「御館の乱(1578~79年)」謙信の後継者争いにして、越後を二分した大規模内乱!
- 2022/04/13
天正6年(1578)3月13日、越後の龍とも呼ばれる上杉謙信が49歳で急死しました。数日前に春日山城の厠で倒れ、そのまま意識が戻らなかったことから脳溢血の可能性も指摘されています。
越後にとって巨大な求心力を失ったことも痛手でしたが、この時点では謙信の跡継ぎがはっきりとは決まっていませんでした。そして勃発したのが後継者争いです。同年から翌年にかけての「御館の乱(おたてのらん)」がそうで、上杉景虎と上杉景勝の両派による熾烈な戦いが繰り広げられました。
「御館」とは、上杉憲政を越後に招くときに春日山城下に築かれた関東管領館のことで、謙信も政務を行う施設として利用した象徴的な建物です。今回はそんな御館の乱について、後継者候補だった景虎と景勝のプロフィールにも焦点を当てつつ、見てみることにしましょう。
越後にとって巨大な求心力を失ったことも痛手でしたが、この時点では謙信の跡継ぎがはっきりとは決まっていませんでした。そして勃発したのが後継者争いです。同年から翌年にかけての「御館の乱(おたてのらん)」がそうで、上杉景虎と上杉景勝の両派による熾烈な戦いが繰り広げられました。
「御館」とは、上杉憲政を越後に招くときに春日山城下に築かれた関東管領館のことで、謙信も政務を行う施設として利用した象徴的な建物です。今回はそんな御館の乱について、後継者候補だった景虎と景勝のプロフィールにも焦点を当てつつ、見てみることにしましょう。
上杉謙信は時代とともに様々に名を変えていますが、本コラムでは混乱を避けるため「謙信」で統一します。
謙信急逝による、二人の後継者争い
御館の乱の概要は冒頭で述べた通り、謙信の急逝を受けて明確な後継者が指名されていなかったことに発すると考えられています。しかしその詳細は不明であり、謙信が景虎・景勝のいずれかを自身の後釜として想定していた説、あるいは両人を役割分担させて実質的に二頭体制で越後経営にあたらせるつもりだったという説などがあります。謙信には実子がいなかったため景虎も景勝も養子にあたり、そのどちらもが上杉の後継者として相応しいと思える資質とポジションを有していました。
以下に景虎と景勝、二人の後継者のプロフィールをおさらいしておきましょう。
上杉景虎について
上杉景虎の出自は越後ではありません。実は長らく謙信の宿敵であった小田原の後北条氏、「北条氏康」の七男なのです。景虎は幼名を「三郎」といい、幼少期は僧として過ごしていたといいます。後北条氏は武田氏・今川氏と同盟を結んでいましたが、やがてその均衡は決壊、永禄12年(1569)に武田氏の駿河侵攻を契機として条約を破棄。代わりに長年敵対してきた越後の上杉氏といわゆる「越相同盟」を締結することになりました。
同盟にあたり、後北条氏からは人質として「北条氏政」の次男「国増丸」を差し出すよう求められましたが、これを拒否。その代替として白羽の矢が立ったのが三郎でした。
永禄13年(1570)4月、上野国の沼田で謙信に謁見した三郎は越後へと入国。同月に謙信の姪との祝言をあげ、上杉の一門となりました。
ちなみにこの姫は景勝の姉にあたり、景虎と景勝は養子の兄弟であるとともに直接の姻戚関係ともなっていたのです。三郎は謙信の最初の名乗りでもある「景虎」の名を与えられ、春日山城三の丸の屋敷に居住したといいます。
越相同盟は翌年には破棄されることになりますが、景虎はそのまま越後に留まります。養子で、しかもかつての仇敵一族の子弟でありながら、景虎は非常に優遇されたことがわかっています。まずもって、謙信がかつて名乗った「景虎」の字を許されたこと、謙信の名代として各寺社への新年祝賀礼状を出していること、軍役免除の特権を付与されていた可能性があること等々、多くの面で特別な扱いとなっていました。
このようなことから、景虎こそが謙信の後継者として想定されていたと考える人も多いようです。
上杉景勝について
一方の景勝は、上田長尾家の出身で謙信の実の甥にあたります。母が謙信の実姉である「仙洞院」で、その祖母は「上条上杉弾正正弼」の娘でした。また、父方の曾祖母も上条上杉家の出身であり、景勝は血統的に本来の上杉家の血筋を引いていたといえるでしょう。永禄7年(1564)に父が死亡し、春日山城に入って謙信の養子となりました。
景勝は上杉軍内でも重要な作戦行動をこなし、やがて天正3年(1575)にはそれまでの「長尾顕景」から「上杉景勝」へと名を変えました。それと同時に謙信の私称官職名であった「弾正少弼」を譲られ、一門衆筆頭としての存在感を高めていきます。
同年の上杉軍内の軍役帳によると、375名の軍役を負担していたといいます。謙信の直接の血縁であること、そして家中での高いポジションなどから、景勝の後継者としての正当性もまたうなずけるものがあります。
御館の乱の勃発
春日山城内乱闘と、景勝の政権掌握
実は謙信の死の直後から、景虎と景勝の間にはすでに小規模な紛争が発生していたことがわかっています。一説には謙信死去の翌日には、景虎派の「柿崎晴家」が暗殺されたともいわれていますが、これは詳細不明となっています。詳しい日時は記録されていませんが、先手を打って行動したのは景勝の方だったようです。いち早く春日山城の本丸に入り、金蔵や武器庫を掌握。基本的な政庁機能を統制下におき、天正6年(1578)3月24日の書状で内外に自身が謙信の後継者となったことを宣言しました。同時に三の丸に屋敷を構えていた景虎を攻撃、春日山城内での同門同士の戦闘を経て景勝が強硬的に当主の座に着いたことがうかがえます。
景勝は謙信の印判や祐筆等、公文書発行に関する機構も掌握しており、5月下旬の時点ではすでに謙信の時代と同様式の印判状を発給。謙信時代晩期の奏者連著者たちも引き続き景勝の書状に連著を実施しており、このことも景勝の正当後継を印象付ける作用を発揮しました。
しかしながら、合議すら経ずにいきなりの戦闘で統治権争いの火ぶたが切られた印象もあり、景虎と景勝の間には潜在的に後継者争いの火種がくすぶっていた可能性も否定できません。
内外勢力の景勝への不信
一方的ともいえる腕力で謙信の後継者宣言を行った景勝でしたが、謙信死去の噂に内外の勢力が敏感に反応します。領外からはけん制的な侵攻を受け、領内でも三条城主の「神余親綱」が事の真偽の調査に乗り出したところ、景勝はこれを抑圧します。前関東管領の「上杉憲政」が仲裁に動きますが、謙信のかつての主家ともいえる憲政に景勝は強硬な態度を貫き、仲裁に応じませんでした。
これらのことから景勝は越後国衆の不興を買い、一度容認の動きに傾いた謙信の後継としての立場が揺らぐことになっていきます。その代わりに景虎を謙信の後継者として擁立する動きができたという捉え方もあり、自然に形成された両派閥間での争いが御館の乱の本質であるという見解もあります。
実際に、4月30日付の下野国人からの書状には景虎の家督継承を祝賀する内容が記されていたといい、謙信の後継者が誰であるのかという情報が錯綜していたことも考えられます。
景虎派・景勝派のそれぞれの勢力
次に、景虎陣営と景勝陣営の内訳について概観してみましょう。景虎派
景虎派は意外なことに前関東管領・上杉憲政を筆頭に、上杉一門が多く支持していました。越後長尾氏のなかでは景勝の上田長尾氏と対立していた古志長尾氏が、対抗勢力として景虎陣営に合力しています。また、景虎の実家である後北条氏や周辺の会津蘆名氏・米沢伊達氏・出羽大宝寺武藤氏など、周辺勢力のことごとくが景虎派となっていました。
また、甲斐の「武田勝頼」も景虎を支持しており、越後国外からは景虎が謙信の後継者であると認識されていたとも考えられています。もっとも、後北条氏出身の景虎という人材が越後の統治者となれば、その同盟国として多くの勢力が越後の権益に介入できる可能性があったことも否定できません。
景勝派
一方の景勝陣営では、謙信の旧臣や旗本など有力な上杉家中の武将たちが合力しました。「直江信綱」「河田長親」「斎藤朝信」らそうそうたる将が景勝を支持し、古くから離合集散を繰り返した阿賀野川以北の有力国人衆「揚北衆(あがきたしゅう)」の大身がこちらの陣営につきました。また、上条上杉氏を継いだ「上条政繁」、山浦上杉氏の「山浦国清」らも景勝を支持しました。
このように、謙信の配下であった上杉家中の多くが景勝を後継者として擁立しようとしたことがわかりますが、必ずしも越後の総意ではなかったようです。それというのも、景勝を支持したのは景勝本拠の魚沼と三島、春日山城を中心とした上越、阿賀北の大半といった地域に限られているためです。
逆に謙信の支持基盤が存在した蒲原軍南部、刈羽、古志などの勢力は景勝から離反しており、景勝が血統によってのみ家中の支持を受けたわけではないことが理解できます。先述のように、景勝の高圧的ともいえる態度や行動が謙信時代の支持層の離反を招いた面も否定できません。
両陣営の戦局推移
景虎・景勝の両派の勢力が固まってきた頃合いの同年5月13日、景虎は春日山城三の丸の屋敷から城下の「御館」へと移転。「北条氏政」に救援要請を送るとともに籠城戦を展開し、17日には春日山城の景勝を攻撃しますが逆に撃退されてしまいます。しかし景虎方の強みは実家の後北条氏や周辺同盟国の援助であり、散発的に展開された戦闘では景勝方が不利な状況が続きました。戦局に決定的な変化をもたらしたのは、同年の6月に締結された「甲越同盟」による影響でしょう。文字通り甲斐と越後の同盟であり、長きにわたる仇敵同士が休戦するという選択でした。
これには武田氏と後北条氏の間の不信感や、織田氏と結んだ徳川氏という甲斐南部の脅威などがあり、上杉氏との緊張関係を解消したいという利害の一致がありました。武田氏の脅威がなくなった景勝方は勢力を挽回、景虎方の有力武将を次々に撃破していくことになります。
7月、中立の立場となった武田勝頼の仲裁により越後で景虎・景勝の和平交渉が進行。しかし翌月に徳川家康が武田領の駿河田中城に侵攻したとの報を受け、勝頼は和平交渉を中断して越後から撤兵。それにより景虎と景勝の和平交渉は決裂します。
翌9月、北条氏政がついに本格的な軍事行動を起こしますが、景勝方はこれをよく防戦し、残存していた武田兵の存在も景虎方や後北条氏勢力への抑止力として機能しました。徳川氏の脅威にさらされる武田氏に対し、景勝は持城を巧みに割譲して支援。これらの工作が景虎とその支持勢力の切り離しを進めていきます。
そして10月に入ると景虎の本拠である御館では兵糧が枯渇しだし、一時的な補給成功などで春日山城に攻勢をかけることがあったものの、諸将との連絡が途絶しだして相当に弱体化していたことがうかがえます。
景勝による総攻撃と乱の決着
徐々に消耗していった景虎方に、景勝は決戦を仕掛けることを決断します。明けて天正7年(1579)2月1日、景勝は景虎の御館への総攻撃を命じ、即日有力武将を討ち取り方々に放火するという徹底戦を実施します。後北条氏が前線基地としていた樺沢城も攻略し、このことと冬季という気候条件により小田原からの増援の可能性をつぶしました。3月17日、御館を脱出した上杉憲政は和睦を要請するため景虎の嫡子「道満丸」とともに景勝の陣に向かいますが、その途中で殺害されてしまいます。御館も落城し景虎は脱出しますが、鮫ヶ尾城で城主の「堀江宗親」の裏切りにあい、同月24日に自害しました。
これにより、謙信の後継者争いである御館の乱は景勝の勝利で幕を閉じることになったのです。
戦後
景虎の自刃によって一応の終息をみた御館の乱でしたが、その後も景勝に抵抗する勢力は一掃できず、完全に決着するにはなお一年あまりの時間が必要でした。越後国内を二分するという大規模な内乱であったため、国力・兵力の大幅な衰退を招いたのも深刻な傷跡でした。また武功への恩賞をめぐるいさかいも絶えず、景勝の出身基盤勢力である上田衆が優遇されたこともあり、有力武将の離反も発生しました。これら越後の弱体化を周辺諸勢力が見逃すはずもなく、景勝はなお過酷な領国の舵取りに直面していくこととなるのでした。
おわりに
一代のカリスマが君臨した後、その後継をめぐって争うということは珍しい事件ではありません。しかし謙信というあまりにも巨大な存在を突然失った越後が、大規模な内乱を迎えてしまったのは歴史の皮肉といえるのかもしれません。上杉家は関ヶ原の戦い以降、米沢へと減移封されることは周知のとおりですが、謙信から景勝へといたる系譜を誇り、直江兼続らの旧臣が中心となって領国経営に粉骨砕身したこともよく知られています。
凄惨な内乱を経験してなお上杉の名を高からしめたのは、強い矜持があったからこそのことではなかったでしょうか。
【主な参考文献】
- 『日本歴史地名体系』(ジャパンナレッジ版) 平凡社
- 『国史大辞典』(ジャパンナレッジ版) 吉川弘文館
- 『歴史群像シリーズ 50 戦国合戦大全 上巻 下剋上の奔流と群雄の戦い』 1997 学習研究社
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