刀の不思議な名前の由来は?名刀にまつわるエピソード
- 2022/07/13
刀にはその製作者である刀工の名前が刻まれることがよくあり、これを「銘(めい)」といいます。有名な「正宗」や「村正」、「虎徹」や「兼定」なども刀工名を表しており、一般に「○○作の刀」という意味合いで刀の名前は銘で呼ばれることが多くなっています。これはすなわち「ブランド」と言い換えることもでき、多くの名刀を生み出した刀工集団の銘はそれだけでもステータスとして認知されるようになります。
その一方で、刀が世に出てからのエピソードなどによって、新たな呼び名が付けられることもあります。「天下五剣」で有名な「三日月」や「童子切」がいい例で、刀身の文様や使用者の伝説などから二つ名のような通称で呼ばれるものがあるのです。これを「号(ごう)」といい、「三日月宗近」などのように号+銘という組み合わせでの呼称も一般的です。
そんな刀の号ですが、なかにはとても不思議な語感をもった印象的なものが存在しています。それには切れ味だけではなく、歴史的な事柄や神秘的な出来事を伝える意味も与えられ、刀剣を知るうえでのひとつの楽しみ方と言えるでしょう。
本コラムでは、五振りの刀をピックアップして、不思議な名前とそのエピソードをご紹介しましょう!
その一方で、刀が世に出てからのエピソードなどによって、新たな呼び名が付けられることもあります。「天下五剣」で有名な「三日月」や「童子切」がいい例で、刀身の文様や使用者の伝説などから二つ名のような通称で呼ばれるものがあるのです。これを「号(ごう)」といい、「三日月宗近」などのように号+銘という組み合わせでの呼称も一般的です。
そんな刀の号ですが、なかにはとても不思議な語感をもった印象的なものが存在しています。それには切れ味だけではなく、歴史的な事柄や神秘的な出来事を伝える意味も与えられ、刀剣を知るうえでのひとつの楽しみ方と言えるでしょう。
本コラムでは、五振りの刀をピックアップして、不思議な名前とそのエピソードをご紹介しましょう!
【目次】
にっかり青江(あおえ)
最初からなんとも変わった名前の方の登場ですが、これはなんと「幽霊を斬った」という伝説をもつものです。夜な夜な出現するという女の幽霊に斬りつけ、翌朝その現場を見てみると石灯籠が真っ二つになっていた・・・。そんな怪異譚が伝わっています。「にっかり」とはその幽霊が笑う様のことで、斬った武士が誰かについては諸説ありますが、柴田家や丹羽家を経由して豊臣家にもたらされ、最終的には大坂冬の陣での講話交渉の礼物として、京極忠高の手に渡りました。
南北朝時代の「備中青江派」の作で、本来は太刀だったものを短くして、刃長約60.3cmの大脇差となっています。現在では京極家が藩主を務めた旧丸亀藩である丸亀市が所有し、重要美術品に指定されています。
古今伝授行平(こきんでんじゅゆきひら)
何やら秘密めいた名前がついたこの刀、実は武家だけではなく、公家と深い関わりのあるエピソードに由来しています。「古今伝授(こきんでんじゅ)」とは、勅撰和歌集である『古今和歌集』解釈の秘伝を継承することであり、代々公家が中心になって伝えてきたものです。
安土桃山時代に武将でありながらその秘伝を受けたのが、有職故実にも通じた「細川幽斎」でした。
幽斎は慶長5年(1600)、次世代へと古今伝授を伝えますが、その中の一人が公家の「烏丸光弘(からすまみつひろ)」です。
古今伝授行平とは、烏丸光弘に古今伝授とともに授けられた太刀であり、「豊後国行平作」の銘を残し国宝に指定されています。現在では細川家ゆかりの文化財を擁する美術館、東京の永青文庫にて収蔵されています。
一胴七度(いちのどうしちど)
数字が二つ記されたこの不思議な名前には、実はとてもおそろしい逸話が隠されているのです。この刀を製作したのは、伊勢桑名の名工「千子村正(せんごむらまさ)」で、関白・豊臣秀次の愛刀として知られています。当時は罪人の体で刀の切れ味を試すことがよくあり、一胴七度とはつまり「一胴(いちのどう)を七度斬ることに成功した」ことを表す号となっています。
秀次自らが試し切りに及ぶこともままあり、ルイス・フロイスの『日本史』にもその様子が記述されています。
「一胴(いちのどう)」とは、江戸時代前期までは人体の胸の上あたりのことで、斬るためには技量とともに刀そのものの性能も必要だったとされています。茎に「一胴七度」と金象嵌が施されており、このようなタイプの銘を「截断銘(せつだんめい)」といいます。
刀の性能を称える意味もあるものですが、実際に目の当たりにするとちょっと怖いかもしれませんね。
波遊ぎ兼光(なみおよぎかねみつ)
一見して穏やかな雰囲気の名前ですが、こちらも刀の凄まじさを伝える号となっています。戦の最中、この刀で斬りつけられた男がそのまま川に飛び込み、泳いで逃げていこうとしましたが、流れの半ばまできたところで首が落ちた、あるいは身体が両断されたともいうのです。または刀身に施された龍の彫金が、まるで波間を泳いでいるかのように見えることからという説もありますが、鋭すぎる切れ味のために、斬られたことがしばらくわからないというタイプの号の由来譚にあたるでしょう。
この刀は無銘ですが備前の二代・長船兼光のこととされ、謙信が特に好んだ備前刀の一振りと考えられています。当初上杉家に伝わりましたが、やがて立花宗茂の手にわたり、立花家が伝えることになりました。
徳川幕府八代将軍・徳川吉宗が再三にわたりこの刀の鑑賞を立花家に依頼したものの、ついに許可されることがなかったのは有名な話です。
骨喰藤四郎(ほねばみとうしろう)
字面からしてすでに怖い感じのするこれは、無銘ではありますが鎌倉時代なかばの名工・粟田口吉光(藤四郎)の手によるものと伝わっています。薙刀の刀身をベースにして造り変えた、「薙刀直し」の短刀ですが、振っただけで遠くの敵の骨が砕けるという、凄まじい伝説を持っています。
よほどの武威を思わせるエピソードで、切れ味に対する最大限の賛辞が号となったものでしょう。大友氏から足利将軍家、豊臣家、徳川家など時の権力者の手を転々としつつ、現在は豊国神社の所蔵として国宝に指定されています。
おわりに
刀剣には、これらのもの以外にも不思議な名前がつけられたものがたくさん存在しています。しかし、そこには刀とその持ち主たちの濃密な物語が込められているのです。博物館や美術館で刀剣鑑賞をする際には、ぜひともそんな名前にまつわるエピソードにも注目してみてくださいね!
【主な参考文献】
- 『歴史群像シリーズ【決定版】図説 日本刀大全Ⅱ 名刀・拵・刀装具総覧』歴史群像編集部編 2007 学習研究社
- 『図鑑 刀装のすべて』 小窪 健一 1971 光芸出版
- 『別冊歴史読本 歴史図鑑シリーズ 日本名刀大図鑑』本間 順治監修・佐藤 寒山編著・加島 進協力 1996 新人物往来社
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