「徳川家慶」凡庸な江戸幕府第12代将軍は人事と時勢を見極める天才!?
- 2021/04/02
黒船来航によって、江戸時代の日本は転換点を迎えます。
しかしそれより前に、押し寄せる時代の波から日本を守ろうとした人物がいました。
江戸幕府の第12代将軍・徳川家慶(とくがわ いえよし)です。
当時の日本は政治腐敗が進み、財政は破綻に向かって突き進んでいました。家慶は内政問題や外圧といった国難に面した日本と向き合い、幕政改革に乗り出します。
その中で水野忠邦や阿部正弘を登用し、政治改革策を実行。しかしその行手に多くの問題が立ち塞がります。
家慶の行った政策が、その後の日本にどう影響を与えたのでしょうか。
徳川家慶の生涯を見ていきましょう。
不遇の継嗣・将軍時代
徳川全盛期の将軍の次男として誕生
寛政5(1793)年、徳川家慶は、江戸幕府第11代将軍・徳川家斉の次男として江戸城で生を受けました。生母は家斉側室の香琳院です。幼名は敏次郎と名乗りました。
この年に長兄の竹千代が夭折したため、家斉の嫡男である将軍継嗣として位置付けられました。
父の家斉は、江戸幕府の将軍の中でも最長の期間、将軍職を務めています。
当時の幕府の権勢は絶頂期にありました。家斉は政治には無関心で、大奥に入り浸る生活だったと伝わります。
しかし同時に政治は腐敗を極め、幕府政治が退廃していく時代だったとも言えます。
寛政9(1797)年、家慶は元服。同時に従二位に叙せられ、権大納言に任じられています。
位階においては、五位以上は殿上人、三位以上は公卿と位置付けられています。殿上人は朝廷の清涼殿への昇殿が許され、公卿は国政を担当するほどの高官でした。
元服したばかりの家慶は、すでに周囲からかなりの期待を集めていたことが窺えます。
同時にこの時は、幕府の権勢がそれほどに強かったということでもありました。
文政10(1827)年には従一位に叙任。内大臣に任官されます。従一位の叙任は、将軍継嗣の身では初めてのことでした。
将軍宣下と「そうせい様」
天保8(1837)年、家慶は父の後を継いで征夷大将軍に就任。四十五歳でのことです。
しかし実権は父・家斉が握っていたようで、大御所としてなおも政治に影響力を有していました。さらに家斉・家慶父子は不仲であったようです。
家斉とは信仰する宗派も違い、家斉派が家定(家慶嫡男)毒殺を画策した噂もありました。将軍となったはいえ、家慶の政治的基盤は決して磐石ではなかったようです。
そのため政治とは距離を置きつつ、趣味に没頭するようになります。
家慶は絵画制作に優れた腕を持っていたようです。直筆の絵が残されており、その達筆ぶりを偲ばせます。
しかしこれが後世、批判の対象ともなっていました。家慶は趣味にのみ深く没頭し、政治に疎かったという評価が下されます。
実際に家慶は家臣の意見には「そうせい」と言うことが多かったために「そうせい様」と言うあだ名で呼ばれています。
のちに松平慶永は家慶を「凡庸の人」と評していますが、これは必ずしも正しい評価ではないようです。
家慶が将軍となった当時は、父・家斉が大御所として実権を握っていました。
発言力がない時代に、指導力を発揮するのは至難の業です。一面のみでの評価は正しいとは言えません。
天保の改革と人物登用
水野忠邦を抜擢する
しかし家慶が優れた政治手腕を発揮する時代がやって来ます。天保12(1841)年、父・家斉が病により世を去りました。
ほどなくして家斉の旧臣一派は、家定排斥に動きます。このため家慶は旧家斉派を政治の表舞台から粛清。さらに家斉が決めた三方領知替えの撤回を行います。こうして家慶は、自らが政治の実権を握るべく動き出したのでした。
家慶は人事において、老中首座の水野忠邦を重用。家斉の時代から乱れた政治を正すため、天保の改革を断行させました。
この改革は、当時の日本が抱える内憂外患に対処するためのものです。
国内においては家斉以来の腐敗政治の打破のため、綱紀粛正と人事の刷新が求められていました。
海外では清国が英国にアヘン戦争で敗北。日本も外国船への打払令から薪水給与令を出して、燃料や食料の支援を行う路線に舵を切ります。その一方で幕府は、近代軍備を整えて軍政改革を行っていきます。
しかし必ずしも改革が民衆の支持を得られたわけではありませんでした。
天保の改革は、抜本的な財政再建政策を基本としています。緊縮財政政策と奢侈の取締りを行い、さらに風紀の厳格化を図るといった内容です。
さらには改革の中には言論統制も含まれていました。
これが知識人からの反発を招くこととなります。蘭学者たちは幕府の鎖国政策を批判。このため幕府は蛮社の獄によって蘭学者を弾圧し、高野長英や渡辺崋山らが逮捕されています。
改革の表舞台に立ったのは水野忠邦でした。しかし水野を見込んで老中首座に登用したのは、家慶自身です。家慶はある意味でこの改革の主導的立場にありました。
この当時の家慶の逸話が残っています。将軍としての家慶が決して強権的な立場ではなかったことを窺わせる話です。
焼き魚の添え物になる生姜が大好物だったと伝わります。しかし天保の改革の際には、質素倹約のために生姜が膳に上らなくなり、憤慨したといいます。
将軍である家慶も、決して改革の対象外ではありませんでした。そこに反発を覚えるところに、家慶の人間臭さがあると言えます。
上知令の発令と撤回
天保14(1843)年、家慶は日光東照宮に参拝。結果として、この家慶の社参が徳川将軍として最後となりました。
同年、幕府は上知令を発令。江戸や大坂周辺の大名らの領地を天領(幕府領)に編入する政策でした。
当時の日本近海には、外国船が頻繁に出没しています。将来的には有事の対応が求められる段階にまで来ていました。
江戸(政治の中心)と大坂(経済の中心)の防備は急務であったと言えます。
計画では、幕府が両都市の十里四方の土地を大名や旗本から没収。その末で代替地を幕府から支給するという内容でした。
しかしこれは猛烈な反発を受けてしまいます。結果、翌年には家慶の判断によって撤回されています。
結果、改革の責任者である忠邦は老中免職となって失脚。天保の改革は頓挫してしまいました。
しかしこの上知令は、明治の廃藩置県に先んじた政策だとも言えます。両政策は中央集権国家の実現と、財源確保という面で共通する面がありました。
段階的な経過を踏んで実行すれば、或いは幕府全盛期であれば成功した可能性は大いにありました。
しかし家慶は政治改革を諦めてはいなかったようです。
ほどなくして家慶は、老中の阿部正弘らに政治を委任するようになります。このとき、阿部はまだ二十四歳と若年でした。しかし家慶は阿部の聡明さを見抜き、老中首座に抜擢したのです。
こうした決断から、家慶の評価は決して暗愚だと言えません。『続徳川実紀』では「性質沈静謹肅にして、才良にましまし」と評価を受けています。
内憂外患への対処
諸藩の人事にも影響力を行使する
家慶の指導力は、幕府だけでなく他藩にも及びます。
この頃、外様の薩摩藩ではお由羅騒動が勃発。幕府はこのお家騒動に介入して、家慶の命令で藩主の島津斉興を隠居させています。
家慶は外様大名だけでなく、身内にも厳しい処分を下しています。
その一例が水戸藩主の徳川斉昭です。
斉昭は領内において、仏教を弾圧。軍事演習に軍事演習における鉄砲斉射を行っています。
このことが問題視され、斉昭は隠居謹慎を命じられました。
しかし一方で、家慶は斉昭に近い人間を厚遇しています。
斉昭の七男・七郎麿(徳川慶喜)に一橋家を相続させています。
これにより、慶喜は将軍職を継承する立場の一人となりました。
家慶は慶喜に次期将軍職を継承させる意図があったとも伝わります。家慶の嫡男・家定は病弱で障害があったため、家慶は憂慮していました。
実際に家慶は、家定へのリハビリも行わせています。これ自体が近代や現代に通じる取り組みです。この効果はなかったようですが、後年になって家定は見事な政治的判断を下しています。
黒船来航の中で世を去る
嘉永6(1853)年、アメリカのマシュー・カルブレイス・ペリーが浦賀沖に来航。四隻の軍艦の出現に、世情は混乱を帯びていきます。
同年、幕閣が対応に追われる中で家慶は病によって世を去りました。熱中症による心不全だと言われています。享年六十一。戒名は慎徳院殿天蓮社順譽道仁大居士です。墓は芝の増上寺にあります。
家慶自身はかなりの大酒飲みだったと伝わります。大皿に酒を自ら注いで飲んだ話が残っているほどです。この習慣が家慶の寿命を縮めたと考えられます。
家慶の死後、後を継いだのは嫡男・家定でした。家慶は家定など十四男十三女がいたと伝わります。しかし二十歳まで生き残ったのは嫡男の家定ただ一人だけです。
ほどなくして、家定は江戸幕府第13代征夷大将軍に就任。徳川宗家の主となって国難に当たっていきます。
【主な参考文献】
- 『Discover Japan』8月号 エイ出版社 2012年
- 久住真也『幕末の将軍』 講談社 2009年
- 篠田達明『徳川将軍家十五代のカルテ』新潮社 2005年
- 土井良三『評伝 堀田正睦』国書刊行会 2003年
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