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「竹林院」真田幸村が大谷吉継の娘と結婚した背景とは?

  • 真田幸村
 2020/05/21
竹林院のイラスト

大坂冬の陣では、真田丸(出城)において攻め寄せる徳川勢を撃退したことで知られる「真田幸村」(信繁)。諸説あるものの、幸村には子どもが12人以上いたとも伝わっています。

その中で5人の子を産んだのが「大谷吉継」の娘で、幸村の正室である「竹林院」です。今回はなぜ幸村が彼女と結婚したのかについてお伝えしていきます。
(文=ろひもと理穂)

謎に包まれている竹林院

そのほとんどが謎

幸村の正室は吉継の娘なのですが、その詳細は不明です。生年や没年はおろか、名前すら記録に残っていません。

そもそも幸村と結婚した時期も不明です。そのほとんどが謎に包まれており、わかっているのは法名が「竹林院殿梅渓永春清大姉」ということで、そのため竹林院という名前で伝わっているのです。

幸村の兄である真田信幸(信之)の正室となった本多忠勝の娘(小松姫)は、信幸留守の間、沼田城を守ったという逸話がありますが、竹林院にも関ヶ原合戦での敗戦後、幽閉先の九度山で苦しい家計を支えるために真田紐を考案して売っていた、という逸話があります。

この話から、竹林院は我慢強く、知恵のある女性だったことが推測されます。

養女であった可能性も否定できない

幸村はもともと真田氏が帰属するための人質として大坂城に入ったのですが、その器量を豊臣秀吉(羽柴秀吉)に認められ、文禄3年(1594年)には従五位下左衛門佐に任じられるとともに、豊臣の姓も授かっています。

人質としての扱いではなく、立派な一大名となっていました。秀吉の重臣で越前国敦賀城主の吉継の娘であれば、家格としての釣り合いもとれています。

ただし、竹林院は吉継の妹、または姪だったという説もあります。

信幸に嫁いだ小松姫も忠勝の娘ですが、名目上は徳川家康の養女という扱いです。家康の娘でなければ嫡男の正室には迎えられないと父親の真田昌幸が抵抗したためと考えられますが、同じような理由が二男である幸村の結婚にもあったのかもしれません。つまり吉継の養女だった可能性も充分にあるということです。

幸村と竹林院の結婚の時期と背景

秀吉の指示だったのか?

ではなぜ幸村は吉継の娘と結婚したのでしょうか? 戦国時代の話ですから、当然のように政治面が大きく関わってきます。政略結婚ということになりますが、これは秀吉の指示によるものだという説が有力です。

秀吉に従属を表明したとはいえ、侮れない相手が家康でした。幸村の兄の信幸は家康の養女の婿です。明らかに徳川方になりますから、それに対抗するためにも幸村を秀吉側で抑えておく必要があります。

そうすれば真田氏当主で、政治面や外交面だけでなく戦術にも長けた真田昌幸を引き続き味方にしておくことができるという思惑もあったのではないでしょうか。

幸村の器量を認めただけではなく、真田氏との繋がりをより太いものにするため、秀吉は重用している吉継と幸村を結びつけたと考えられます。実際にこの結びつきがあったからこそ、秀吉亡き後の関ヶ原の合戦で昌幸と幸村は家康に服従せずに逆らったのです。

この抵抗によって徳川勢の主力部隊のひとつである徳川秀忠の軍勢は信濃国上田城で釘付けにされ、関ヶ原の合戦には間に合いませんでした。

もしかするとこのことで、徳川勢は逆に敗れていたかもしれないのです。そう考えると、幸村と吉継の娘の政略結婚はとても大きな意味を持っていたといるでしょう。

真田氏、石川氏、石田氏、大谷氏の繋がり

また、幸村が吉継の娘と結婚した背景には石川氏や石田氏との繋がりもありました。

石田三成は、真田氏が秀吉に従属した後の取り次ぎ役ですから真田氏と石田氏が接する機会は多くありました。

三成と吉継は友情という強い絆で結ばれていたことで知られています。そうなると自然の流れで真田氏と大谷氏も結びついていくことになったのではないでしょうか。

そんな吉継の妹を妻に迎えていたのが、犬山城主である石川備前守光吉(貞清)でした。さらに弟の石川掃部介一宗は、石田氏と縁のある宇多頼忠の娘を妻にしています。ちなみに三成の正室も頼忠の娘です。

真田昌幸と石田三成の関係略系図
真田昌幸と石田三成の関係略系図

一説には昌幸の正室で幸村の母親である山手殿も頼忠の娘とされ、これが事実だとすればさらに石田氏と真田氏の縁はさらに深まります。幸村は名護屋城三の丸在番時に石川紀伊守光元に従っていましたが、光元は光吉の兄です。

このように真田氏が石田氏・石川氏とさらに繋がっていく中で、幸村は両氏と関わりの深い吉継の娘を娶り、真田氏と大谷氏の結びつきもまた強くなっていったのです。

そして秀吉亡き後、三成を筆頭にしたこの派閥が家康への抵抗勢力となっていきます。

大坂夏の陣の後の竹林院の詳細

幸村と竹林院の子どもたち

幸村と竹林院の間には5人の子どもが生れています。幸村の四女・あぐり、嫡男の真田大助(幸昌)、六女の阿菖蒲、七女のおかね、二男の真田大八(後の片倉守信)です。

大助ら子どもたちは幸村が領地を追われ、九度山に幽閉されてから生れていますが、幸村と竹林院の結婚した時期は、幸村が従五位下左衛門佐に任じられた文禄3年(1594年)が有力です。

関ヶ原の戦いで石田方に味方した幸村らが幽閉されたのが、慶長5年(1600年)のことですから、そこまでの期間の幸村は忙しく駆け回っており、なかなか子どももできなかったのかもしれません。

九度山に幽閉されることになった際には竹林院は側室の子どもたちも一手に預かって育てたと伝わっています。慶長19年(1614年)には大坂城に移り住むことになりますが、それまでの15年間は貧しくても家族の愛情溢れる生活が送れていたのではないでしょうか。

石川光吉に匿われた

慶長20年(1615年)、大坂夏の陣で幸村が討ち死にすると、竹林院は子どもひとりを連れて大坂城を脱出し、高野山を目指しますが、5月20日には紀伊国伊都郡で、徳川勢の落ち武者狩りに発見され捕縛されました。

捕らえたのは浅野長晟の配下であり、幸村が豊臣秀頼から拝領した国俊の脇差を所有していました。これが動かぬ証拠となりました。それを知った家康は喜び、長晟に黄金57枚が褒美として与えられたと『駿府記』や『浅野旧記』に記されています。

ただし、家康に味方した真田信幸の義妹ということもありますから、竹林院は剃髪し赦免され、改易されて京都で茶人として暮らしていた石川光吉のもとを頼りました。竹林院の娘のおかねが光吉の後妻だったとも伝わっています。おかねが竹林院を引き取ったのでしょう。

ちなみに二男の大八は夏の陣の後、仙台藩に仕え、一時は片倉姓を名乗りましたが、子孫が真田姓に戻し、仙台真田氏として途絶えることなく続いていきました。こうして幸村の血は仙台の地で受け継がれていったのです。

まとめ

結婚した理由が政略的なものだったとしても、これだけの子どもをもうけたわけですから、幸村と竹林院の仲は睦まじいものだったに違いありません。

吉継としても、娘が器量に優れた幸村の妻になったことに満足していたはずですし、幸村の将来に期待していたのではないでしょうか。関ヶ原の合戦での没落は仕方のない話ではありますが、返す返すも残念です。


【参考文献】
  • 黒田基樹『豊臣大名 真田一族』(洋泉社、2016年)
  • 平山優『真田信繁 幸村と呼ばれた男の真実』(KADOKAWA、2015年)
  • 丸島和洋『真田四代と信繁』(平凡社 、2015年)
  • 平山優『大いなる謎 真田一族』(PHP新書、2015年)


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