「山科本願寺の戦い(1532年)」細川晴元・六角定頼・法華一揆衆と本願寺・一向一揆の戦い
- 2018/04/24
山科本願寺の戦いは、天文元(1532)年8月23日・24日の2日間に繰り広げられた戦いです。細川晴元・六角定頼・法華宗の連合軍によって山科本願寺攻めが行われた結果、山科本願寺は陥落。これにより、浄土真宗本願寺派の本拠は大坂の石山本願寺に移ることになります。
戦いの背景
なぜ細川晴元と山科本願寺は対立することになったのか。発端は将軍家の分裂と細川京兆家の内訌にありました。
細川京兆家の内訌
細川政元暗殺後の細川京兆家では、政元の3人の養子(澄之・澄元・高国)が当主の座をめぐって争いを繰り広げましたが、澄元の子・晴元が高国を討ったことで一端決着がつきます。
ところが、晴元配下で別の争いが勃発します。晴元家臣の三好元長はもともと柳本賢治(同じく晴元家臣)と対立し、一度は阿波に帰国していましたが、高国討伐のため呼び戻されていました。そして手柄をあげた元長がまた台頭したことで、不和が再燃したのです。
元長は柳本らだけでなく、主君の晴元とも対立していました。今まで組んでいた足利義維を退け義晴と手を組みたい晴元と、それに反対する元長。このように、分裂が続く将軍家をめぐって意見が分かれていたこと、さらに晴元が元長と対立する家臣(木沢長政・柳本賢治ら)側についたことなどから、ふたりの関係は修復不可能になりました。
晴元方は元長討伐に一向一揆を利用
元長と対立していた木沢長政は河内守護代でしたが、本来の主君である河内守護の畠山義堯(よしたか)を飛び越えて晴元と結びつきを強めたため、義堯の怒りを招きます。
元長と義堯は、長政という共通の敵を持ったこと、そして義維をめぐってどちらも晴元のやり方に反対意見を唱えたことなどから、同盟を結びました。
享禄4(1531)年、義堯は飯盛城の長政を攻めると、元長ほか丹波の波多野秀忠、大和国衆らがそれに続きます。
籠城する長政方はもはや晴元の援軍のみでは義堯の攻撃を退けられない状況に陥りました。『細川両家記』によれば、このとき長政と可竹軒周聰(かちくけんしゅうそう※晴元の御前衆)とが話し合い、本願寺の門徒勢力を利用することが決められたようです。
このときの本願寺宗主は第10世証如です。本願寺としては、過去に世俗権力(武家)の争いに軍事的に関与したことで内部の対立を招いたことを教訓とし、以後武家の抗争への関与は慎重に、という姿勢だったようですが、証如は晴元との関係を重視したのか、今回の要請に頷きます。
こうして本願寺の門徒(一向一揆)を動員した晴元方は義堯を蹴散らして自害させ、続いて元長も自害に追い込みました。
一向一揆の軍勢が21万の大軍だったというのはさすがに誇張でしょうが、晴元の援軍ではびくともしなかった両者があっけなく敗北したことを考えると、圧倒的な数であったことは疑いようもありません。
奈良で蜂起した門徒。晴元は法華宗と連携
ここまでは、晴元は要請に応じてくれた本願寺に感謝こそすれ、敵対するような要素はないように見えます。ところがこの後、一向一揆は独自の動きを見せます。
天文元(1532)年7月、飯盛城の勝利に勢いづいた一向一揆は、興福寺のお膝元・奈良で蜂起しました。
この蜂起に関しては、飯盛城の戦いとは違い証如が何か指示を出した形跡もなく、勝手に行動を起こしたようです。晴元はもとより、証如にもあずかり知らぬ行動をする一向一揆。圧倒的な動員力をもつ一向一揆の力は、統率できなければ脅威になります。
晴元は対立していた足利義晴・六角定頼と関係改善し、さらに法華宗(日蓮宗)と連携します。法華宗は当時京都の町衆を中心に受け入れられ、洛中には22か寺が建立されていました。
この法華宗が勢力拡大しつつある中で、一向一揆が堺や奈良に続いて京に入ってくるという噂が立っている。その危機に、彼らは武装化して立ち上がりました。これを「一向一揆」と対比して「法華一揆」といいます。
法華宗が晴元と手を組んだのは、京都に踏み込むという一向一揆を脅威に感じたことはもちろんですが、法華宗の大檀那だった三好元長の仇討ちという側面もあったのでしょう(とはいえ晴元こそ元長に一向一揆をけしかけた張本人ですが)。
山科本願寺
戦いの舞台となった山科本願寺について少し触れておきましょう。現在の京都市山科区にあった浄土真宗の本山で、文明10(1478)年に第8世宗主蓮如によって創建されました。
建立当初から防御力を意識していたわけではないでしょうが、山科本願寺は少しずつ拡大しながら防御能力を強化し、三重の外郭をもつ大きな寺内町を形成しました。平地ではあるものの、巨大な土塁と堀をもつ本格的な城郭であったようです。
山科本願寺の戦い。わずか2日の攻城戦
天文元(1532)年7月23日には、足利義晴が日蓮宗本山の本満寺に対して法華宗の軍勢を催促しており、晴元とともに法華宗を一向一揆攻めに動員しようとする動きがあったことがわかります。また8月ごろには、晴元方は本願寺を批判しており、この時点ですでに両者の関係に亀裂が入っていたようです。
8月4日、木沢長政が堺の浅香道場(そのあたりの浄土真宗の拠点)を放火すると、和泉・河内・摂津の一揆が起こります。しかし一揆は敗北し、数百人の死者を出しました。
一方、京都でも戦いが始まろうとしていました。8月15日、本願寺側が清水山・清閑山に篝火を焚くと、翌日16日には京都勢(多くは法華一揆衆)1万と本願寺方の4~5000がぶつかり、京都勢の勝利に終わります。この戦いで本願寺方は100人が戦死。大坂にいる証如は19日に摂津富田の門徒を応援にやりますが、この後詰も西岡の法華一揆衆に敗れています。
8月23日。山科本願寺を囲むのは、法華一揆衆・六角定頼軍・柳本信堯軍・山城衆ら。山科本願寺は立派な城郭ではありましたが、弱点はあります。攻城軍は『私心記』8月24日の条によれば、「水落」というところから乱入して攻めたようです。外郭のつなぎ目部分は土塁が途切れる場所で、弱点でした。こうして、攻め入られた本願寺方はわずか2日で敗北してしまったのでした。
本願寺との対立は続く
山科本願寺は焼き討ちにあったため、その後本願寺の本拠地は大坂の石山に移されます。この山科本願寺の戦いの後も両者の対立は続き、天文4(1535)年9月2日の和議でようやく終わります。
一方、晴元とともに戦った法華一揆衆は勢いを増し、山門の延暦寺との対立に発展。いわゆる「天文法華の乱」へとつながっていきます。
【主な参考文献】
- 『国史大辞典』(吉川弘文館)
- 『世界大百科事典』(平凡社)
- 福島克彦『戦争の日本史11 畿内・近国の戦国合戦』(吉川弘文館、2009年)
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