戦国時代の忍者は普段どんな生活だった?戦わない忍の暮らしとは
- 2021/06/11
『NARUTO』のような忍者漫画、戦国時代の歴史を舞台に繰り広げられる猿飛佐助など、人物を題材とした創作物……。私たちがふだん触れる「忍者」というと、戦うイメージが強いですよね。歴史上でも忍びは武家とつながりを持っており、どうしてもそういった方面ばかりに注目してしまいがちです。そこで、今回は「忍者の暮らし」をテーマに、戦わない忍者の姿に迫ります。
忍者とは
忍者とは、古代から豪族や領主、大名といった権力者に仕え、諜報活動や暗殺などを生業とする存在です。一般的には「忍者」「忍び」という呼称で知られていますが、「素破(すっぱ)」「軒猿(のきざる)」「草の者」などと呼ばれることもあります。
忍者というと「侍」と並ぶ日本の象徴という印象がありますが、同じような存在は世界各地に古くから存在しています。
忍者は日本各地に存在しており、集団を形成していたため、忍術の流派は数十種類あったとされています。有名な伊賀・甲賀忍者もそれぞれ流派があり、性質が異なっていました。
忍者の里
忍者が暮らした地としてよく知られているのが、伊賀と甲賀の忍者の里です。彼らは忍者の集団を形成し、里の中で暮らしていました。一般的には伊賀と甲賀はライバルとしていがみ合っていたと思われていますが、実際には関係は良好で、互いの里同士で婚姻が結ばれることもありました。
伊賀流忍者
伊賀国(現在の三重県伊賀市・名張市)を拠点としていた忍者の集団です。並び称される甲賀流とは山をひとつ挟んだだけのかなり近い場所に拠点を置いていましたが、性質上異なったのは、伊賀忍者は「金銭の契約だけで雇い主と結ばれている」ということ。複数依頼があれば、例え依頼主が敵対する者同士であっても双方ともに忍者を送ったとされています。
この伊賀流忍者のエピソードでよく知られるのは織田信長との敵対です。「天正伊賀の乱」と呼ばれる戦いで、織田軍との激しい戦闘は有名ですね。
そんな伊賀流忍者はどんな日常を送っていたのか。基本的には里で農耕したり、行商を行ったりして情報を集めていました。伊賀は粘土質で日照りが続くと水田が度々ダメージを受けていたこともあり、忍者としての能力を生かして傭兵として出稼ぎに行っていた者もいたようです。
甲賀流忍者
近江国甲賀(現在の滋賀県甲賀市)を拠点としていた忍者の集団です。雇用主とは金銭の契約以上のつながりを持たない伊賀流と異なり、甲賀流は主君と決めた人物には忠義を尽くす性格でした。
甲賀流忍者も伊賀流忍者と同じく、戦国時代には幕府との戦闘もありました。しかし、日常生活は至って普通。農耕や行商を行って周辺の情報を探り、主君から命令が下れば戦場での工作を行いました。
ちなみに、甲賀流忍者は忍術の中でも薬を扱うことに長けていました。薬草や製薬の知識・経験を持った甲賀流忍者の末裔は、山伏に扮して薬を売りながら各地を回ったとされています。
その名残が現在も残っており、甲賀市には製薬会社が複数あります。遠い遠い先祖から続く知識と技術が今も生きているのです。
変装して隠密活動を行う
忍者の仕事は、基本的には諜報などの隠密活動です。敵の情報を的確に集め、雇用主に知らせることこそ彼らの主たる使命です。情報を持ち帰ることが第一なので、みだりに戦ったりはしません。極力戦闘を避けるため、彼らはさまざまな姿に扮して諜報活動を行っており、それも日常生活の一部でした。その変装の例をいくつか紹介しましょう。
山伏
「山伏」とは修行のために山にこもる僧のことで、「修験者」の別名です。山伏がもつ呪術力・薬の知識、さらに精神修行などは忍者の活動にも役立つものでした。よく忍者が「臨・兵・闘・者・皆・陣・烈・在・前」という「九字」の呪文を唱えて印を切る様子が忍者関連作品に登場しますが、この「九字護身法」は山伏や密教系の修行僧が使用する作法です。こういうところからも忍者と山伏が密接につながっていることがわかります。
僧
僧も山伏と同じような立場です。虚無僧、出家僧などです。忍者が僧に身をやつすこともありますが、僧自身が忍びのように諜報の役割を担うこともありました。時代劇でもよく登場しますよね。例えば『おんな城主直虎』では、和田正人演じる松下常慶という僧(山伏とも)が各地の情勢を知らせる人物・徳川との仲介役として登場しています。
曲芸師・能楽師
芸を生業とする職業は、各地を転々としても怪しまれないので忍者の変装としては便利でした。芸をプロ並みに覚えなければならないという苦労もありますが、諜報活動には適した変装です。商人
主に行商をする商人です。これも曲芸師や能楽師のように各地を行脚しても不審に思われない職業なので、諜報活動の変装に適していました。甲賀流忍者のように薬の知識を持つ忍者は薬売りの姿となって歩き回ることもありました。農民
変装、というより、雇い主から依頼がない平時は農民のように生活をしていました。ふだんの忍者はそれとわからぬ風貌で世間一般の人々と同じように暮らしていたのです。まとめ
忍者は手裏剣や火器を用いて戦う。多くの人はこのようなイメージで忍者を捉えていますよね。たしかに忍者独自の武器や術を用いて戦う場面はありましたが、基本的には「忍者は戦わない」存在でした。忍者にとって最も重要なのは、雇い主に有利となる情報を集め、持ち帰って知らせること。武士ならばもし負ければ潔く死を選ぶところですが、忍者は命あってこそ。生き延びる方法を選びます。
そんな彼らができるだけ戦わずに仕事を完遂する方法が、変装して隠れながら活動するということでした。忍者は修行で得た技能、知識などを生かし、普段は農民として、時には山伏や曲芸師、行商人となり、市井の人々にまじって生活しながら諜報活動を行っていたのです。
【参考文献】
- 西ヶ谷恭弘『戦国の風景 暮らしと合戦』(東京堂出版、2015年)
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