「秋山伯耆守虎繁」あの家康を畏怖させ、"武田の猛牛"の異名をもつ

 有能な戦国大名といえば武田信玄が真っ先に挙げられますが、そんな信玄は才能豊かな多くの家臣にも恵まれていました。江戸時代の浮世絵には、信玄を含めた二十四人の武将が「武田二十四将」として描かれています。

 今回はそんな武田二十四将のひとりに数えられ、”武田の猛牛” と呼ばれて畏怖された秋山虎繁(あきやま とらしげ)についてお伝えしていきます。異名を聞くと猪突猛進のイメージが強いですが、はたしてどのような人物だったのでしょうか?

甲斐源氏の庶流

武田氏と並ぶ名族

 秋山氏は実は甲斐源氏の庶流です。祖を辿ると甲斐源氏の祖・源清光に行き着きます。その孫にあたる源光朝が秋山に移住し、秋山の姓を名乗るようになったと伝わっています。血統は信玄にも劣りません。ただし、秋山光朝は平氏や木曽義仲など形勢に応じて主を変えたために、源頼朝からの信頼はなかったようです。

 虎繁の父親である秋山新左衛門信任は、秋山氏代十九代目の当主で、虎繁はその信任の嫡男にあたり家督を継ぎました。若い頃の名前は善右衛門尉、一般的には秋山信友の名前で知られていますが、最近になって秋山伯耆守虎繁と自署した文書が発見され、信友ではなく正式には虎繁と呼ばれています。伯耆守を受けたのは永禄2年(1559)以降で、永禄8年(1565)までのことです。

伊那郡代として活躍

 名族の出ですが、それだけで信玄に重用されたわけではありません。もちろん虎繁は戦場でいくつもの武功をあげています。信玄の近習を務めた後、天文16年(1547)には戦場での活躍ぶりが認められ、50騎の侍大将に抜擢されました。

 天文22年(1553)、真田幸隆が調略によって村上義清から拠点である葛尾城を奪い取った後には、虎繁がその葛尾城に入り戦後処理を担当しています。この時期から虎繁は信濃国の国衆をまとめる立場になっていくのです。

 翌年には伊那郡の反乱を鎮め、伊那郡代を任されるようになり、この時期から大島城城代を務めています。弘治2年(1556)には、信玄は伊那郡の防備を固めるためさらに虎繁に板西氏、一瀬氏、知久衆、春近衆など200騎を統率させています。虎繁の名前が春近または晴近と呼ばれていたのは、この春近衆を率いていたための誤解のようです。

 虎繁はこれで250騎を率いる大勢力となり、兵力としては武田氏の中でも力を持つ穴山氏や木曾氏、小山田氏をしのぎました。信玄からそれだけの信頼を得ていたということです。永禄2年(1559)には伊那郡の春近衆の所領問題も解決しており、その後はこの春近衆を率いて隣国に侵攻していきます。

 『甲陽軍艦』によると虎繁は信濃国の高遠城の城主として上伊那郡代を務めていましたが、永禄5年(1562)に信玄の息子にあたる諏訪勝頼(後の武田勝頼)が高遠城の城主になったため、飯田城に移ったと記載されています。

 伊那郡を治めていたのが虎繁であったと考えて問題ないでしょう。そう考えてみると、新たな支配地をうまく統治する政治力も虎繁は兼ね備えていたことがうかがえます。戦場での活躍だけでなく、国を治める力も信玄から認められていたからこそ、ここまで出世することができたのです。

信玄の重臣として存在感を発揮

外交交渉もできた虎繁

 やはり信玄からの期待は大きく、虎繁は伊那郡にあって美濃国、遠江国、三河国への対応を託されました。桶狭間の戦いで同盟を結んでいた今川義元が討たれると、信玄は織田信長との距離を急速に縮めていきます。そして今川氏の領土である駿河国、遠江国への侵攻の準備を進めていくのです。

 そんな中、信長との同盟交渉を取り次いだのが虎繁でした。信玄がこの時点でどこまで信長の実力を認めていたのかはわかりませんが、義元を討ったほどの相手ですから対応には細心の注意を払ったはずです。信玄が安心して任せられるほど、外交交渉にも虎繁は長けていたのでしょう。

 永禄10年(1567)には信玄の五女である松姫と信長の嫡男である織田信忠との婚約を取り付けました。結納の返礼使者として虎繁は岐阜に赴いています。ちなみに松姫はこの時、わずか7歳。信忠の正室としての扱いでしたが、実際は甲斐国にとどまっています。

奥三河への侵攻

 信玄が今川氏の領土に侵攻したのが永禄11年(1568)です。信長の同盟相手である三河国の徳川家康とも相談したうえでの駿河侵攻であり、両者の間には武田氏が駿河国を支配し、徳川氏が遠江国を支配するという取り決めがありました。

 しかし、信玄自らが駿河国に侵攻した際、虎繁が遠江国へ攻め込んだために家康から抗議を受けています。虎繁が独断で他国に攻め込むことなど考えられないので、信玄からの指示だったのでしょう。信玄としては駿河国だけではなく、どさくさに紛れて遠江国まで勢力を拡大しようとしたのです。

 当然のようにここから武田氏と徳川氏の関係は悪化していきます。そして元亀3年(1572)9月から信玄は西上作戦を実行し、完全に敵対します。虎繁は別動隊として春近衆を率いて山県昌景と共に徳川領土である奥三河へ攻め込み、奥平氏や菅沼氏の諸城を陥落させてから、信玄本隊に合流しています。

西上作戦における武田軍の進路
西上作戦における武田軍の進路(1572~1573年)

織田攻略の重要拠点・岩村城の城主に

遠山景任の死

 西上作戦がはじまる少し前、東美濃の岩村城の城主である遠山景任が病没します。遠山氏は織田と武田の両氏に従属するような存在でした。

 景任の正室が信長の叔母にあたる岩村殿(おつやの方)であり、信長五男の御坊丸も景任の下に養子縁組させていたように、信長は遠山と縁戚関係を結んで岩村城の守りを固めていました。しかし一方で景任は生前から後継者争いの後ろ盾として信玄に通じており、主従関係があったのです。

 景任の死後、岩村城は武田方に属することになりますが、おつやの方は亡き夫の意思を継いで武田方に付いた、というのもあるかもしれません。

美濃・岩村城址
美濃・岩村城址。六段壁と言われる本丸虎口の石垣

岩村殿(おつやの方)を娶る

 なお、岩村城が武田方に従属した経緯としては以下の2つの説があります。

  • 虎繁が西上作戦のときに東美濃に侵攻し、包囲した末に降伏させたという説
  • 武田軍の勢いに恐れて自ら明け渡し、信長五男の御坊丸を人質に送っていう説

 従来の説は前者でしたが、これは近年の研究で否定されており、後者が事実とみられています。

 虎繁の西上作戦の進路は東美濃ではなく、山県昌景隊とともに「三河→遠江」と辿って信玄本隊と合流したとされており。その後、12月22日の三方ヶ原の戦いでは徳川勢相手に猛攻を仕掛け、追撃された家康は「猛牛のような恐ろしい男だ」と畏怖したと伝わっています。

 岩村城が降伏、開城となった時期は三方ヶ原より少し後のことと考えられています。また、虎繁がおつやの方を娶って入城したのは事実です。ただし、その指示は信玄ではなく、勝頼と推測されています。

 こうして虎繁は岩村城主となります。

信長に降伏後、処刑される

 ここまで順風満帆に進んでいましたが、元亀4年(1573)に信玄が病没し、西上作戦が中止されると、一転して押され気味になります。なにせ岩村城は信長の本拠地である岐阜城に最も近い武田勢の拠点なのです。

 特に厳しい状態になったのが、天正3年(1575)の長篠の戦いで武田勢が大敗してからで、織田勢2万の兵力に包囲されてしまいます。信玄の後継者である勝頼も援軍を出す余裕はなかったようで、援軍の要請から5ヶ月間も動きをとれていません。

 援軍の期待ができない虎繁は大規模な夜襲を仕掛けましたが、敗北して1100人もの将兵を失いました。兵力、兵糧が乏しい中、城内の兵の命は助けるという約定を取り付けて虎繁は降伏します。

 しかし信長はこの約定を破棄し、虎繁を処刑して磔にし、城内の兵も皆殺しにしました。おつやの方も信長の肉親ながら処刑されています。ようやく援軍に向かっていた勝頼も落城を聞いて引き返しました。

おわりに

 統治においても、戦場での武勇においても、そして外交手腕においても才能を発揮した虎繁。もし信玄が病没することなく西上作戦を継続できたのならば、東美濃の岩村城から美濃国一帯に勢力を拡大し、信長を追い詰めていたことでしょう。


【主な参考文献】
  • 柴辻俊六『武田信玄合戦録』(角川学芸出版、2006年)
  • 平山優『新編武田二十四将正伝』(武田神社、2009年)

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  この記事を書いた人
ろひもと理穂 さん
歴史IFも含めて、歴史全般が大好き。 当サイトでもあらゆるテーマの記事を執筆。 「もしこれが起きなかったら」 「もしこういった采配をしていたら」「もしこの人が長生きしていたら」といつも想像し、 基本的に誰かに執着することなく、その人物の長所と短所を客観的に紹介したいと考えている。 Amazon ...

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