「豊臣秀次」豊臣政権2代目関白、切腹事件の謎を読み解く!

私の長い歴オタ人生の中で、豊臣秀次が好きだという人にお目にかかったことがない。豊臣秀次の話になると「秀次ねえ…。」というあまり気のない返事が返ってくるのである。

秀次はれっきとした秀吉の後継者、つまり関白である。最高権力者でこれほど残念な評価をされている人物は極めて珍しい。これほどなのは、他に室町幕府8代将軍足利義政くらいのものであろうか。しかし、実際の秀次は義政よりは、かなりましだろうというのが私の意見である。

治兵衛は秀吉の実の甥

豊臣秀次は、もとの名を「治兵衛(じへえ)」といい、永禄11年(1568年)秀吉の姉「とも」と弥助の長男として生を受ける。つまり、治兵衛は秀吉の実の甥にあたる。

秀吉があれほど出世しなければ武将になることも、ましてや関白になることもなく、故郷の尾張国大高村の百姓としてその生涯を終えていたことだろう。身内の出世が彼の人生を狂わせたというのも皮肉な話である。

長かった養子生活

治兵衛の運命の歯車がキシキシと音を立てて回り始めたのは、織田信長の小谷城攻めのあたりからである。

浅井氏の居城である小谷城は、堅固な山城として知られ、その城攻めは困難を極めた。このため、秀吉は小谷城周辺の支城を調略し小谷城を孤立させる作戦に出たのである。

宮部家の養子時代

有能な武将であった宮部城主・宮部継潤(みやべけいじゅん)の調略に際して、継潤の身の安全を担保するためその養子となったのが治兵衛であった。

治兵衛は当時4歳であったという。養子とは言え、実質的には人質であったわけであるから、治兵衛の心細さは想像を絶するものであったに違いない。

秀次の宮部家での名は「吉継」であった。彼の傅役は田中久兵衛が務めたという。久兵衛はのちに名を吉政と改めるが、吉継が宮部家から戻されて以降も家臣として吉継に仕えたというから、良好な主従関係を構築していたものと思われる。

この点からも、吉継が暗愚であったならここまで忠義を尽くすであろうか、という疑問が浮かび上がってくる。

今度は三好家の養子に

天正元年(1573年)、小谷城の戦い以降、宮部継潤は秀吉の与力となる。人質から解放され、ほっとしたのもつかの間、今度は松永久秀や三好一族と畿内の統治を巡っての争いとなる。

結果的にどちらも信長の軍門に下るが、阿波に勢力を持つ三好康長は茶人としても有名で、名器として名高い茶器「三日月の茶壺」を所有していたことでも知られる。信長が名物狩りをしていることを聞き及んでか、康長は松井有閑を介して「三日月の茶壺」を献上したことにより、家臣として重用されるようになったという。

その後、康長は秀吉に接近するが、これは、阿波を巡って長宗我部元親と対立していた康長と毛利攻めのため、長宗我部を四国に抑え込んでおきたい秀吉の利害が一致したものと思われる。両家は連携を深めるべく養子縁組を考えるが、このとき養子に出されたのが吉継であった。

養子に出された時期については諸説あるがとにかく、吉継は三好康長の養子となり、今度は「三好信吉」と名乗る。康長は茶人としてでなく歌人としても有名であったから、信吉の教養人としての素養は三好家時代に培われたと言ってよいであろう。

15歳で大名へ

天正10年(1582年)、本能寺の変が起こるが、その後ほどなくして康長は何故か出奔してしまう。康長の息子の康俊も時期を同じくして亡くなってしまったため、この頃には家臣団を束ねる立場のものが信吉のみという極めて異例の状況となる。結果として、信吉は15歳にして河内北山2万石を領する大名となってしまうのである。

信吉はつくづく「天下」に翻弄される運命にあったらしい。さらに、翌年の賤ヶ岳の合戦において秀吉が柴田勝家を下し、信長の後継者としての地位を確立すると、信吉はさらに矢面に立たされることとなる。

というのも秀吉にはこの時点で実子がおらず、近親者や子飼いの者で家臣団を作り上げる必要があったのであるが、近親者もあまり多くはなかった。秀吉の弟・秀長が補佐役としてすでに辣腕を振るってはいたが、その脇を固める一族の者がいなかったのである。

この点を考えると、ただでさえ数少ない近親者の中でも、二世世代の最年長であった信吉に注目が集まるのは当然の成り行きであったろうし、田中久兵衛の補佐はあったとは言え、三好家を無難に切り盛りしていた信吉に秀吉は期待を寄せていたのかもしれない。

この動きもあり、信吉は天正12年(1584年)に羽柴家に戻り、「羽柴信吉」と名乗った。

小牧長久手

最初に述べておくが、信吉が戦で失態を演じたのは、同年に行われた小牧長久手の合戦のみと言ってよい。相手は徳川家康率いる三河武士である。三河武士は精強かつ老獪な戦いぶりで知られ、まだ若かった信吉には荷が重すぎただろう。

さらに、信吉は秀吉に認められたいという気負いがあったようで、池田恒興と森長可が三河への「中入り」策を秀吉に献策するや、総大将となることを志願したという。

望み通り総大将となった信吉であるが、途中までは順調だったものの白山において白山林で榊原康政・大須賀康高らに背後から奇襲され大敗を喫する。榊原康政といえば徳川四天王の一人として知られる猛将であったことを考えると少々運がなかったという面はあるだろう。しかし、秀吉としては信吉を総大将に選んだ面目を潰され大激怒となる。

徳川四天王の一人で戦に長けた榊原康政の肖像画
徳川四天王の一人で戦に長けた榊原康政

秀吉からお灸をすえられた信吉は、その後翌天正13年(1585年)の紀伊雑賀征伐や四国征伐では獅子奮迅の働きをする。同年7月に秀吉が関白に就任する前後には、信吉は「秀次」と改名。小牧長久手での汚名は挽回できたようである。

人生を変えた秀長の死

天正19年(1591年)1月22日に豊臣秀長が病没する。その時点での秀長の官位は大納言、そして秀次は中納言であった。

豊臣政権を支えた秀吉の弟・豊臣秀長の肖像画
豊臣政権を支えた秀吉の弟・豊臣秀長

当初、天下人秀吉の後継者候補とされた養子秀勝(信長の4男)は病弱で1586年になくなっていた。これを見ると、もし秀長が生き続けていたならば、豊臣家として2代目関白になったのはおそらく秀長であろう。

そして秀次が大納言として秀長を補佐するという布陣になったものと思われる。実直な秀長であれば秀頼が成人するまでしっかり政権運営を行い、その後関白の位を秀頼に譲ったはずである。

また、秀次と異なり、男子に恵まれなかった秀長であれば、自分の子を関白にしようという野望も起きるはずがなく、秀吉に疑念を抱かれる恐れも極めて少なかったのではないか。

殺生関白

秀長の死により二代目関白となった秀次だが、その残虐なふるまいで「殺生関白」と呼ばれるようになったのは有名な話である。

ただ、意外なことに秀次に関する一次史料に「殺生関白」の記述は存在しないということはご存じだろうか。不思議なことに、「殺生関白」についての記述は太田牛一の『大かうさまくんきのうち』にいきなり現れる。

『大かうさまくんきのうち』は1610年頃に成立した史料である。一次史料とはいい難いこともさることながら、もはや徳川の世になっていたということで太田牛一の徳川幕府への配慮があったことは否定できない。

太田牛一と言えば、『信長公記』の著者としてあまりにも有名であるが、秀吉の指示によって『信長公記』を改ざんした「疑惑」があることも非常に気になる点である。秀次事件についての記述がある『甫庵太閤記』や『川角太閤記』が、この『大かうさまくんきのうち』より後に書かれていることを考えると、秀次悪評の元ネタは『大かうさまくんきのうち』である可能性が高い。

では、権力バイアスがあまりかかっていない宣教師たちの意見はどうだったのであろうか。

宣教師ルイスフロイスは秀次について「穏やかで思慮深い性質である」と記している。一方で、フロイスは秀次には死罪人を生きたまま試し斬りする残虐な振る舞いがあったとも記しているが、この試し斬りは「生き胴」と呼ばれるもので、当時日本ではタブー視されていなかったようである。

さらに、歴史学者の小和田哲男氏によると、秀次は秀吉が持っている刀剣の鑑定を任されていたという。

これらを考え合わせると、「生き胴」を秀次が行っていたこと自体は特に問題なかったのではないだろうか。

秀次事件の謎

秀次事件の通説は、秀吉への謀反を疑われた秀次が高野山へ追放され、その後切腹させられたというものである。

高野山での豊臣秀次を描いた『月百姿』(月岡芳年 画)
高野山での豊臣秀次を描いた『月百姿』(月岡芳年 画。出典はwiki

ところが、秀次の謀反を証明する一次史料は、殺生関白同様に皆無だというのだ。一次史料に記されているのはいずれも、「秀次は自発的に高野山に向かった。」という内容である。

例えば、『言経卿記』には「秀次は7月3日より太閤と仲たがいなさって、太閤に面会するため伏見へ行ったが、秀吉と義絶して夕方には出家し、高野山に向かった」とある。また、『大外記中原師生母記』では「関白が元結を切って高野山へ御出奔なされた」という記述が見られる。

このことから、秀次は命令されてではなく、自らの意志で高野山へ向かったことは間違いないと思われる。さて、ここで秀次出奔から切腹までの出来事を時系列にまとめてみよう。

  • 7月8日 秀次が高野山へ出奔
  • 7月12日 「秀次高野住山令」が出される
  • 7月13日 「秀次切腹命令」が出される
  • 7月15日 秀次切腹

「秀次高野住山」令については『佐竹家旧記』などに複数の写しが認められ、その書状は秀吉の朱印状という体裁を取っているという。

矢部健太郎氏著『関白秀次の切腹』によれば、この文書は秀吉及び秀次が生きていた時代の文書で、しかも高野山に到着していたことが確認できるのだそうだ。

わざわざ料理人まで派遣していることから、住山は切腹を前提としたものではなく、しばらく高野山で謹慎させることが目的であったようだ。さらに、秀次及び周りの者が刀・脇差を持つことも禁じていることから、秀次の自決を防止する意図もあったと思われる。

秀吉は秀次を、秀頼にスムーズに政権移行させるためにも、「絶対に死なせてはいけない人物」と認識していたのではないだろうか。

秀次切腹命令はおそらく偽り

それを踏まえたうえで、翌日の7月13日に出された「秀次切腹命令」を見ると、どうも違和感を覚えてしまう。

まず、この文書は『甫庵太閤記』に記されているのみで、現存する写しすら確認されていない。そして、その発給者は浅野長吉(長政)をはじめとする奉行5人とされるが、浅野長吉はこの当時蒲生家遺領問題で東北にいたはずであるなど、辻褄が合わない点が散見している。

以上のことから、「秀次切腹命令」は偽書である可能性が高いと思われる。よって、この文書はそもそも存在せず、7月15日朝に福島正則・福原長堯(ふくはら ながたか)・池田秀雄のいわゆる「三使」が、秀次のいる高野山を訪れた際に携えていた書状は「秀次高野住山令」ではないか、と前出の矢部健太郎氏は述べている。

私もそうだと思う。正則たちが切腹を見届け、その首を持ち帰ったという記述は一次史料に全く見られないという点も不可解だからだ。となると、秀次は正則ら三使が帰ってから自ら切腹したことになるが、そのきっかけは何だろうか。

とある人物が裏で糸をひいた?

ここまできて、私はあることに注目し始めた。その「あること」とは、この時期の豊臣政権では近江衆が幅をきかせ始めていたことである。

そもそも、かつては秀次も近江衆である宮部継潤の養子であった時期があるし、宿老の田中吉政も近江衆なのである。さらに、秀次の所領は近江八幡であるから完全に近江衆に取り込まれていると言ってよい。そして、秀頼の生母淀殿は浅井長政の娘であるから、これまた近江衆なのである。

これに対して不安を抱くのは誰なのか?それは「尾張衆」であろう。そういう視点から改めて三使を見ると、福島正則という名に違和感を覚えるのは私だけであろうか。

福島正則だけは生粋の尾張衆にして、三名のなかでも不釣り合いな位の上位者なのである。彼が望めば、人払いをして秀次とサシで話をすることも可能であったろう。

もしそこで秀次の自決を決意させるような言葉をかけたとしたならば…。秀頼がまだ幼少の内に、秀次を抹殺してしまえば、尾張衆が台頭するチャンスがあるのではないだろうか。しかし、智謀に優れていない正則がこの筋書きを思いついたというのも考えにくい。

尾張衆の上位者であり、正則をコントロールできる人物と言えば、北政所「ねね」くらいしか見当たらない。ねねは尾張衆の浅野家・木下家の縁戚者であるから近江衆の台頭に危機感を募らせたとしてもおかしくはないだろう。

天下人秀吉の正室・ねね(高台院)の肖像画
天下人秀吉の正室・ねね(高台院)

ねねは徳川家康とかなり仲がよかったとされている点を考えると、家康との間に何か共謀があったのかもしれない。
それを裏付けるかのように秀吉の死後、近江衆は勢力が削がれていき、尾張衆は復権を果たしたように思えるのである。

あとがき

江戸時代後期の文人上田秋成作の怪異小説に『雨月物語』がある。どうでもよい話だが、私はオカルト好きで心霊ものや怪奇ものを割と好んで読む。

『雨月物語』を読もうと思ったのは単なる気まぐれであったが、なんとその中に秀次の亡霊が現れる「仏法僧」という物語が収められていたのだ。物語中の秀次には凛とした聡明さが感じられ、当時の秀次評とかなりかけ離れていることに驚いた記憶がある。

上田秋成は歴史の研究も行っていたので、史料の分析から秀次の人となりをある程度正確に把握していたのかもしれない。ふとそう思った次第である。


【主な参考文献】
  • 矢部健太郎『関白秀次の切腹』KADOKAWA / 中経出版 2016年
  • 新人物往来社編『太閤秀吉と豊臣一族:天下人と謎に包まれた一族の真相』2008年
  • 小和田哲男『豊臣秀次:「殺生関白」の悲劇』PHP研究所 2002年。
  • 山陽新聞社編 『ねねと木下家文書』 山陽新聞社 1982年
  • 松田毅一・川崎桃太 翻訳『完訳フロイス日本史』中公文庫 2000年

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  この記事を書いた人
pinon さん
歴史にはまって早30年、還暦の歴オタライター。 平成バブルのおりにはディスコ通いならぬ古本屋通いにいそしみ、『ルイスフロイス日本史』、 『信長公記』、『甲陽軍鑑』等にはまる。 以降、バブルそっちのけで戦国時代、中でも織田信長にはまるあまり、 友人に向かって「マハラジャって何?」とのたまう有様に。 ...

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