「将軍地蔵山の戦い(1561年)」三好長慶 VS 六角義賢・畠山高政!長慶衰退のはじまり

永禄4(1561)年3月30日、将軍・足利義輝を自邸に迎えた長慶は、長年敵対してきた細川晴元と和睦しました。このころは嫡男の義興が将軍の御相伴衆となり、三好氏の勢力は最盛を極めていました。

このあとに起こることを考えれば、輝かしい最後のときであったといえるでしょう。直後の十河一存の死をきっかけにして起こった将軍地蔵山の戦い以降、長慶は衰退していくことになります。

十河一存の死

十河一存(そごうかずまさ)は三好元長の四男で、長慶の弟でした。讃岐の十河氏の後継がいなかったことから養子として家督を継ぎ、長慶とともに細川晴元に仕えてきました。長慶と晴元が対立し始めてからは、江口の戦いをはじめとした数々の戦で勝利に貢献し、兄を支えた人物です。

一存は負傷した傷口に塩をすり込みまた戦場に出て戦ったという逸話があり、敵からは「鬼十河(十川)」と呼ばれて恐れられたとか。一存の髪型をまねる家臣も多く、慕われ憧れられる存在だったようです。

その一存が死んだのはいつのことだったかはっきりしませんが、永禄4(1561)年の5月1日より少し前だったようです。

瘡を病んでいた一存は有馬温泉へ湯治に行きますが、有馬権現へ参詣した際に落馬して亡くなったというエピソードがあります。

そこに居合わせた松永久秀は「有馬権現は葦毛の馬(一存の馬が葦毛だった)を好まない」と忠告したそうですが、久秀を嫌っていた一存は無視して落馬してしまったというわけです。

この一存の死を三好攻撃のチャンスと考えたのが、近江の六角義賢と、紀伊の畠山高政でした。一存は和泉岸和田城の主でしたが、彼が亡くなったことで手薄になった和泉をねらったのです。

六角義賢と畠山高政の共謀

三好氏の隙をついて挙兵した六角氏と畠山氏。このとき、義賢と高政はどちらも長慶の存在を苦々しく思っていたのでしょう。

六角氏は定頼の代から将軍家や娘婿の細川晴元を援助しており、晴元が長慶と敵対した戦では支援にあたり、和平交渉の場では調停役を務めてきました。縁者の晴元は長年長慶に苦しめられ、管領の座も奪われてしまったわけです。

また、畿内で圧倒的な力をもつ長慶の存在は、近江守護としての義賢にとっても脅威でした。このままではいつ近江に入り込まれるかわからない。義賢は今まで、晴元の後援として間接的に長慶と戦ってきただけですが、自身の領国が侵されるとなるともう他人ごとでは済まされません。

畠山高政はかつては長慶と同盟関係にありました。安見宗房と対立して河内の高屋城を追われた際には長慶の助力を受けて城を取り戻しています。しかし、永禄3(1560)年には長慶と対立する立場に転じ、河内を三好氏に奪われて紀伊に追いやられていました。

このままでは紀伊も奪われてしまうかもしれないという不安と、この機会に高屋城を取り戻したいという思いがあったようです。

こうして義賢と高政は共謀して兵を挙げたのです。

細川晴元の幽閉

進軍の動機について付け加えると、直前に長慶が晴元を幽閉したことが理由のひとつとして挙げられるでしょう。

義輝に促される形で長慶と晴元は和睦し、晴元は11年ぶりに嫡男・聡明丸(昭元)と再会しました。ところが、長慶はそのまま晴元を摂津の普門寺に幽閉してしまったのです。

義賢はこの義兄弟の扱われ方に激怒して戦に踏み切った、といわれますが、これはおそらく表向きの動機でしょう。本音はやはり近江を守ること。晴元の一件は体のいい動機として使われたわけですが、もしかしたら晴元も承知のことだったのかもしれません。

晴元の幽閉で長慶が油断している隙に突いてやろう、という魂胆だった可能性はあります。とすると、晴元との和睦を進めた義輝もこの企てに絡んでいたのかも……?

こうして義賢は晴元の次男・晴之を擁し、大義名分を得て挙兵しました。

将軍地蔵山の戦い

まず、一存の死に乗じて紀伊の高政が和泉へ攻め込むと、永禄4(1561)年7月28日に義賢も将軍山城(将軍地蔵山/勝軍山城)に入って入洛のタイミングをうかがいました。なお、この戦において義輝は三好軍に味方するよう兵を出しています。

将軍地蔵山の戦い要所マップ。色塗部分は山城国。青は三好方、赤は六角方

河内の守護を任され高屋城主であった長慶の弟・実休は、弟の安宅冬康ら一族の兵を岸和田に集め、その数は7000あまりになりました。京都では長慶嫡男の義興、重臣の松永久秀がそれぞれ同じく7000の兵を指揮しました。

対する六角・畠山連合軍の兵は合計2万ほどであり、岸和田と京都の両方で三好軍は押されていました。

7月末ごろから小競り合いが続き、戦いは数か月続きます。将軍山城と岸和田のそれぞれの連合軍は示し合わせ、決戦となったのが11月24日のことです。

両軍は一斉攻撃をかけ、義賢は白川口の神楽岡を占拠しましたが、三好の守りは堅く、永原重隆の一族・永原重澄らが討死しています。この重澄を討ち取ったのが久秀で、勢いよく義賢の陣に攻め込もうとしますが、六角軍の弓兵の射撃によって敗走を余儀なくされました。

続く久米田の戦いで三好実休が討死

その後も、数か月膠着状態は続きます。

やがて岸和田の久米田で高政と戦っていた実休が翌永禄5(1562)年3月5日に戦死。総大将を失った三好軍は崩れ、は高政の勝利で終わります。(久米田の戦い)

実休の死は三好衰退の遠因になったといわれますが、これに続く戦い「教興寺の戦い」では三好軍が勝利し、畠山軍を再び紀伊まで追いやっています。高政の敗北を機に、義賢も長慶と和睦することになり、一応の決着はつきました。

とはいえ、実休を失ったショックから立ち直る前に長慶は翌永禄6(1563)年8月に嫡男の義興まで失ってしまいます。相次いで身内を失った悲しみにより、長慶は心身を病んでしまったといわれ、次ぐ永禄7(1564)年5月には弟の安宅冬康を誅殺してしまうのです。病は悪化し、長慶自身の命まで短くしてしまいました。

六角義賢と畠山高政との戦いは、長慶の勢力を衰退させるきっかけになったと言っていいでしょう。


【参考文献】
  • 『国史大辞典』(吉川弘文館)
  • 日本史史料研究会監修『室町幕府全将軍・管領列伝』(星海社、2018年)
  • 福島克彦『戦争の日本史11 畿内・近国の戦国合戦』(吉川弘文館、2009年)
  • 今谷明『戦国三好一族 天下に号令した戦国大名』(洋泉社、2007年)
  • 長江正一 著 日本歴史学会 編集『三好長慶』(吉川弘文館、1968年 ※新装版1999年)

※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。

  この記事を書いた人
東滋実 さん
大学院で日本古典文学を専門に研究した経歴をもつ、中国地方出身のフリーライター。 卒業後は日本文化や歴史の専門知識を生かし、 当サイトでの寄稿記事のほか、歴史に関する書籍の執筆などにも携わっている。 当サイトでは出身地のアドバンテージを活かし、主に毛利元就など中国エリアで活躍していた戦国武将たちを ...

コメント欄

  • この記事に関するご感想、ご意見、ウンチク等をお寄せください。