取川を渡り水島に陣を張ったが、既に七尾城が陥落していることすら知らなかったようです。
織田軍が手取川を越えて加賀へ侵入したことを知ると、謙信はこれを迎え撃つため数万の大軍を率いて一気に南下。
加賀へ入って河北郡・石川郡をたちまちのうちに制圧し松任城にまで進出した時にようやく織田軍は七尾城が落城し たことを知ります。
織田軍の目の前に上杉の大軍が着陣しているとの急報も入り、形勢不利を悟った勝家は撤退を開始しますが、
謙信率いる上杉軍本隊8千は運悪く増水した手取川を渡るのに手間取っている織田軍を追撃して撃破しました。
この一連の合戦が七尾城の戦いと手取川の戦いとして有名です。七尾城と手取川古戦場は併せて訪れてみましょう。
謙信はこの戦が終わると春日山城に帰還し、翌年に次なる遠征に向けての大動員令を発しました。
天正6年(1578年)の3月9日、遠征を開始する直前に春日山城内の厠で倒れ、4日後の3月13日の午後2時頃に永眠したと言われています。享年49でした。
倒れてからの昏睡状態により、死因は脳溢血と見られています。
- 所在地
- 石川県白山市湊町
- アクセス
- 車の場合、「美川IC」から10分。金沢駅からは40分。
電車の場合、JR「小舞子駅」より徒歩で約10分
上杉家廟所
謙信の死後、その亡き骸は甲冑を着せて太刀を帯びさせて甕(かめ)に納められ、その甕に漆を流し込んで固められたといいます。
その後、この甕は上杉家が豊臣政権下、徳川の世で移封となったときに、越後から会津、続いて米沢へと移動しています。米沢では上杉景勝が米沢城の本丸に御堂を建立。謙信の霊柩をそこに安置したといい、景勝の死後も米沢藩主十二代に渡って埋葬されました。
そして明治維新ののち、明治政府の「廃城令」に伴って米沢城が解体されると、明治9年(1876年)に歴代藩主が眠る御廟へと移されました。それが「上杉家廟所(うえすぎけびょうしょ)」です。
この地は「米沢藩主上杉家墓所」の名称で国の史跡に指定されており、所在は「山形県米沢市御廟1丁目5-30」です。ちなみに上杉景勝から7代藩主・上杉宗房までが入母屋造り、8代藩主上杉重定から11代藩主上杉斉定までが宝形造りというように、時代によって建て方が異なるようです。
樹齢400年を越す老杉に囲まれ厳粛な空気に満たされている墓所は、国の重要史跡に指定されており、ここで手を合わせると背筋が伸びる想いがします。
- 所在地
- 山形県米沢市御廟1-5-30
- アクセス
- 車の場合、東北自動車道「福島飯坂IC」より約50分。
電車の場合、「米沢駅」から循環バスで15分、「御廟所西口」バス停下車、徒歩5分。
上杉神社
謙信公の遺骸が墓所に移されるまでは米沢城の本丸に安置されていたのですが、現在は米沢城跡というより「上杉神社」として知られています。
伊達政宗の誕生地としても知られ、上杉謙信はもちろん大河ドラマ「天地人」で注目を集めた直江兼続と上杉景勝、「なせば成る」の句で有名な上杉鷹山のゆかりの地でもあります。米沢城は室町時代から伊達氏が支配し、秀吉により蒲生氏郷が一時支配し、家康が世を治めると移封された上杉氏が廃藩とな るまで支配しました。
上杉神社の鳥居には上杉謙信の軍機である「毘」と「龍」の文字が風にはためいており、入口に立つだけで感慨深いものがあります。鳥居をくぐるとすぐ謙信公の銅像が迎えてくれます。上杉神社は紆余曲折あり、上杉謙信のみを祀る神社となったそうです。
大河ドラマ「天地人」放映後に上杉景勝と直江兼続の銅像も仲良く並んで建てられたようです。
稽照殿(けいしょうでん)
上杉神社の敷地内にある博物館「稽照殿」にはぜひとも足を運んで頂きたいです。上杉謙信といえば白い頭巾を被っている姿を思い浮かべますが、その「頭巾」が展示されているのです。
その他にも謙信や景勝が所用していたと伝えられる甲冑、日輪をかたどった金箔押しの表面に「毘沙門天王」など の文字を彫り込んだ景勝所用と伝えられる甲冑から、直江兼続の「愛」の兜や実際に着ていたと伝わる着物など当時の物がそのまま数多く展示されており圧倒されました。その数は重要文化財132点、県文化財8点を含む1000点以上にのぼり東北一の規模を誇ると言います。これは必見ですよ。
- 所在地
- 山形県米沢市丸の内1-4-13
- アクセス
- 車の場合、東北中央自動車道「米沢北IC」より約15分。または東北中央自動車道「米沢八幡原IC」から約10分。
電車の場合、JR「米沢駅」から各種バスで約10分、「上杉神社前」バス停下車。
米沢市上杉博物館
上杉神社まで行ったのなら、同じ場所にある「米沢市上杉博物館」にも行っておきましょう。
ここには数千にも及ぶ、上杉氏ゆかりの貴重な品々や国宝が収蔵されています。上杉謙信にはじまる上杉家の事をより知る事ができます。
織田信長が上杉謙信を恐れて贈ったという有名な「洛中洛外図屏風」もあり、戦国当時の様子を屏風の絵や解説映像からも知る事ができます。上杉家にまつわる古文書なども多く展示されていて、米沢の上杉家に 伝わった歴史や文化の数々に触れる事が できます。
謙信の生涯や上杉家のその後、米沢に移封されてからの生活などもよく分かり、とても見応えのある展示でした。
- 所在地
- 山形県米沢市丸の内1-2-1
- アクセス
- 車の場合、東北中央自動車道「米沢北IC」より約15分。または東北中央自動車道「米沢八幡原IC」から約10分。
電車の場合、JR「米沢駅」から各種バスで約10分、「上杉神社前」バス停下車。
御館跡
上杉謙信の死後、養子とした景勝と景虎のどちらを後継にするかを決めていなかったために上杉家の家督の後継をめぐって「御館の乱」が勃発します。勝利した景勝が謙信の後継者として上杉家の当主となり、米沢藩の初代藩主となるのですが血で血を洗う内乱によって上杉家の 勢力は大きく衰えることとなります。
養子とはいえ我が子二人が後継者争いをする骨肉の戦いを謙信はあの世からどんな気持ちで見ていたのでしょうか。
今は上越市の一般的な公園(御館公園)となっており、簡単な碑や説明版が立つだけの御館跡で遊ぶ子供を見ながらそんなことを考えてしまいました。
- 所在地
- 新潟県上越市五智 1丁目23−11
- アクセス
- 車の場合、北陸自動車道「上越IC」より10分。
電車の場合、トキ鉄・妙高はねうまライン「直江津駅」より徒歩10分。
牛つなぎ石
最後に上杉謙信という人を最もよく表現していると思われるエピソードを少し紹介させて頂きます。
ことわざ「敵に塩を送る」の語源は?
「敵に塩を送る」という言葉は日本人であれば誰もが知っていると思います。敵が苦しんでいる時にその苦境を救うといった意味です。しかし、この言葉の元になった逸話が上杉謙信と武田信玄だったと知る人は少ないかもしれません。
永禄10年(1567年)、武田信玄は長年に及ぶ今川氏との同盟を破棄し、東海方面への進出を企てます。領内に攻め入られた今川氏真は、北条氏康の協力を仰いで武田への「塩留め」を行ないました。このとき、武田領は甲斐・信濃にあり海に面していないため塩を取ることが出来ず、領民は塩のない食生活に苦しんだと言います。
この領民の苦しみを見過ごすことが出来なかったのが、信玄の敵である上杉謙信でした。
謙信と信玄はこれまで幾度も川中島などで合戦を繰り返し敵対してきましたが「義」を重んじる謙信は、そんな武田家の領民の苦しみでさえも見過ごすことが出来ませんでした。
「われ信玄と戦うも、それは弓矢であり塩にあらず」と言い放ち、越後から信濃へ塩を送ることを決意。足元を見て高値で売らないように注意までしたと言います。
謙信が塩を積んだ牛車を信濃の信玄のもとへ送った時 にその牛をつないだと言われる「牛つなぎ石」が長野県の松本駅の近くにあります。
- 所在地
- 長野県松本市中央2丁目3
- アクセス
- 車の場合、長野自動車道「松本IC」より約10分。
電車の場合、JR「松本駅」より徒歩7分。
おわりに
そんな逸話もあってか武田信玄が死ぬ間際に、謙信は信用できる男だから何かあったら上杉謙信を頼るように息子に遺言を残したと言われています。
謙信より先に死を迎えた信玄の訃報を聞いた謙信は、「信玄ほどの英雄は世に二人といない。私は生涯のライバルを失ってしまった。無念でならない。」と涙を流してその死を嘆いたといい、そして3日間、家臣たちに歌や舞などの娯楽を禁止したとも伝わっています。
何年にも渡り戦ってきた敵のはずが、いつしか好敵手として友情のようなものが芽生えていたのかもしれません。何だかんだ言ってもお互いに尊敬していたのかもしれません。
最後のエピソー ドを知った上で最初に紹介した川中島の古戦場に行くと、また違った表情で戦う両雄の姿が見えてくるかもしれません。ぜひ戦国時代に思いを馳せながら歴史探訪を楽しんで下さい。
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