【家紋】「セイショーコさん」といまも慕われる名将!「加藤清正」の家紋について
- 2019/11/20
無名の一兵卒から成り上がり、ついに天下人となった「豊臣秀吉」。世界史的にも珍しい大出世を遂げた人物であり、戦国の下克上はそういった立身を実現するチャンスに満ちていたともいえるでしょう。秀吉同様に一代で身を興して歴史の表舞台に名を刻みつけた武将は数多く、秀吉自身もまた、そういった人材の発掘と育成には心を砕いていたことが知られています。
若年より秀吉に近い位置で育ち、豊臣の重臣として働いてきた武将たちを「豊臣恩顧」、あるいは「秀吉の子飼い」と例えることがあり、多くの名称・勇将を輩出してきました。そんな秀吉直属の武将のうち、忘れてはならないのが「加藤清正」です。「賤ケ岳の七本槍」の一人に数えられ、秀吉が天下人となっていく過程で重要な戦のほとんどすべてに従軍したと伝わる、豊臣きっての武断派として有名な清正。文字どおり叩き上げの軍人であり、戦国の世の武将らしさを強く感じさせる人物です。
今回はそんな、加藤清正が使用した家紋についてのお話です。
若年より秀吉に近い位置で育ち、豊臣の重臣として働いてきた武将たちを「豊臣恩顧」、あるいは「秀吉の子飼い」と例えることがあり、多くの名称・勇将を輩出してきました。そんな秀吉直属の武将のうち、忘れてはならないのが「加藤清正」です。「賤ケ岳の七本槍」の一人に数えられ、秀吉が天下人となっていく過程で重要な戦のほとんどすべてに従軍したと伝わる、豊臣きっての武断派として有名な清正。文字どおり叩き上げの軍人であり、戦国の世の武将らしさを強く感じさせる人物です。
今回はそんな、加藤清正が使用した家紋についてのお話です。
清正の出自とは
加藤清正は幼名を「虎之助」といい、幼少時から秀吉の小姓として仕えていたといいます。出身地は秀吉と同じ村であり、母方の血縁関係にあったともいわれることがあり、親族といえないまでもかなり近い血筋であったと考えられています。出自がそういった階層であることから家譜の詳細は不明で、諸説あるものの武家ではなかったとするのが妥当との見方が大勢のようです。
清正が文献上初めて登場するのは彼が18歳頃のことで、播磨国(現在の兵庫県の一部)の一部に領地を賜った書状が残されています。以後、重要な合戦の数々で軍功を立て、先に触れたとおり、賤ケ岳の戦い(1583)では「七本槍」と呼ばれた七名の武勲者の一人に数えられ、秀吉配下の勇士としての地位を確かなものとしていきます。
清正はやがて肥後・隈本城の主となり、隈本を現在の「熊本」と改めたことが知られています。また、清正は築城の名手としても有名で、熊本城をはじめとして名護屋城や江戸城など、多くの城の築城に携わっています。
自らの槍働きによって前線に立つイメージの強い清正ですが、秀吉死後は徳川方に合力することを選択し、関ヶ原合戦(1600)の際には、あることから家康の怒りを買って謹慎していたため、領国の肥後に留まっていました。
大坂の陣の直前には徳川方の家臣として、家康と豊臣秀頼の二条城における会見を仲介するなど両家の橋渡しの役を期待された形跡が残ります。しかし清正の死後、跡を継いだ忠広の代で改易となり、加藤家が熊本を統治し続けることはありませんでした。
清正の家紋について
清正の祖先がどのような紋を用いていたかはわかりませんが、清正自身はいくつかの紋を時と場合によってうまく使い分けていたことがわかっています。ひとつは「蛇の目紋」。ひとつの大きな輪というシンプルな意匠ですが、邪気払いの力があると信じられた「蛇の目」を表すという、霊験を感じさせる紋です。
同じく賤ケ岳の七本槍の一人として名を連ねる、「加藤嘉明」の加藤氏も蛇の目紋を用いており、清正家のものより太めの線で描かれていたと考えられています。
清正はこの蛇の目紋を主に戦陣に関わるものに描いたとされ、家臣の「九鬼広隆」に与えた甲冑に大きくこの紋が描かれているのを確認できます。
また、土岐氏の紋として有名な「桔梗」も使用しており、この由来にはいくつか説がありますが、九州征伐における失態で改易された讃岐国の領主「尾藤定知」の武具や調度を譲り受け、桔梗の紋入りのそれをそのまま使用したとも伝わっています。その他、清正の出自が土岐明智氏の流れを汲んでいるから使用しているという説もあるようです。
秀吉からは「折墨紋」という、書で使う墨の半分ほどを斜めに配したデザインのものを拝領したとされています。清正個人の独占紋であると考えられ、文化的な調度品などにあしらったことがわかっています。
なぜ「蛇の目」なのか
蛇の目紋に邪気払いの力があると信仰されたことは先に述べたとおりですが、なぜそのような観念が生まれたのでしょうか。ひとつには、「目」には魔除けの力があると信じられたことによるといわれます。
器物に目を描くことによって邪気の働きを監視し、魔を近づけさせないという考えは世界中に見られ、船の舳先に目を描いて航海の安全を願う習俗なども有名です。日本では「籠目」にもそのような力があると考えられ、籠にも呪具としての役割が与えられてきました。
もうひとつは、「蛇」そのものへの信仰です。
日本の古い神社には蛇をその正体とする神々があり、三輪大社の「オオモノヌシ」などがよく知られています。まぶたのない蛇の目は神秘性を感じさせるものとして、強い魔除けの力があると信じられたともいいます。
蛇の目紋はシンプルなデザインですが、そのような人知を超えた力への願いが込められたものでもあったのです。
おわりに
加藤氏の後、熊本は代々「細川氏」によって統治されてきましたが、いまでも加藤清正は「セイショーコさん」と呼ばれて親しまれているといいます。セイショーコとは「清正公」のことで、領国統治において治水や農業政策に尽力したことが現代にまで伝わっているのです。武人としての戦いの日々の果てに、平和を夢見た加藤清正。その心はしっかりと後世に受け継がれています。
【参考文献】
- 『見聞諸家紋』 室町時代(新日本古典籍データベースより)
- 『伊那史叢説.第2編』 市村咸人 1937 山村書院
- 「日本の家紋」『家政研究 15』 奥平志づ江 1983 文教大学女子短期大学部家政科
- 「「見聞諸家紋」群の系譜」『弘前大学國史研究 99』 秋田四郎 1995 弘前大学國史研究会
- 『日本史諸家系図人名辞典』 監修:小和田哲男 2003 講談社
- 『戦国武将100家紋・旗・馬印FILE』 大野信長 2009 学研
- 『歴史人 別冊 完全保存版 戦国武将の家紋の真実』 2014 KKベストセラーズ
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