「出浦昌相(盛清)」俳優・寺島進さん演じた忍者の棟梁。その魅力を再確認しよう!
- 2018/12/26
2016年に放送されたNHK大河ドラマ「真田丸」では、俳優・寺島進さんがその役を演じ、その存在感で視聴者の心をわしづかみにしてしまいました。でもなぜ、出浦昌相の生きざまはそこまで人々の心をひきつけたのでしょうか。その生涯をたどりつつ、彼の魅力を再確認していきましょう!
もともと出浦家は信濃国衆・村上義清に仕えた一族
昌相は天文15年(1546年)、信濃の国、埴科郡出浦にて生を受けました。
父は出浦種清。昌相は出浦家の次男にあたります。昌相の名は出浦盛清(いでうら もりきよ)としても知られていますが、実名は「昌相」で間違いないようです。
もともと出浦氏は、信濃国衆である村上義清に仕えた小規模国衆でした。しかし、主である村上義清は、天文22年(1553年)に武田信玄に敗れ、越後へと追いやられてしまいます。出浦家はその後、武田家へと仕えるようになりました。
武田家では甲州透破の棟梁として活躍
武田家は甲州透破と呼ばれる透破(忍者)を抱えており、手足のように自在に使っていたというのは有名な話です。武田家の透破は「三つ者」と呼ばれ、戦の戦局を大きく左右する存在であったと言われています。ちなみに三つ者とは、間見、見方、目付の3職の総称です。彼らは様々な職業の姿に扮して情報収集をしたり、諸国の動向を観察したりといった多様な諜報活動に携わっていました。
さて、昌相が初めて確かな資料に登場するのは、それから20年余り後の天正2年(1574年)のこと。このころ武田家より甲州の透破の棟梁を任されていた昌相は、欠落(かけおち)した奉公人の連れ戻しを命じられています。
かけおち、とは言っても、戦国時代の欠落は男女が手を取り合ってよその土地に逃れる現代の「駆け落ち」とは意味合いが大きく異なります。当時の欠落とは、戦乱や重税、貧困などを理由に無断でよその土地に逃げ移ることを指し、重大な犯罪行為とみなされていました。欠落は欠落者が所属する家や地域にも、連帯責任として、懲罰を負わされます。
昌相は透破の仕事の一環として、欠落者の連れ戻しの任に当たったのではないかと考えられます。各地に散らばる透破らの情報網なくしては連れ戻しは困難です。まさに昌相にうってつけの任であったといえるでしょう。
武田家においては、真田昌幸の与力に配されていた昌相。その活躍ぶりは文書にも残されています。天正8年(1580年)に記された「加沢記」には昌幸の陣立書に「出浦上総介」としてその名が登場。昌幸とともに戦にも出向いています。また、出浦家に伝わる文書には天正9年(1581年)に昌幸が新府城の普請を指示した旨が残されています。このころから昌幸に近い存在として信頼されていた様子がうかがえます。
武田滅亡後は織田家臣の森 長可に従属するが…
天正10年(1582年)3月、昌相が仕えていた武田家は甲州征伐で織田信長によって滅ぼされてしまいます。この折に先鋒部隊として活躍した森長可が武田家と入れ替わるようにして川中島四郡(高井、水内、更科、埴科)を預かるようになったため、昌相は長可に従うこととなりました。
しかし、同じ天正10年の6月に本能寺の変で信長が横死すると、これを好機とばかりに武田家の遺臣が相次いで反乱を起こし、離反していきます。そんななか、昌相だけは他の遺臣たちとは違った行動に出ました。
護衛として信濃・美濃の国境まで長可を送り届け、逃亡を手助けしたのです。昌相のこの行動には、家臣となった以上はどのような状況になろうとも主に忠義を尽くすといった信念のようなものが感じられます。長可にとって地獄に仏とはこのことだったでしょう。
無事に国境にたどり着いた長可は、心からの感謝のしるしとして自分の脇差を昌相に贈りました。その後は再び会うこともないであろう主従の静かな別れが思い浮かびます。
真田昌幸に従属後、透破として名を残す活躍をあげる
天正11年(1583年)、昌相は自身の在所である信濃埴科郡・出浦城を後にして、真田昌幸に従属。その後、天正18年(1590年)の小田原征伐では、北条方の忍城攻めで功績を上げていきます。戦乱のただなかでは、透破による情報収集や諜報活動が戦の行方を大きく左右する時代。わけても、昌相の透破としての腕は超一流です。
昌相の透破としての腕前を示す、こんな逸話があります。
──ある時、昌相は自分の配下の忍びに敵城への潜入を指示。と同時に昌相は、配下の者より先に自ら敵城へ潜入して、偵察を完了したといいます。
配下の者のからの報告に過ちがないかを確認していたようです。本来、棟梁ともなれば自ら現場に出向く必要はありません。しかし、昌相は徹底した現場主義、そして完璧主義を貫きます。このような仕事ぶりだからこそ、主からも信頼され、重用されていたのでしょう。
真田信之の厚い信頼を得て、家老に
真田昌幸の死後、昌相は真田信幸(のちに信之と改名)に仕えるようになります。
信之からの信頼は厚く、徳川幕府下の慶長19年(1614年)には「吾妻職方」に任じられて真田家の家老に上り詰めます。信之の命は昌相がその内容を確認し、昌相の黒印状が付されてはじめて実行に移された、と言われています。これほどまでに信之からの信頼を受けた家老は昌相のほかにはいませんでした。
元和8年(1622年)、信之は徳川秀忠に命じられ、転封(幕府の命令で所領の地を移ること)によって上田から松代の地へと移動することとなりましたが、この時に昌相へあてた手紙も、昌相への信頼ぶりが伺えます。
「誠に家の面目であり、何も言うことがないくらいくらい光栄なことだ」としたためた一方で、「自分も年老いた。将軍からの命令でもあり、子孫のためでもあるから命令に従って松代へ行く。心配しないでほしい」と、転封に対する気持ちをつづっています。思わず本音を漏らしてしまうほど、昌相には心を許し、信頼しきっていたのでしょう。
晩年まで活躍、その子孫も家老へ
晩年の昌相は、真田信之、真田信吉の両者に仕え、2つの藩の内政を助けていました。最後まで真田家のために尽力した昌相は元和9年(1623年)、ついにその生涯を閉じました。しかし、その後、昌相の息子・出浦幸吉も1000石にて家老へと出世を遂げています。
透破でありながら、主にこれほど信頼され、重用された人物は昌相のほかにはいないのではないでしょうか。それは、家臣としての実務的な能力もさることながら、自分が仕える人物のために全力で守ろうとする昌相の人柄によるところが大きいのではないかと感じます。
戦に次ぐ戦、裏切りもあたりまえの戦国の時代だからこそ、信義を貫く昌相の姿は一層人々の心をひきつけてしまうのかもしれませんね。
【主な参考文献】
- 平山優『真田信繁 幸村と呼ばれた男の真実』(KADOKAWA、2015年)
- 丸島和洋『真田一族と家臣団のすべて』(KADOKAWA、2016年)
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