「大物崩れ/天王寺の戦い(1531年)」細川高国の最期。政元養子3人の戦いが終結

細川高国は、大永7(1527)年の桂川原の戦いで丹波勢・阿波勢の連合軍に敗れると、将軍・足利義晴を奉じて近江へ逃亡しました。その後、巻き返しを図って浦上村宗を味方につけ、打倒堺公方をめざします。


しかし、中嶋の戦いは2か月膠着状態に。その後赤松政村(政祐)が背後から攻撃したことで戦況が変わり、高国は自刃に追い込まれました。このことから、この戦いは「大物崩れ(だいもつくずれ)」と呼ばれます。


細川高国と浦上村宗

桂川原の戦いで敗れた高国は、政権を奪回すべく、兵力を集めるために動いていました。


まずは伊賀の仁木氏、伊勢の北畠氏、そして以前援軍を出してくれた越前の朝倉氏らに声を掛けますが、色よい返事は得られませんでした。


今度は西へ向かい、尼子経久を頼ります。が、経久も援軍を出しませんでした。


かつて足利義稙は周防の大内義興を頼って上洛し、将軍に返り咲きました。義稙についていた高国も大いに義興を頼ったものですが、その義興が京にいる間に侵攻して勢力を拡大した人物こそ、尼子経久です。


中国で食うか食われるかの勢力争いをしている時に、高国のために援軍を出して義興と同じ轍を踏むことなどできません。


山陰から備前三石へ向かった高国は、ついに協力者を得ます。備前三石城主の浦上村宗です。


村宗は備前国守護赤松氏の家臣で守護代でした。守護の赤松政村を傀儡にすることで実権を握っていましたが、完全に下剋上を果たしたとは言い難く、自身の影響力をより強めるために高国に味方したのではないかという見方があります。


晴元家臣の対立

一方、堺公方側では、晴元家臣の三好元長と柳本賢治が対立を深めていました。元長は桂川原の戦いの後、高国と和睦して両細川を一本化し、義維を将軍に、という考えでした。

それに対して、賢治は高国に兄弟を無実の罪で殺された恨みもあり、あくまでも高国を排除した上で、将軍は義晴に、そして晴元を管領としてやっていくという考えでした。


賢治は義晴と義維・晴元の和睦を進めるために動きますが、これは失敗に終わります。享禄3(1530)年6月29日、高国の命を受けた村宗の刺客によって、賢治は殺されてしまったのです。


賢治が亡くなる前の享禄2(1529)年8月、対立していた元長は、賢治の讒言により遠ざけられ、阿波に帰国していました。つまり、堺公方軍は軍事の要である元長を欠いたまま、高国・村宗軍と対峙することになったのです。


享禄3(1530)年、賢治を亡き者にした高国は勢いづき、摂津の神呪寺へ。堺公方側の富松城は9月に陥落し、薬師寺国盛は尼崎の大物城へ逃れますが、国盛は11月6日に降伏しています。続いて、翌享禄4(1531)年2月には、伊丹城も陥落しています。


将軍・義晴、そして近江の六角定頼が高国方として軍を動かす中、堺公方側で京都を防衛していたのは柳本甚次郎、木沢長政でした。彼らはある程度は防いでいましたが、長政は3月に京都を脱出。


これ以上は高国方の猛攻に耐えきれず、晴元はとうとう阿波の元長に助けを求めます。元長は晴元に遠ざけられていたわけで、困った時だけ頼るとは虫のいい話ではありますが、高国は元長にとっても祖父・之長を死に追いやった仇敵です。


中嶋の戦い

元長は晴元の要請に応じました。2月21日に堺に上陸した元長は、3月10日に住吉に布陣していた高国・村宗軍の先鋒を破り、天王寺まで退けました。


25日には阿波守護の細川持隆も加わっています。この時の元長軍は総勢1万5000で、うち8000は堺に留めて義維と晴元の守りに当てたようです。


高国は浦江に、村宗は野田城・福島城に陣取りました。以後、両者は一進一退で、戦いは膠着状態のまま数か月。



大物崩れマップ。色塗部分は摂津国


高国の自刃。大物崩れ

戦局が大きく動いたきっかけは、赤松政村の存在でした。


政村は播磨・備前・美作守護の赤松氏の当主です。しかし実権は浦上村宗が握っていました。村宗は政村の父・義村を殺し、その後も当主となった政村を傀儡にしていました。村宗には恨みがありました。


そういうわけで、今この時は政村にとって村宗を討つチャンス。政村は密かに堺公方側へ人質を送り、堺公方側と内通したのです。


政村は村宗軍の後詰でした。しいたげてきた政村をなぜ後詰にしたのか、村宗には一切の疑念がなかったのか疑問でなりませんが、6月4日、村宗は背後から政村軍に攻撃されてしまうのです。それと呼応するように、正面からは元長軍が。奇襲攻撃にあった高国・村宗軍は大敗を喫しました。


村宗、和泉守護の細川元有ほか、高国・村宗軍の戦死者は8000といわれます。中でも大半は溺死であったとか。


高国は兵が四散する戦場から逃れ、大物の染物屋・京屋に隠れていたところを発見され、8日に大物の広徳寺で自刃に追い込まれました。


『細川両家記』に、高国が義晴に送った辞世の句があります。

「絵に写し石をつくりし海山を後の世までもめかれずそ見ん」

(絵に写し、庭に作った海山を、来世までも目を枯れずに見ていたい)


政元養子の争いの終わり

細川政元の死後から始まった澄之・澄元・高国の争いは、澄之亡き後は澄元と高国の争いとして長く続き、澄元死後はその遺児・晴元に引き継がれなおも継続しました。20数年におよぶその争いも、高国の死をもってようやく終わりました。


この後、高国を討った元長は勢力を拡大しますが、それがまた新たな争いの火種につながります。晴元と対立した元長は死に追いやられ、後ろ盾を失った義維も失脚。堺公方は崩壊するのでした。



【主な参考文献】
  • 『国史大辞典』(吉川弘文館)
  • 日本史史料研究会監修・平野明夫偏『室町幕府将軍・管領列伝』(星海社、2018年)
  • 福島克彦『戦争の日本史11 畿内・近国の戦国合戦』(吉川弘文館、2009年)
  • 今谷明『戦国三好一族 天下に号令した戦国大名』(洋泉社、2007年)
  • 長江正一著・日本歴史学会編集『三好長慶』(吉川弘文館、1968年 ※新装版1999年)

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  この記事を書いた人
東滋実 さん
大学院で日本古典文学を専門に研究した経歴をもつ、中国地方出身のフリーライター。 卒業後は日本文化や歴史の専門知識を生かし、 当サイトでの寄稿記事のほか、歴史に関する書籍の執筆などにも携わっている。 当サイトでは出身地のアドバンテージを活かし、主に毛利元就など中国エリアで活躍していた戦国武将たちを ...

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