永禄11年(1568年)、信長は上洛して足利義昭を第15代将軍に擁立した。そして義昭が仮御所である京都の二条城へ移ったときのことである。(『名将言行録』)
── 京都・二条城 ──
いまだ戦はまだ止まぬな。身の危険もあるゆえ、勇猛なる将を1人、わが護衛の任にあたらせよ。
・・承知いたしました。
このときの織田家中では老練な将である佐久間信盛、柴田勝家、丹羽長秀の3人が信長に重用されていた。
家臣A:やはり将軍様の護衛は佐久間殿か柴田殿か丹羽殿かのう。
家臣B:わしは柴田殿だと思うわい
家臣C:いや、佐久間殿であろう・・
家中の者は皆、将軍義昭の護衛にあたるのはこの3人のいずれかだと思っていた。がしかし、皆の予想に反し、意外な人物が護衛に命じられたのである。
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将軍護衛の一件であるが・・
猿(=秀吉)!そちに任せようと思う。頼んだぞ。
はっ!?
は、ははあっ!ありがたくお引き受けいたしまする。
家臣A:えええっ!?
家臣B:なぜ猿なのじゃ~~
家臣C:うぎゃ~~~!!
家中の者は一同に驚き、一部の家臣らは秀吉を妬んでしばしば信長に讒言したが、信長はこれに耳を傾けずに秀吉をますます重用したのである。
そして信長は常々に言っていた。
人を用いる道は、その者の才能のあるなしによって選ぶべきもの。奉公年数の多い少ないを論ずべきではない。
と。信長が家臣の能力をよく知り、適材適所に用いるのはこのような考えのもとにあった。人々は信長のこのような考えにますます心服したのである。