「桂川原の戦い(1527年)」細川高国の敗北。政権は堺公方へ

細川政元暗殺(永正の錯乱)後の、澄之・澄元・高国の3人の養子による家督争いは、いわゆる「両細川の乱」という将軍家をも巻き込んだ争いとなって長く続きました。

やがて澄元が敗れて亡くなったため、一旦は高国勝利で落ち着きます。しかし、大永6(1526)年、高国派内部の混乱により、状況は一変します。


讒言を信じた高国

将軍・義稙が出奔した後、高国はかつて敵対していた義澄の遺児・義晴を12代将軍として擁立し、自身は管領として政権を握りました。


大永5(1525)年になると高国は出家して「道永」と号し、家督を嫡男の稙国に譲りましたが、稙国が早世してしまったため、再び高国が政務をとるようになりました。


大永6(1526)年7月、高国は従兄弟である細川尹賢の讒言を信じ、重臣の香西元盛を謀殺してしまいました。讒言の内容は、元盛が阿波勢(澄元派)と内通しているという疑いであったとか。


これに、元盛の実兄の波多野稙通、弟の柳本賢治が激怒しました。


八上城・神尾山城の戦い

高国に反旗を翻した稙通と賢治は、本拠地の丹波へ戻り、それぞれの居城である八上城・神尾山(かんのおさん)城に籠城。


高国は急いで軍を差し向けます。軍の指揮は讒言した尹賢。尹賢に内藤、長塩、奈良、薬師寺、波々伯部、荒木といった摂津・丹波の国人らをつけました。


が、神尾山城を攻めていたうちのひとり、内藤国貞は波多野に味方して軍を離脱し、さらに丹波黒井城主の赤井五郎が2000騎で神尾山城の応援に駆けつけ、高国軍の主力を壊滅させました。


連携する丹波勢・阿波勢

神尾山城の戦いにおいて、阿波にあった細川晴元から感状が届けられており、この時点で丹波勢と阿波勢が連携していたことがわかります。


阿波の細川晴元は高国と敵対していた澄元の遺児です。高国と丹波勢との戦いは、父の敵であった高国を破る願ってもないチャンスです。


戦況を見ていた阿波勢は12月に堺から上陸。この時上陸したのは三好勝時、その子の勝長、政長、さらに河村淡路守らでした。

勝時といえば、かつて高国に殺された之長の弟です。勝時の子である新五郎もまた、之長とともに殺されています。晴元だけでなく、三好氏にとっても高国は倒したい相手でした。


桂川原の戦い



桂川原の戦い。色塗部分は山城国

柳本賢治は翌大永7(1527)年に丹波から山城に入り、2月5日には山崎城を陥れていました。


堺にいた三好勝時、政長は11日に山崎に着き、賢治と合流すると、13日には3000の兵を連れて桂川を越え、高国軍を攻撃しました。高国方の先陣は2400。勝時はこの時負傷してのちに戦死していますが、高国の従甥である大納言・日野内光を討っています。


双方の戦力ははっきりしていませんが、一説には高国軍は自軍1万に加え、応援の若狭守護武田元光の軍2000であったとか。六角氏、赤松氏らにも応援を要請したようですが、彼らが加わることはありませんでした。


高国軍が丹波勢・阿波勢の勢いにおされて大敗すると、高国は後方にあった義晴を奉じて近江へ逃亡しました。


といっても、勝利した丹波勢・阿波勢はこの時点では京都を確保してはおらず、同年10月には近江の六角定頼の援助を受けた高国が京都に入り、交戦しました。この時の高国軍は、自軍2万、六角軍2万、さらに越前の朝倉教景(宗滴)の援軍7000、計4万7000の大軍でした。


前回と同様に桂川周辺の泉乗寺で戦いが繰り広げられましたが、阿波勢の三好元長が教景を討ったことにより、高国軍は敗北します。『細川両家記』によれば、「其後は三好方の太刀におそれて合戦なし」という状態であったとか。


堺公方政権

将軍・義晴が近江に逃れた時、幕府の評定衆、奉行人らも京から逃れ、幕府はらんどうになってしまいました。こうして幕府が機能を停止してしまったところで、阿波から上陸した足利義維(義晴の兄または弟)、細川晴元による堺公方政権が始まります。


しかし、新政権は一枚岩ではありませんでした。晴元を軍事面で支える元長は高国との和睦を進めようとしますが、三好政長、柳本賢治らが反対します。


この時若年であった晴元の意見はほとんど御前衆の可竹軒周聡が代弁しており、どこまで晴元本人の意思が反映されていたか不明ですが、晴元も高国との和睦に難色を示しました。


以後、晴元家臣の間で元長と賢治の対立が深まり、一方では高国が反撃に動き出していました。


義維を擁立して政権を握ったとはいえ、いまだ京に入らない「堺公方」は内部の混乱もあり、なかなか安定しないまま、享禄5(1532)年に終わりを迎えることになります。



【主な参考文献】
  • 『国史大辞典』(吉川弘文館)
  • 日本史史料研究会監修・平野明夫偏『室町幕府将軍・管領列伝』(星海社、2018年)
  • 福島克彦『戦争の日本史11 畿内・近国の戦国合戦』(吉川弘文館、2009年)
  • 今谷明『戦国三好一族 天下に号令した戦国大名』(洋泉社、2007年)
  • 長江正一著・日本歴史学会編集『三好長慶』(吉川弘文館、1968年 ※新装版1999年)

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  この記事を書いた人
東滋実 さん
大学院で日本古典文学を専門に研究した経歴をもつ、中国地方出身のフリーライター。 卒業後は日本文化や歴史の専門知識を生かし、 当サイトでの寄稿記事のほか、歴史に関する書籍の執筆などにも携わっている。 当サイトでは出身地のアドバンテージを活かし、主に毛利元就など中国エリアで活躍していた戦国武将たちを ...

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